第119話 月下の頂、空の王者グリフォン
キィィィィィィィィィッ!!!
鼓膜を、
いや、魂そのものを直接引き裂くかのような、
鋭く、そしてどこまでも気高い咆哮が、
双月の輝く、極寒の夜空に響き渡った。
それは、
この、万年雪に覆われた、
神々が住まうとすら言われる、
東山脈の、その最も高い頂を支配する、
絶対的な王者の、鬨の声だった。
声の主は、
俺たちの目の前の、
切り立った岩肌の上に、
まるで、古の神話から抜け出してきたかのような、
荘厳な、そして息をのむほど美しい姿で、
その翼を広げていた。
ライオンの、力強くしなやかな胴体。
鷲の、全てを見通すかのような、鋭い頭と鉤爪。
そして、双月の光すらも覆い隠すほどの、
巨大で、そして威厳に満ちた、雄大な翼。
その、琥珀色の瞳は、
知性と、そして自らの縄張りを侵す者への、
一切の、そして微塵の容赦もない、
燃えるような、王者の怒りに満ちていた。
グリフォン。
空の、絶対的な王者。
そして、その王者が、
その命を懸けて守ろうとしているものの麓に、
俺たちが求める、最後の材料、
『煌めき苔』が、
まるで、夜空からこぼれ落ちた星々のように、
淡く、そして幻想的に、
月の光を浴びて、キラキラと輝いていた。
「…リュウガ」
俺は、ゴクリと、
凍てつく空気で乾いた喉で、唾を飲んだ。
「どうやら、とんでもない相手に、
挨拶もなしに、土足で上がり込んじまったらしいな」
(こいつは、ただの魔獣じゃない…)
俺の脳内で、
スキルウィンドウが、警鐘を乱打する。
その強大なエネルギー反応は、
これまでに遭遇したどんな敵とも、
その質が、その格が、明らかに違っていた。
(これは、ただ力任せに戦って、
ねじ伏せればいい相手じゃない。
この頂の、誇り高き王だ。
敬意を欠いた戦いは、
俺たち自身を、破滅へと導くことになるだろう…)
「グルルルルルァァァァァッ!!」
俺の、その心の声に応えるかのように、
リュウガが、
目の前の、もう一人の空の王者に対して、
一歩も引かぬ、という強い意志を込めて、
力強く、そしてどこまでも気高く、咆哮を上げた。
ギドさんが、その魂を込めて作ってくれた、
究極の翼『ドラゴンギア Lv.3 “アビス”』が、
リュウガの、覚醒したその魔力に呼応し、
蒼白い、神々しいまでの光を放つ。
戦いの火蓋は、
グリフォンの、その一閃の急降下によって切られた。
ヒュオッ!
風を切り裂く、という生易しい音じゃない。
空間そのものを、引き裂く音だ。
グリフォンは、その巨大な翼をたたみ、
まるで、天から放たれた、
黄金色の、必殺の槍のように、
恐るべき、そして信じられないほどの速さで、
俺たちへと、一直線に突っ込んでくる!
その鋭い鉤爪は、
リュウガの、あの硬い鱗ですら、
紙のように、容易く引き裂いてしまうだろう。
「リュウガ!
右へ!
そして、急上昇だ!」
俺は、スキルが予測する、
コンマ一秒先の、敵の攻撃軌道を読み、
魂で、相棒に指示を出す!
リュウガの翼が、唸りを上げる!
新しい『ドラゴンギア』は、
俺の、その思考と、そして意志と、
完全に、そして完璧に同調し、
リュウガの、その巨体を、
これまでの、常識では考えられないような、
神業の領域の機動へと導く!
俺たちの体は、
凄まじいGに押しつぶされそうになりながらも、
グリフォンの、その必殺の爪撃を、
それこそ、紙一重で、かわしきった!
「キィィッ!?」
グリフォンが、
獲物を仕留め損ねたことに、
驚きと、そして僅かな焦りを含んだような、
甲高い声を上げる。
だが、王者の攻撃は、それで終わりではない。
急降下から、一転、
その強靭な翼で、強引に体勢を立て直すと、
今度は、まるで嵐のように、
無数の、真空の刃を、
その翼から、俺たちへと放ってきた!
「くそっ、これが風の魔法か!
リュウガ、バレルロールで回避!
そして、一度、距離を取るんだ!」
俺たちは、
双月の輝く、極寒の夜空を舞台に、
この、気高き、空の王者との、
壮絶な、そして息もつかせぬほどの、
超高速の、空中での鬼ごっこを、
繰り広げていた。
それは、もはや、戦闘というより、
互いの、その飛行技術の、
そして、空を駆ける者としての、
その誇りの全てを賭けた、
神々の、舞踏のようでもあった。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
数分か、あるいは、数十分か。
極度の緊張と、集中の中で、
俺には、もはや、時間の感覚すらも曖昧になっていた。
だが、その、神々の舞踏の中で、
俺は、確かに、気づいていた。
グリフォンの、その攻撃に、
俺たちを殺そうという、
純粋な殺意は、ない、ということに。
その攻撃は、どこまでも激しく、
そして正確無比だったが、
それは、あくまで、
「これ以上、この聖域に近づくな」
「さもなくば、次はないぞ」
という、王者の、
気高い、そして最後の警告のように、
俺には感じられたのだ。
そして、俺は、見た。
グリフォンが、その翼で俺たちを牽制しながらも、
その視線が、
ほんの一瞬、
しかし確かに、
『煌めき苔』が生い茂る、その岩陰の、
さらに奥にある、
小さな、風化した洞穴へと、
優しく、そして愛おしそうに向けられているのを。
(…巣だ)
(あそこに、こいつの巣があるんだ)
(こいつは、俺たちを殺したいんじゃない。
ただ、自分の、そして、
もしかしたら、その巣の中にいるであろう、
自分の、かけがえのない子供たちを、
守ろうとしているだけなんだ…)
そのことに気づいた瞬間。
俺の中で、
この戦いの、その意味が、
完全に、そして根本から変わった。
これは、倒すべき敵との戦いじゃない。
これは、ただ、
自らの家族を、その全てを懸けて守ろうとする、
一人の、気高き父親との、
対話なのだ、と。
「リュウガ…!」
俺は、再び、魂で相棒に呼びかけた。
「もう、攻撃はするな。
戦うな。
ただ、舞うんだ。
俺たちの、その誇りと、
そして、相手への敬意を、
この、俺たちの翼で、示すんだ!」
「俺たちは、この空を、
この山を、奪いに来たんじゃない。
ただ、ほんの少しだけ、
その恵みを、分けてもらいに来ただけなんだ、と。
それを、俺たちの、この舞で、
あの、気高き王に、伝えるんだ!」
「グルルゥッ…!」
(承知した、相棒…!)
リュウガの、その黄金色の瞳が、
俺の、その意図を、
完全に、そして完璧に理解し、
力強く、そしてどこまでも優しく、輝いた。
俺たちの、その飛行のパターンが、
明らかに、変わった。
これまでの、回避と反撃を前提とした、
戦闘的な機動ではない。
もっと、滑らかで、
もっと、優雅で、
そして、どこまでも、
目の前の、空の王者への、
深い、深い敬意に満ちた、
奉納の、舞だった。
グリフォンが、天に向かって大きく旋回すれば、
リュウガもまた、
その動きを、まるで鏡に映したかのように、
完璧な軌跡で、追随する。
グリフォンが、翼を大きく広げ、
月光を浴びて、その威容を誇示すれば、
リュウガもまた、
その瑠璃色の、神々しいまでの翼を広げ、
静かに、しかし力強く、
その存在に、応える。
それは、もはや、戦いではなかった。
言葉を交わすことのできない、
二人の、空の王者が、
互いの、その魂の全てを懸けて繰り広げる、
美しく、そしてどこまでも荘厳な、
対話の儀式だった。
「キィ…?」
グリフォンの、その甲高い鳴き声から、
次第に、怒りの色が消えていく。
代わりに、そこには、
戸惑いと、
そして、目の前の、
この不思議な、青い竜とその乗り手への、
純粋な、そして強い好奇心が、
生まれ始めているのを、俺は確かに感じていた。
やがて。
その、永遠にも感じられた、
月下の、神々の舞踏が終わった時。
グリフォンは、
ゆっくりと、そして静かに、
自らの巣がある、岩陰の近くの、
ひときわ大きな岩の上に、
その威厳に満ちた体を、降ろした。
そして、じっと、
その琥珀色の瞳で、俺たちを見つめている。
それは、暗黙の、
そして絶対的な、休戦の合図だった。
俺は、リュウガに合図し、
グリフォンから、
敬意を払うに十分な距離を保った、
『煌めき苔』の、そのすぐそばに、
静かに、そして音もなく、舞い降りた。
俺は、リュウガの背中から、ゆっくりと降りる。
そして、グリフォンに向かって、
武器を、持っていないことを示すように、
両の手のひらを、ゆっくりと広げて見せた。
ただ、苔を奪っていくのは、
それは、この王者の誇りを、
そして、この聖なる山の理を、踏みにじる行為だ。
それは、ただの略奪であり、盗賊のやることだ。
俺たち『ドラゴン便』の、そして俺自身の誇りが、
それを、決して許さない。
(全ての取引には、対価が必要だ)
(全ての資源の利用には、コストが伴う)
(それが、安定したシステム…
物流の、そして、この世界の、
全ての、基本であるはずだ)
俺は、懐から、
この旅のために持ってきた、
最も上等な、そして俺のなけなしの財産でもあった、
バルガスさんの牧場特製の、
分厚い、そして極上の干し肉の塊と、
そして、リリアさんが、
お守りとして、俺にこっそり持たせてくれた、
美しく、そして不思議な光を放つ、
小さな、虹色の宝石を、取り出した。
俺は、その二つを、
俺たちと、グリフォンとの、
ちょうど中間にある、平らな岩の上に、
そっと、そして恭しく置いた。
そして、
この、気高き、空の王に向かって、
深く、深く、
心からの敬意を込めて、頭を下げた。
「偉大なる、空の王者よ。
我らは、あなた様の、この聖なる領域を、
侵すつもりは、毛頭ございません。
ただ、我らが仲間を救うため、
どうしても、この、聖なる煌めきを持つ苔が、
ほんの少しだけ、必要なのです。
どうか、この、ささやかな、
我々の、心ばかりの供物を、
その対価として、お受け取りいただけないでしょうか」
俺の、その静かな、しかし魂からの言葉。
それを、グリフォンは、
ただ、じっと、
その賢い、琥珀色の瞳で、聞いていた。
長い、長い、
息が詰まるような、沈黙。
やがて、グリフォンは、
ふっと、まるで、
人間の、ため息のようにも聞こえる、
穏やかな息を、一つ、吐いた。
そして、その威厳に満ちた岩の上から、
ひらりと、軽やかに舞い降りると、
警戒しながらも、
しかし、確かな足取りで、
俺が供物を置いた岩へと、近づいてきた。
グリフォンは、
まず、虹色の宝石を一瞥したが、
それには、一切の興味を示さなかった。
そして、次に、
バルガスさんの牧場特製の、
極上の干し肉の匂いを、
くんくんと、その鋭い鼻で嗅ぐと、
まるで、満足したかのように、
短く、しかし確かに、一声鳴いた。
そして、その干し肉を、
優しく、その鋭い嘴で咥えると、
再び、岩の上へと舞い戻り、
そして、巣のある、洞穴の奥へと、
その姿を、消していった。
おそらく、巣の中にいるであろう、
その、かけがえのない子供たちのために、
持ち帰ったのだろう。
それは、
王者の、
そして、一人の父親の、
静かで、しかし、
何よりも雄弁な、
『許可』の証だった。
俺は、
心に込み上げてくる、熱いものを感じながら、
再び、空の王に、
深く、深く、頭を下げた。
そして、
必要な分だけの、『煌めき苔』を、
感謝の祈りと共に、
慎重に、そして丁寧に、採取した。
俺が、リュウガの背に再び跨り、
この、聖なる頂を、
静かに、そして敬意を込めて、
飛び立とうとした、その時。
キィィィィィィィィッ!!
背後から、
グリフォンの、
甲高い、しかし、
もう、そこには怒りの色はない、
どこまでも澄み切った、
そして力強い、
王者の、見送りの声が、
双月の輝く、夜空に、
いつまでも、いつまでも、響き渡っていた。
それは、まるで、
空に生きる、一人の王から、
もう一人の、新しい王への、
力強い、そして温かい、エールのようにも聞こえた。




