第106話 束の間の平穏と、新たな絆の芽生え
「そのために、俺の、そして俺たちの翼があるんだと、
そう、心の底から信じたいんです」
俺の、そのあまりにも真っ直ぐで、
そして不器用な言葉に、
アリア様は、仮面の下で、
どんな表情を浮かべているのだろうか。
夜の潮風が、
彼女の美しい銀色の髪を、
そして俺の前髪を、優しく撫でていく。
ひんやりとした、しかしどこか心地よい沈黙。
その静寂を破ったのは、
彼女の、鈴を転がすような、
しかし、どこか震えているような、小さな声だった。
「…ケンタ殿。
あなたのその夢、
とても、とても素敵ですわ」
「わたくしも…
もし、この国の、そしてわたくし自身の運命が、
もう少しだけ穏やかなものだったなら…
あなたのような翼で、
まだ見ぬ世界を、自由に旅してみたいと、
そう、願ったかもしれません…」
仮面の下から聞こえてくる、その儚げな声。
それは、一国の領主としてではない、
アリアという一人の少女の、
偽らざる、魂からの呟きのように聞こえた。
俺は、何と声をかければいいのか分からず、
ただ、黙って、
南の空に輝く、美しい十字星を見つめていた。
俺たちにできることは、
今はただ、彼女とその国を守り、
そして、彼女がいつか、
本当に心から笑える日を取り戻すための、
手助けをすることだけだ。
社畜だった頃の、無力だった俺とは違う。
今の俺には、信頼できる仲間と、この翼があるのだから。
***
リオさんの『さざなみ号』が、
古の秘密航路を進み始めてから、数日が過ぎた。
ネプトゥーリアの追撃は、今のところない。
まるで、俺たちがこの大海原から
忽然と姿を消してしまったかのように。
船の上には、
あの嵐の夜が嘘のような、
穏やかで、そしてどこか緩やかな時間が流れていた。
それは、
これから始まるであろう本当の戦いを前にした、
神様が与えてくれた、
束の間の、しかし、かけがえのない休息なのかもしれない。
ウィンドランナーたちは、
海魔との戦いで負った傷を、
リリアさんの献身的な治療で癒しながら、
元気に大空を飛び回り、
船の周囲の警戒と、斥候の役目を果たしてくれている。
その、統率の取れた美しい編隊飛行は、
もはや『さざなみ号』の名物となっていた。
そして、船の上では、
リンドブルムから来た俺たちと、
アクアティア公国の一行との間に、
少しずつ、しかし確かな絆が芽生え始めていた。
「ギドの旦那!
あんた、やっぱりただの鍛冶師じゃねえな!
この、船の魔力エンジンの不調を、
こうもあっさりと見抜いて、
しかも、もっと効率が良くなるように改良までしちまうとは!
あんた、ドワーフの中でも、相当な腕利きだろう!」
「フン、当たり前だわい、吟遊詩人!
このわしにかかれば、
こんなオンボロエンジンの修理なんぞ、
竜の爪を磨くようなもんよ!
だが、お前さんのこの船も、
なかなかどうして、面白いカラクリが仕込んであるじゃないか。
この、海流を読んで自動で舵を微調整する仕組み…
実に興味深い!」
ギドさんとリオさん。
頑固なドワーフの鍛冶師と、
胡散臭い吟遊詩人の船長。
二人は、最初は反発し合いながらも、
互いの持つ、卓越した技術と知識を認め合い、
いつの間にか、酒を酌み交わしながら
専門的な議論に花を咲かせる、
不思議な友人になっていた。
その光景は、見ていてなんだか微笑ましい。
一方、リリアさんは…。
彼女は、甲板の上で、
一人、物憂げに海を見つめていたアリア様に、
そっと、温かい薬草茶を差し出していた。
「アリア様…
お怪我は、ございませんか…?
もしよろしければ、これを…。
体を温める効果のある、薬草茶です」
リリアさんが、
いつもの、あの優しい笑顔で、
アリア様に、温かいお茶の入ったカップを差し出した。
その手は、少しだけ、緊張で震えている。
「…ありがとう、リリアさん。
あなたも、とても怖い思いをされたでしょうに…。
あなたの淹れてくれるお茶は、
いつも、心が安らぎますわね」
アリア様は、
仮面をつけたまま、
静かにカップを受け取った。
二人の姫君。
一人は、薬屋の娘として、人々の日常の幸せを願い、
もう一人は、国の領主として、民の未来をその一身に背負う。
立場は違えど、その根底にある、
誰かを想う優しい心は、きっと同じなのだ。
最初はぎこちなかった二人の会話も、
日を追うごとに、
次第に自然なものへと変わっていった。
リリアさんは、ケンタとの出会いや、『ドラゴン便』での冒険の日々を、
アリア様は、父君レオン様との思い出や、
この国の美しい自然のことを。
互いの話に耳を傾けるうちに、
二人の間には、立場を超えた、
静かで、そして温かい友情が、確かに芽生え始めていた。
そして、銀髪の騎士カイ様は、
依然として、俺から視線を外すことはなかったが、
その瞳に宿る、鋭い警戒の色は、
少しずつ、だが確実に、和らいでいるように見えた。
俺は、そんな彼に、あえて声をかけた。
「カイ様。
少し、手合わせをお願いできませんか?
長旅で、少し体がなまってしまって」
俺の、その唐突な申し出に、
カイ様は、一瞬、驚いたように目を見開いたが、
やがて、その美しい顔に、
ふっと、初めて見る、挑戦的な笑みを浮かべた。
「…よかろう。
その申し出、受けて立つ。
だが、手加減はできんぞ。
姫君の御前であるからな」
俺とカイ様は、
船員たちが見守る中、
木剣を手に、甲板の上で対峙した。
彼の剣筋は、水のように滑らかで、
しかし、氷のように鋭い。
一切の無駄がなく、洗練されている。
アリア様を、そしてこの国を守りたいという、
彼の、絶対的な覚悟の表れなのだろう。
俺も、前職で培ったしぶとさと、
異世界に来てから身につけた、
リュウガとの飛行で鍛えられた体幹を武器に、
必死で応戦する。
数合、剣を交えた後、
俺たちは、互いに息を切らし、
木剣を収めた。
「…ケンタ殿。
あなたの剣は、型にはまらない、
不思議な剣だ。
だが、その芯には、
決して折れることのない、強い意志を感じる」
「カイ様こそ。
あなたの剣は、本当に美しい。
まるで、あなた自身の魂を映しているかのようです」
俺たちは、互いの実力を認め合い、
言葉少なに、しかし確かに、
握手を交わした。
これで、少しは、彼に信頼してもらえただろうか。
そんな、穏やかで、
しかし、それぞれが未来への準備を進める日々の中、
俺は、アリア様から、
例の、古代の文字で書かれた古文書を、
正式に預かることになった。
「ケンタ殿、リリア殿。
この古文書の解読を、
どうか、あなた方にお願いしたいのです。
これこそが、『賢者の隠れ島』への、
唯一の、そして最後の手がかりなのですから」
俺は、その重い、歴史の重みが詰まった巻物を、
リリアさんに託した。
俺たちの、最高の頭脳に。
リリアさんは、
薬草を鑑定する時のように、
真剣な、そしてどこか楽しげな表情で、
その古代文字を、食い入るように見つめ始めた。
「…ケンタさん。
この星図…そして、この文字の並び…。
以前、お父さんの書斎で見つけた、
すごく古い薬草の専門書に、
これと、とてもよく似た記述があったのを覚えています。
もし、あの本があれば…
もしかしたら、私にも、
この古文書の謎を、解き明かせるかもしれません…!」
リリアさんの、その確信に満ちた言葉!
それは、俺たちの暗い航海に差し込んだ、
新たな、そして何よりも力強い希望の光だった!
だが、その時だった。
マストの上で見張りをしていたウィンドランナーの一頭が、
甲高い、そして切迫した警告音を発した!
「ピャアアアッ!!」
(前方の、岩礁地帯に、
複数の、小さな船影を発見!
あれは…ネプトゥーリアの、偵察用の高速艇です!)
束の間の平穏は、破られた。
やはり、あのテオン王子、
そう簡単には、諦めてはいなかったのだ。
俺たちの、本当の戦いが、
今、再び始まろうとしていた。




