第112話 傷だらけの翼と、賢者の島の静寂
ジュウウウウウッ…
テオンの、あの傲慢な旗艦が、
海の底へとその姿を消していく音。
それが、この壮絶な死闘の、
最後の、そして締めくくりの音だったのかもしれない。
後に残されたのは、
燃え盛る船の残骸が放つ、パチパチという無慈悲な音と、
潮風に乗って運ばれてくる、鉄の焼ける匂い、
そして、勝利を掴んだはずの俺たちの、
重く、そして荒い息遣いだけだった。
勝った。
俺たちは、確かに、勝ったんだ。
だが、俺の心に、
勝利の高揚感が込み上げてくることは、なかった。
代わりに、ずしりと重い、
鉛のような疲労感と、
そして、この勝利のために支払った、
あまりにも大きな代償の重さが、
俺の全身に、そして心に、のしかかってくる。
「リュウガ…!」
俺は、背後でぐったりと、
しかし穏やかな寝息を立て始めた相棒の巨体に、
震える手でそっと触れた。
あの『蒼炎の裁き(ジャッジメント・フレア)』は、
リュウガの、文字通り、魂の全てを燃焼させる一撃だったのだろう。
その体からは、魔力が、まるで空の器のように、
ほとんど感じられなくなっていた。
今は、ただ、生きている。
それだけで、奇跡のようだった。
俺たちの、他の仲間たちも、
誰もが無事ではなかった。
「ゲイル!
しっかりするのよ!」
「シルフィ、翼の傷が深すぎるわ…!
カイ様、どうか、その方の止血を!」
カイ様は、自らの傷も省みず、
墜落しかけたウィンドランナーたちの元へと駆け寄り、
その手慣れた、しかし今は少しだけ震える手で、
懸命に、応急手当を施している。
彼の、あの美しい銀色の鎧も、
今は、おびただしい数の傷と、
そして敵の返り血で、見るも無惨に汚れていた。
船の上では、
リリアさんとアリア様が、
まるで戦場の女神のように、
負傷した船員たちや、
深く傷ついたウィンドランナーたちの手当てに、
休むことなく奔走していた。
二人の顔は、極度の疲労と、
そして仲間を想う悲しみで、雪のように真っ青だった。
それでも、その手は、決して止まることはない。
「フン…!
見てみろ、小僧…!
勝った、勝ったぞ…!」
ギドさんは、
膝に手をつき、肩で大きく息をしながらも、
その顔には、確かに、
誇りと、そして勝利の笑みを浮かべていた。
だが、そのゴツゴツとした腕にも、
痛々しい切り傷が、何本も刻まれている。
これが、俺たちの勝利の、本当の姿だった。
傷だらけで、ボロボロで、
それでも、互いを支え合い、
そして、確かに、ここに立っている。
「…行くぞ」
俺は、仲間たちに、
かすれた、しかし確かな声で言った。
「まずは、安全な場所へ。
あの島で、翼と、そして心を休めるんだ」
俺たちは、最後の力を振り絞り、
傷ついた『さざなみ号』と、
そして、互いを庇い合うようにして飛ぶドラゴンたちと共に、
水平線の彼方に浮かぶ、
あの、不気味なほどの静寂に包まれた島、
『賢者の隠れ島』へと、
ゆっくりと、しかし確実に、その船首を向けた。
島に近づくにつれて、
俺は、その異様な雰囲気に、
肌が粟立つのを感じていた。
鳥の声が、一羽たりとも聞こえない。
獣の気配も、全くしない。
ただ、潮風が、
古代の遺跡と思われる、
奇妙な形にねじれた石の柱の間を、
ヒューヒューと、まるで亡霊の囁きのように
吹き抜けていくだけだ。
スキルウィンドウを起動しても、
表示されるのは、
【警告:高密度の、しかし安定した魔力フィールドを検知】
【警告:生命反応、極めて微弱】
という、謎めいたメッセージばかり。
テオンの言っていた、『最強の守護者』。
それが、この静寂そのものだというのだろうか…?
俺たちは、
入り江の、さらに奥深くにある、
三方を、まるで巨大な城壁のような崖に囲まれた、
静かで、そして外界から完全に遮断された
小さな砂浜に、
『さざなみ号』を停泊させた。
ここなら、どんな船も、
そしてどんな魔獣も、
簡単には近づくことはできないだろう。
船が、完全に停止した、その瞬間。
張り詰めていた糸が、
ぷつりと、音を立てて切れたかのように、
仲間たちは、その場に、
次々と、崩れるように座り込んだ。
俺も、例外ではなかった。
その夜、
俺たちは、砂浜で、
小さな、しかし温かい焚き火を囲んでいた。
リリアさんが、
残っていた最後の薬草を全て使って作ってくれた、
滋養に満ちたスープが、
俺たちの、凍え、そして疲れ切った体に、
じんわりと、優しく染み渡っていく。
誰も、口を開かなかった。
ただ、静かに燃える炎と、
遠くに聞こえる、穏やかな波の音だけが、
俺たちの、言葉にならない想いを、
代弁してくれているかのようだった。
リリアさんは、
自分のことは後回しにして、
まずは、ぐったりと横たわるリュウガの、
その魔力が枯渇しかけた体に、
自分の、けなげな治癒魔法の光を、
一晩中、注ぎ続けていた。
アリア様も、その隣で、
彼女の、その小さな手を、
そっと、優しく握りしめている。
二人の姫君の間に流れる、
その静かで、そして温かい絆が、
俺の心を、少しだけ、救ってくれた。
翌朝。
多少なりとも体力が回復した俺は、
カイ様と、そしてギドさんと共に、
この、謎に満ちた島の、
最初の偵察へと向かうことにした。
リリアさんとアリア様には、
引き続き、リュウガと、
そして他の負傷した仲間たちの看病をお願いした。
「ケンタ殿、ゆめゆめ油断召されるな。
この島の静寂は、あまりにも不気味すぎる」
カイ様が、抜き身の剣を構え、
俺たちの前を進む。
彼の騎士としての本能が、
この先に待つ、未知なる危険を、
確かに感じ取っているのだろう。
俺たちは、
古代の遺跡と思われる、
苔むした、巨大な石造りの建造物の間を、
息を殺して、慎重に進んでいく。
建築様式は、
俺が知る、どんな文明のものとも違う。
まるで、神々が、その手で直接作り上げたかのような、
圧倒的な、そしてどこか畏怖の念を抱かせるような
威容を誇っていた。
やがて、俺たちがたどり着いたのは、
島の、ちょうど中心部と思われる、
円形の、巨大な広場だった。
その中央には、
直径数十メートルはあろうかという、
完璧な球体をした、巨大な黒曜石が、
まるで、この島の心臓のように、
静かに、しかし、とてつもない魔力を放ちながら、
鎮座していた。
そして、
その、黒曜石の巨石を、
まるで、大切な宝物を守るかのように、
ぐるりと、その長大な体で、
とぐろを巻くようにして、
一頭の、巨大な、
そして信じられないほどに古い、
古代のドラゴンが、
静かに、深く、眠っていた。
その鱗は、
長い、長い年月を経て、
風雨に晒された、古代の岩石そのものの色をしており、
その巨大な背中には、
まるで、この島の森の一部であるかのように、
緑の、美しい苔が、
びっしりと生えている。
それは、もはや、生物というより、
この島そのものと一体化した、
大自然の化身、
あるいは、大地の神そのもののようだった。
「…アースドラゴン…。
大地を司る、古の竜…」
ギドさんが、
畏敬と、そしてほんの少しの恐怖に、
その声を、震わせていた。
これか。
これこそが、
テオンの言っていた、
『最強の守護者』の、正体なのか…!
俺たちが、
その、あまりにも神々しく、
そして、あまりにも圧倒的な存在感の前に、
ただ、息を呑んで立ち尽くしていた、
その時だった。
眠っていたはずの、
その巨大なアースドラゴンの、
琥珀のように、深く、
そしてどこまでも透き通った瞳が、
ゆっくりと、
本当に、ゆっくりと、
まるで、何万年もの眠りから、
今、ようやく目覚めたかのように、
静かに、開かれた。
その、古代の、
そしてこの世界の全ての歴史を
その内に秘めているかのような瞳が、
真っ直ぐに、
俺たちを、捉えた。
そして、
声が、
いや、それは声ではなかった。
大地そのものが、
そして、この星そのものが、
直接、俺たちの、
魂の、その最も深い場所へと、
語りかけてきた。
『……………。』
『…ようやく、来たか』
『待ちくたびれたぞ、小さき者たちよ…』
その声は、
大陸が、そのプレートを軋ませる音のように、
どこまでも深く、重く、
そして、どこまでも、どこまでも、
優しかった。




