第114話 心の鏡と、社畜の夢
黒曜石の、巨大な球体。
『深淵の水晶』の、その心臓部。
俺と、リリアさんと、アリア様は、
互いの手を、強く、固く握りしめたまま、
その、全てを吸い込み、
そして全てを生み出す、
未知なる領域へと、足を踏み入れた。
その瞬間。
俺たちの体は、
眩い、どこまでも優しい、
そして温かい光に包まれた。
重力も、
温度も、
音さえも、
この世界を構成する、全ての理が、
意味を失っていくような、不思議な感覚。
俺たちの意識は、
時間も、空間も超えた、
未知なる、そして神聖な領域へと、
まるで、母の胎内へと還るように、
静かに、そして深く、吸い込まれていった。
気づくと、俺たちは、
果てしない、星空のような空間に、
ただ、その意識だけが、
ふわりと、漂うように浮かんでいた。
肉体という、重い枷から解き放たれた、
不思議な、そして心地よい浮遊感。
リリアさんとアリア様の、
その気配と、温かい心の光も、
すぐそばに感じられる。
俺たちは、言葉を交わさなくても、
互いの想いを、
そして、これから始まるであろう試練への覚悟を、
確かに、共有していた。
『…ここが、『星の心臓』』
『『深淵の水晶』の、その核となる場所じゃ』
古竜テラ様の、
どこまでも深く、そして優しい声が、
再び、俺たちの魂に、直接響き渡る。
『ここから、この星の、
全ての生命の流れを感じるがよい。
それは、大地を巡る魔力の流れであり、
大気を渡る風の流れであり、
そして、海を満たす水の流れでもある』
『…ケンタよ。
お前さんの、その『調停の光』で、
その、巨大で、そして複雑怪奇な流れを、
読み解いてみるがよい』
俺は、テラ様の言葉に導かれるように、
意識を、さらに深く、集中させた。
スキルウィンドウを、開く。
だが、それは、もはや、
俺が知っている、半透明のスクリーンではなかった。
俺自身の感覚そのものが、
スキルと、そしてこの世界の理と、
完全に、そして完璧に、一体化していくのが分かった。
俺の知覚は、無限に広がっていく。
北の、極寒のツンドラを吹き抜ける、凍てつく風の流れ。
南の、灼熱の大砂漠を焦がす、太陽のエネルギーの流れ。
そして、リンドブルムの、あのドラゴンステーションを中心として、
俺たちが築き上げた、
人々の想いを乗せた、温かい『物流』の流れ…。
この星の、ありとあらゆるエネルギーの流れが、
まるで、俺が前職で、
来る日も来る日も、飽きるほど眺め続けた、
巨大な、そして複雑怪奇な、
グローバル・サプライチェーンのネットワーク図のように、
俺の知覚の中に、
鮮やかに、そして詳細に、流れ込んでくる。
(すごい…これが、俺の力の、本当の姿…)
『そうだ、ケンタよ。
それこそが、お前の本当の力。
この星の、この巨大なサプライチェーンの、
その淀み、滞り、そして、
今まさに枯渇しようとしている場所を、
見つけ出すのじゃ』
テラ様の言葉に導かれ、
俺は、その巨大なエネルギーネットワークの中に、
一つ、ひときわ黒く、
そしておぞましいほどに淀んだ、
巨大な『結び目』のようなものを、発見した。
そこからは、負のエネルギーが、
まるで、壊死した組織から流れ出す膿のように、
じわりじわりと、世界全体へと染み出し、
星の、その健全な生命活動を、
確実に、そして静かに蝕んでいるのが分かった。
「あれだ…!」
俺が、その『淀み』に意識を向けた、その瞬間。
『気をつけよ、小さき者たちよ』
テラ様の、緊迫した声が響く。
『水晶の核は、お前たちの、心の鏡でもある。
その淀みに近づけば、
お前たちの、その心の最も深い場所に潜む、
恐怖や、後悔や、絶望が、
形となって、お前たちの前に現れるであろう。
決して、その幻影に、囚われるでないぞ…!』
だが、その警告は、あまりにも遅すぎた。
俺たちの目の前の、
あの美しい星空のような空間が、
ぐにゃり、と、
まるで悪夢のように、歪み始めたのだ。
そして、次に俺が目を開けた時。
俺は、一人、
見覚えのある、
いや、忘れたくても、決して忘れられない、
あの、地獄のような場所に、立っていた。
チカチカと、不規則に瞬く、冷たい蛍光灯の光。
鼻をつく、埃と、安っぽいコーヒーと、
誰かの加齢臭が混じったような、淀んだ事務所の匂い。
鳴り止まない、けたたましい電話の呼び出し音。
そして、目の前に、
まるで、俺の人生の墓標のように、
絶望的な高さで積み上げられた、伝票の山、山、山…。
「さ、佐々木ぃッ!!」
背後から、
脳髄を、熱した鉄の棒で直接かき混ぜられるような、
あの忌々しい、甲高い怒声が響き渡った!
俺の、前職の、パワハラ上司だ!
「いつまで、ぼーっとしてるんだ、この給料泥棒が!
お前のせいで、どれだけ会社が損害を被ってると思ってるんだ!
お前の代わりなんざ、いくらでも、
いくらでもいるんだぞ!」
(違う…!
これは、幻だ…!
俺は、もう、ここにいるはずがない…!)
頭では、分かっている。
だが、体が、動かない。
社畜として、長年、
その心と体に、深く、深く刻み込まれた、
絶対的な恐怖と、無力感が、
まるで、冷たい、錆びついた鎖のように、
俺の全身を、がんじがらめに縛り付けていく。
「お前、最近、何か勘違いしてるんじゃないのか?
異世界だか何だか知らんが、
竜に乗って、少しばかりチヤホヤされたくらいで、
自分が、何か特別な存在にでもなったとでも思ったか?」
幻影の上司が、
ねっとりとした、嘲るような笑みを浮かべ、
俺の顔を、すぐ目の前で、覗き込んでくる。
「笑わせるなよ、佐々木。
お前は、所詮、お前だ。
何をやってもダメな、使えないやつだ。
お前がリーダー?
あの、美人の薬屋の娘や、気高い姫君を、
お前なんかが、本当に幸せにできるとでも思っているのか?」
「仲間を、世界を救う?
ふざけるのも、大概にしろ。
お前には、そんな価値はない。
お前は、ただの、使い捨ての歯車だ。
そうだろ?
元・社畜の、佐々木健太君?」
(そうだ…その通りだ…)
俺の心が、折れそうになる。
(俺は、ただの、しがない社畜だった…)
(特別な力なんて、何もない…)
(リリアさんや、アリア様、
ギドさんや、カイ様、
そして、リュウガや、ウィンドランナーたち…)
(みんなを、俺が、
俺の、その身の程知らずな夢に、
巻き込んでしまっただけなんじゃないか…?)
絶望という名の、
深く、そして冷たい沼が、
俺の、その足元から、
じわり、じわりと、這い上がってくる。
もう、ダメだ…。
そう、俺が、
全てを諦め、
その沼の中へと、沈み込もうとした、その瞬間だった。
『ケンタさんッ!!』
『ケンタ殿!
しっかりしてください!』
どこか、遠くから、
しかし、確かに、
リリアさんと、アリア様の、
必死な、そして魂からの叫びが、
俺の、閉ざされかけた心の扉を、
強く、強く、叩いた!
そうだ。
彼女たちも、今、
それぞれの、心の闇と戦っているはずだ。
リリアさんは、
薬の調合を間違え、
大切な人を、その手で傷つけてしまった、
あの、苦い過去の記憶と。
アリア様は、
尊敬する父君の、あまりにも突然な死と、
そして、たった一人で国を背負わなければならない、
その、あまりにも重い、領主としての絶望的な重圧と。
それでも、彼女たちは、
俺のことを、
仲間である、この俺のことを、
必死で、呼び続けてくれている!
俺の脳裏に、
これまでの、この世界での旅の思い出が、
まるで、走馬灯のように、
鮮やかに、そして力強く、蘇ってきた。
初めて出会った時の、リュウガの、
あの、信頼に満ちた、黄金色の瞳。
リリアさんの、太陽のような、
そして俺の心を何度も救ってくれた、あの優しい笑顔。
ギドさんの、ぶっきらぼうな、
しかし誰よりも温かい、あの不器用な励まし。
カイ様の、気高く、そして美しい、忠義の剣。
仲間たちと、共に笑い、
そして、共に戦った、
かけがえのない、あの日々…。
(……違うッ!!)
俺は、心の底から、
魂の、その全てを振り絞るように、叫んだ!
(俺は、もう、
あの頃の、無力な俺じゃない!)
(俺には、信じてくれる仲間がいる!)
(俺の、この力を、必要としてくれる人たちが、たくさんいるんだ!)
「うるさいッ!!」
俺は、目の前の、
忌々しいパワハラ上司の幻影を、
燃えるような、強い意志の力で、
真っ直ぐに、そして強く、睨みつけた!
「俺は、もう、
あんたの会社の、都合のいい歯車なんかじゃない!」
「俺は、ドラゴン便のマスター、佐々木健太だ!」
「そして、俺は、
俺の、そして俺の大切な仲間たちの未来を、
この手で、必ず、運んでみせるんだ!!」
俺が、そう叫んだ、その瞬間。
目の前の、あの地獄のようなオフィスの幻影が、
まるで、薄いガラス細工のように、
パリン、と、
甲高い、そして心地よい音を立てて、
粉々に、砕け散った!
気づくと、俺は、
再び、あの、果てしない星空のような空間に、
戻っていた。
隣には、
同じように、それぞれの心の闇を打ち破った、
リリアさんと、アリア様が、
涙を浮かべながらも、
晴れやかな、そしてこれまでで一番美しい、
力強い笑顔で、立っていた。
俺たちの絆は、
この、最も深い場所での試練を経て、
さらに強く、そして決して壊れることのないものへと、
確かに、昇華していた。
そして、俺たちの目の前には、
あの、黒く、おぞましいほどに淀んだ、
エネルギーの『結び目』が、
まるで、最後の敵のように、
その巨大な、真の姿を現していた。
『…見事だ、小さき者たちよ。
よくぞ、己の心の闇を、
そして、仲間との絆の力で、乗り越えた』
テラ様の、
満足げな、そしてどこか誇らしげな声が、
俺たちの心に、優しく響く。
『さあ、始めるがよい。
この星の、最初の…』
『そして、最も重要な、『調停』を!』
だが、その時、
俺たちの、その神聖な儀式を邪魔するかのように、
島の、外の世界から、
ある、強烈な、そして邪悪な意志が、
この聖域に、急速に近づいてきているのを、
俺は、確かに、感じ取っていた。
(テオン…!
あの野郎、もう、ここまで…!)
カイ様と、ギドさん、
そして、仲間たちが、
今、外で、命懸けで戦ってくれている。
俺たちも、急がなければならない。
俺は、リリアさんと、アリア様と、
もう一度、強く、
そして固く、手を取り合った。
三つの光が、
今、一つになろうとしていた。




