第103話 竜の裁定、そして差し伸べられた翼
天から舞い降りた、
巨大な瑠璃色のドラゴン、リュウガ。
その、神話の中から抜け出してきたかのような、
そして神の使いのようにも見える、
圧倒的な存在感の前に、
あれほど荒れ狂っていたはずの海さえもが、
まるで、その威光にひれ伏すかのように、
一瞬の、不思議なほどの静寂を取り戻した。
アクアティアも、ネプトゥーリアもない。
ただ、そこに、
伝説の生き物と、
それに跨り、こちらを静かに見下ろす、
一人の黒髪の青年がいる。
それが、この場の、絶対的な、
そして誰もが、ただ認めざるを得ない、
揺るぎない真実だった。
(な、なんだ、これは…!?
一体、何がどうなってるんだ…!?
古文書にもないぞ、こんな竜は…!)
ネプトゥーリアの黒い軍艦の上では、
明らかにこの艦隊の指揮官と思われる、
金色の、美しい髪を持つ、
しかしその顔を驚愕と、そして深い屈辱に歪ませた
若い男が、狼狽しているのが、
上空からでもはっきりと見えた。
その姿は、先ほどまでの、
絶対的な強者としての威圧的な態度とは
似ても似つかない、実に滑稽なものだった。
最初に、その呆然とした状態から我に返ったのは、
やはり、その金髪の男――
ネプトゥーリア王国の第二王子、テオンだった。
彼は、驚愕に歪んでいた顔を、
すぐに、いつものように、
計算高く、そしてどこまでも傲慢な表情に戻すと、
空に静止する俺に向かって、
船の上から、魔力で声を増幅させる拡声器のような魔法道具を使い、
大声で、そして芝居がかった口調で呼びかけてきた。
その変わり身の速さには、ある意味感心する。
「空を駆ける、謎の旅人よ!
我々は、偉大なる海洋大国ネプトゥーリア王国である!
決して、怪しい者ではない!
我々は、あの小国の、まだ年若い姫が、
古文書に記された、古代の危険な兵器を、
その未熟さゆえに暴走させてしまったため、
それを保護し、そして世界のために管理しようとしていただけのこと!
その証拠に、今、あの船から放たれた、
天を衝くほどのすさまじい光を、あなたも見たであろう!
どうか、我々、正義の側に加勢願いたい!
あの、世界に、計り知れない災厄をもたらしかねない
危険な姫君を、共に捕らえようではないか!」
(な、なんだと…!?
どの口が、そんな白々しい、そして見え透いた嘘八百を並べるんだ!)
(俺の『異世界物流システム』は、
あの光が、破壊的なエネルギーなどではなく、
むしろ、何かを必死に守ろうとするような、
神聖で、そしてどこか悲しみに満ちた、
優しい性質のものであることを、明確に示しているというのに!)
(あの姫君が、おそらくは命懸けで起こしたであろう奇跡を、
悪びれる様子も、恥じる様子もなく、
自分たちの都合のいいように、
『危険な兵器の暴走』に、いとも容易くすり替えるとは…!)
(その悪知恵と、面の皮の厚さだけは、
本当に天下一品だな、あの金髪王子!)
俺が、そのあまりの厚顔無恥さに、
怒りで反論の言葉すら出ずにいると、
今度は、小さな船の方から、
俺の耳につけた、ギドさん特製の小型通信機を通じて、
震える、しかし凛とした声が聞こえてきた。
「…ケンタ殿、聞こえますか」
それは、リリアの声だった。
彼女とギドさんは、ウィンドランナーたちと共に、
少し離れた上空で、状況を見守ってくれていたのだ。
「あの、仮面をつけていらっしゃる方…
あの方が、このアクアティア公国の若き領主、
アリア・ルミナ・アクアティア様です!
私、以前、王都の図書館で読んだ、
古い貴族の名鑑で、
そのお名前と、そして肖像画を拝見したことがあります!
そして、あのネプトゥーリアの王子は、
ずっと、ずっと、アリア様を、そしてこの美しい国を
苦しめている、全ての元凶なのです!」
リリアの、確信に満ちた言葉に、
俺の中で、全てのピースが、
カチリと音を立てて繋がった。
なるほど、そういうことか。
やはり、俺の最初の直感は、間違っていなかった。
俺は、リュウガをゆっくりと下降させ、
二隻の船の、ちょうど真ん中の、
どちらにも属さない中立の位置で静止させると、
静かに、しかし、
その場にいる全ての者たちの、
その心の奥底まで届くような、
不思議なほどによく通る声で、口を開いた。
「…危険な兵器、か。
確かに、先ほどの光は、俺たちの想像を絶する、
凄まじいものだった。
だが、今の俺の目には、
強大な軍事力を持つ、立派な大国の軍艦が、
たった一隻の、嵐に翻弄される小さな船を、
寄ってたかって、そして一方的に追い詰めているようにしか、
見えないがな」
俺の、その静かな、しかし核心を突いた言葉に、
ネプトゥーリアの王子、テオンの顔が、
ぐっと、屈辱と怒りで歪むのが、
手に取るように見えた。
図星だったのだろう。
俺は、今度は、
小さな船の上に、凛として立つ、
仮面をつけた、小柄な姫君の方へと、
その視線を向けた。
その仮面の下にある、
本当の顔を見ることはできない。
だが、その小さな体から放たれる、
気高く、そして決して屈しないという、
強い、強い意志の光は、
痛いほどに、俺の心に伝わってきた。
「そちらの、仮面の姫君。
アリア様、とお呼びすればよろしいか。
今度は、あなたの言い分も、聞かせてもらおうか。
俺は、真実を知りたい。
あんたが、何を想い、何を願い、
そして、何を懸けて、ここにいるのかを」
「……!」
俺の、その真っ直ぐな問いかけに、
仮面の奥で、彼女が、はっと息をのんだのが分かった。
彼女は、しばしの、しかし永遠にも感じられるほどの沈黙の後、
意を決したように、
その、凛とした、しかしどこか、
壊れてしまいそうなほど儚げな声で、
ゆっくりと、しかしはっきりと語り始めた。
それは、海洋大国ネプトゥーリアから受けた、
あまりにも理不尽で、そして非道な圧力のこと。
尊敬する、偉大な父である先代領主の、
あまりにも突然で、謎に満ちた死のこと。
そして、自分が、
この国に古くから伝わる、最後の、そして唯一の希望である
『海神の涙』という古代の遺物を、
ネプトゥーリアの、その汚れた魔の手から守ろうとしていた、
嘘偽りのない、魂からの、
悲痛なまでの、言葉だった。
その、悲しく、しかし、
決して諦めないという強い意志に満ちた言葉を、
俺は、じっと、彼女の、
仮面越しの瞳を見つめながら聞いていた。
まるで、俺自身の心の奥深くにある、
かつての無力だった自分に、
語りかけられているかのように感じながら。
しばらくの沈黙。
やがて、俺は、
ふっと、口元を緩めた。
それは、同情でも、憐憫でもない。
彼女の、その気高い魂への、
心からの敬意と、そして共感の笑みだった。
「……なるほどな。
事情は、だいたい、いや、全て理解した。
そして、俺がどちらの側に立つべきかも、
もう、とっくの昔に決まっていたようだ」
俺は、再び、
憎悪と焦りの色を浮かべる
ネプトゥーリアの黒い軍艦へと向き直る。
「ネプトゥーリアの王子とやら。
悪いが、あんたたちの、その醜悪で、
そして子供じみた争いに、
これ以上、俺たちが手を出すつもりはない」
「だが、このアリア様と、
彼女が、その命を懸けて守ろうとしているものは、
どうやら、俺たちがこの地の果てまで訪れた目的と、
浅からぬ、いや、非常に深く、そして決定的な因縁があるらしい」
「よって、彼女とその船は、
この俺たち『ドラゴン便』が、
全ての責任を持って、この場から引き受けさせてもらう。
……お前ごときに、異論は、ないな?」
それは、質問の形をしていたが、
有無を言わせぬ、
この場の、そしてこの海の、
絶対的な決定だった。
その、俺の言葉に応えるかのように、
背後の、巨大な瑠璃色のドラゴン、リュウガが、
グルルル……と、低く、
しかし、大地を、いや、海そのものを揺るがすほどの
圧倒的な威圧感を込めて、
喉を鳴らした。
それだけで、空気がビリビリと震え、
海の猛者であるはずの、
ネプトゥーリアの屈強な兵士たちが、
もはや抗うことのできない、
本能的な恐怖に顔を引きつらせるのが、
手に取るように、はっきりと見えた。
「……くっ!
おのれ…おのれぇぇぇっ…!」
テオン王子は、
生まれて初めて味わうであろう、
完全な、そしてどうしようもない、
屈辱的なまでの敗北に、
その美しい顔を、怒りと憎悪で真っ赤にして、
唇を、血が滲むほどに強く噛みしめている。
だが、彼我の、そして何よりも、
その存在の格の差は、
もはや、誰の目にも、そして彼自身にも明らかだった。
「……覚えておれよ、アクアティアの姫…!
そして、謎の竜騎士…!
この屈辱、決して、決して忘れはせんぞ…!
必ず、お前たちを、この海の藻屑にしてくれるわ…!」
呪詛のような、そしてあまりにも陳腐で、
負け犬の遠吠えにしか聞こえない捨て台詞を残し、
テオン王子の、あの巨大で威圧的だった黒い軍艦は、
ゆっくりと、しかし、
その巨大な船体に似合わぬほどの、
みっともない、そして哀れなほどの悔しさを滲ませながら、
その場を、逃げるように離れていった。
嵐が、去った。
後に残されたのは、
俺たち『ドラゴン便』の、頼もしい翼たちと、
そして、小さな船の上で、
まだ、今、目の前で起こったことが
信じられない、という顔で、
呆然と、しかしどこか安堵したように立ち尽くす、
アリア様とその仲間たちだけだった。
やがて、ケンタとリュウガは、
ゆっくりと、
アリアたちが乗る、傷ついた船『さざなみ号』のそばまで
舞い降りてきた。
その動きは、嵐の後の、
穏やかな風のように優しかった。
「さて……。
改めて、自己紹介させていただけますか」
「僕は、ケンタ。
こちらは、俺のかけがえのない、最高の相棒のリュウガです」
「そして俺たちは、
どんな荷物でも、どんな場所へでも、
依頼主の、その大切な想いと共に届ける、空飛ぶ運び屋、
『ドラゴン便』です」
「あなた方の、その守ろうとしていた、かけがえのない『お宝』と、
そして、あなたご自身の、その気高い運命について、
少し、詳しくお話を伺わせていただいても、
よろしいでしょうか……アリア様?」
ケンタは、そう言って、
穏やかに、そしてどこか人懐っこい、
太陽のような笑みを浮かべた。
それは、あの腹黒いテオン王子の、
計算ずくの、冷たい笑みとは全く違う、
どこか、澄み切った、
雨上がりの青空のような、
不思議な安心感を覚える笑顔だった。
アリアは、
仮面の下で、
自分の心臓が、
もうずっと、ずっと痛んでいなかった胃の代わりに、
きゅう、と甘く、そして温かく締め付けられるのを、
確かに、はっきりと感じていた。
それは、恐怖や緊張とは違う、
温かくて、そして少しだけくすぐったい、
生まれて初めて感じる、
不思議な、そして心地よい痛みだった。




