第100話 アクアティア入港と公国の現状
夕陽に染まるアクアティア公国の港は、
俺たちが想像していた以上に、
美しく、そしてどこか物悲しい、
不思議な雰囲気を漂わせていた。
白壁の家々が、まるで絵本から抜け出してきたかのように
丘の斜面に沿って立ち並び、
石畳の道が海岸線に沿って、優雅な、
しかしどこか寂しげな曲線を描いている。
港には、いくつかの古風な、
しかし手入れの行き届いた漁船や、
小型の、帆が美しく畳まれた商船が停泊しているが、
その数は、俺たちがマードック氏から聞いていた
往年の賑わいを考えると、驚くほど少なく、
かつての活気を失い、まるで時間が止まってしまったかのように
静まり返っている。
街全体が、
まるで大きな、そして深い、
どうしようもないため息をついているかのように、
活気がなく、そして少しだけ寂しげに見えた。
潮風だけが、人気のない建物の間を、
虚しく、そして物悲しく吹き抜けていく。
「ここが…アクアティア公国か…。
確かに、マードックさんの言う通り、息をのむほど美しい場所だが…
どこか、街全体が、
まるで重い病に罹っているかのように、
元気をなくしているように感じるな」
俺は、リュウガの背中から港の様子を、
隅々まで注意深く眺めながら、
思わずそう呟いた。
その静けさは、決して平和がもたらすものではなく、
むしろ、何か巨大な力によって抑圧されたような、
不自然で、そして息苦しいものに感じられた。
「ええ…マードック様から聞いていた、
活気ある港町という話とは、
少し、いえ、かなり違う印象を受けますね…。
それに、ケンタさん、見てください。
あの、港の沖合に浮かんでいる大きな船…
あれは、もしかして…」
リリアさんが、不安そうに眉をひそめながら、
港の沖合に、まるで威嚇するように停泊している、
一際大きく、そして禍々しいまでの威圧感を放つ
黒い軍艦を指差した。
その船体に描かれた紋章は、
俺たちが見たことのない、
獰猛な、巨大な海獣を象ったものであり、
その船首からは、
リンドブルムのどんな城壁をも打ち砕けそうな、
巨大な衝角が突き出している。
「あれは…間違いない、
海洋大国『ネプトゥーリア王国』の軍艦かもしれんな。
奴らが、この港を、
そしてこの国を、監視しているのか…?」
ギドさんが、苦々しい、
そして怒りを滲ませた表情で吐き捨てた。
その言葉に、俺たちの間に、
再び、ピリリとした緊張が走る。
海魔との死闘を乗り越えた先に待っていたのは、
もっと厄介で、もっと狡猾な、
人間の欲望という名の、新たな脅威だったのかもしれない。
俺たちは、人目を、
特にあの黒い軍艦の目を避けるように、
港から少し離れた、
切り立った、人の気配のない崖に囲まれた
静かな入り江にリュウガを静かに着陸させた。
ウィンドランナーたちには、
引き続き上空で、雲に隠れながら周囲の警戒にあたってもらい、
俺とリリアさん、そしてギドさんの三人だけで、
徒歩でアクアティアの街の中心部へと向かうことにした。
ピクシー・ドレイクのレインだけは、
斥候として、そしてリリアさんの護衛として、
彼女の肩にちょこんと乗り、
好奇心旺盛な、しかし警戒を怠らない目で、
静かに周囲を見回している。
街の入り口には、
簡素な、そしてどこか寂れた見張り小屋と、
数人の、まるで魂が抜けてしまったかのように
覇気のない表情の兵士がいるだけだった。
俺たちが、リンドブルムから来た旅の者だと告げると、
兵士たちは、一瞬、驚いたような、
そしてどこか面倒くさそうな顔をしたが、
特に厳しい尋問を受けることもなく、
あっさりと街への立ち入りを許可してくれた。
どうやら、海洋大国ネプトゥーリアからの、
日々の、そして終わりの見えない圧力で、
彼らは、もはや外部からの訪問者を
厳しく取り締まる気力すら失っている、といった雰囲気だ。
彼らの疲弊しきった、諦めに満ちた表情が、
このアクアティア公国が置かれた、
厳しい、そして絶望的な現状を、
何よりも雄弁に物語っているようだった。
街の中は、
外から見た印象と同じように、
どこか活気が失われ、
まるで重苦しい、見えない空気に
包まれているかのように感じられた。
市場には品物が少なく、
並べられている商品も、
その品質に比べて不当に値段が吊り上げられているように見える。
道行く人々の表情も、どことなく暗く、
皆、何かを恐れるように、
あるいは、何かから目を逸らすように、
俯いて早足で、壁際を通り過ぎていく。
そして、時折、
立派な、しかしどこか傲慢な輝きを放つ鎧を身にまとい、
腰に、見せびらかすように美しいサーベルを下げた、
ネプトゥーリア王国の兵士らしき者たちが、
我が物顔で街を闊歩し、
地元のアクアティアの民たちに、
威圧的な、そして侮辱するような態度を
取っている姿も見受けられた。
その傲慢で、理不尽な光景は、俺の胸に、
静かだが、どうしようもない、
煮え繰り返るような怒りの炎を灯した。
「…ひどいな。
これは、マードックさんの話以上かもしれん。
まるで、見えない、しかし絶対に逃れられない鎖で、
街全体が縛り付けられているようなものじゃないか」
ギドさんが、吐き捨てるように、
しかし、その大きな声が周囲に聞こえないよう、
声を潜めて言った。
彼の故郷も、かつて、
もっと強大な国に、
これと似たような状況に置かれていたのかもしれない。
その言葉には、他人事ではない、
深い共感と、そして燃えるような怒りが込められていた。
「ケンタさん、まずは情報を集めましょう。
私たちが求める『深淵の水晶』が眠るという、
あの古代遺跡のこと。
そして、このアクアティア公国が、
一体、どんな深刻な問題を抱えているのか…
それを、正確に知ることが、
私たちの、ここでなすべき最初の目的です」
リリアさんが、気を引き締めるように、
しかし、その声には、
決して屈しないという芯の強さが通って、言った。
彼女の瞳には、もう恐怖の色はなく、
目の前の、あまりにも理不尽な困難に、
真っ直ぐに立ち向かおうとする、
静かな、しかし燃えるような決意が宿っていた。
彼女は、もう、俺が守るだけの存在ではない。
共に戦う、最高の仲間だ。
俺たちは、まず、
街で一番大きな酒場だという
『海猫亭』という名前の、
古びた、しかしどこか趣のある木の看板が掲げられた店に、
情報を集めるため、そして腹ごしらえのために
入ってみることにした。
酒場は、いつの時代も、どこの世界でも、
人々の本音が集まる、情報交換の場として最適だ。
それに、海魔との死闘と、
長い空の旅で、俺たちの腹は、もうペコペコだった。
『海猫亭』の店内は、
昼間だというのに薄暗く、
そしてどこか荒んだ、
まるで時間が止まってしまったかのような、
寂寥とした雰囲気が漂っていた。
客はまばらで、
数人の、くたびれた様子の船乗りたちが、
まるで何かを恐れるように、
あるいは、何かから目を逸らすように、
押し黙ったまま、安物のエールを呷っている。
カウンターの奥では、
人の良さそうな、しかしその目の奥には
どうしようもない深い憂いを湛えた、
初老の店主が、
ただ黙々と、ひびの入ったグラスを磨いていた。
その広い、しかし寂しい背中が、
この活気を失った街の、
全ての疲弊と諦めを物語っているようだった。
俺たちは、カウンターの隅の、
あまり目立たない席を選んで腰を下ろし、
とりあえずエールと、何か腹の足しになるものを注文した。
出されたエールは、どこか気が抜けていて、
黒パンは、硬く、そして少しだけ湿気っていた。
「…お客さん、見かけない顔だね。
どっから来たんだい?
悪いことは言わん、
こんな、終わっちまったような寂れた港町に、
長居はしない方がいい。
何の用だい?」
店主が、グラスを拭く手を止め、
低い、そしてどこか探るような、
しかし俺たちを心配するような声で尋ねてきた。
その目には、旅人への僅かな好奇心と、
それ以上に、見慣れぬ者への深い警戒の色が、
濃く、そして悲しげに浮かんでいる。
「ああ、俺たちはリンドブルムから来た、ただの旅の者だよ。
少し、このアクアティアで調べたいことがあってね。
この近くに、古い遺跡があると聞いて、
興味があるんだ」
俺は、できるだけ当たり障りのないように、
そして相手を刺激しないように、
慎重に言葉を選んで答えた。
「リンドブルムから…?
そりゃあ、また随分と遠い、大陸の真ん中から来たもんだ。
だが、今のこのアクアティアに、
あんたたちのような、真っ当な旅人のお眼鏡にかなうような
面白いものがあるとは、とても思えんがねぇ…。
遺跡なら、確かに、この先の岬に、
海に沈んだ、古い神殿があるとは聞くが…
だが、あそこは…」
店主は、自嘲するように、そしてどこか諦めたように笑い、
そこで言葉を濁した。
「何かあったのかい?
この街は、なんだか…
まるで魂が抜けてしまったかのように、活気がないように見えるが…」
俺が、核心に触れるように、
そして、彼の心を傷つけないように、
静かに、そして真剣に尋ねると、
店主は、大きな、そしてこの世界の全ての悲しみを
詰め込んだかのような、重いため息をついた。
そのため息には、この街の人々の、
声にならない、そして誰にも届かない悲鳴が、
確かに込められているようだった。
「…全て、ネプトゥーリアの、あの海の悪魔どもに
全てを奪われてしまったのさ。
あの、海の向こうの、強欲で、そして冷酷な大国の奴らが、
最近、やたらとこのアクアティアにちょっかいを出してきてな。
不平等な、奴隷契約のような交易条件を、
その圧倒的な軍事力を背景に、力ずくで押し付けてきたり、
うちの、まだ若い漁師たちを、
奴隷同然に、無理やり兵士として徴兵しようとしたり…
逆らえば、何をされるか分からん。
見せしめに、漁船を沈められた者もいるくらいだ。
おかげで、この美しい港町は、
すっかり活気を失っちまった。
魚も、満足に獲りに行くことができず、市場も閑散とし、
みんな、明日の、いや、今日の生活さえどうなるか分からないって、
ただ怯えて、息を殺して生きてるのさ。
先代の、我らが誇り高き領主様…レオン様が生きておられた頃は、
こんなことは、決してなかったんだがねぇ…。
あの頃は、この街も、もっとずっと、希望に満ちた、
笑顔溢れる良い街だったんだが…」
店主の声には、
深い、深い悲しみと、
やり場のない、どうしようもない怒り、
そして、何よりも、
どうすることもできない、という絶対的な無力感が、
痛いほどに、そして悲しいほどに込められていた。
「先代の領主様…レオン様、ですか。
今の領主様は、どうなんだい?
その…ネプトゥーリアの、あまりにも横暴な振る舞いを、
止めることはできないのか?」
ギドさんが、低い声で、しかしその瞳には
鋭い怒りの炎を宿して尋ねる。
彼もまた、この理不尽な状況に、
我慢ならないものを感じているのだろう。
「…今の領主であらせられるアリア様は、
まだ、あまりにもお若い。
先代のレオン様が、本当に突然、
謎の病で、あっけなく亡くなられてな…
その後を、たったお一人で、
無理やり継がされるような形になったんだ。
お心は、誰よりも優しくて、気高く、
いつも、我々のような民のことを、
第一に、そして何よりも深く想ってくださってはいるんだが…
いかんせん、あのネプトゥーリアの、
海の悪魔のような、狡猾で残忍な連中と、
たったお一人で渡り合うには、
あまりにも…あまりにもお若すぎるし、
そして、あまりにもお優しすぎるのさ…」
店主は、そこで再び言葉を濁し、
悲しそうに、そして心から悔しそうに顔を歪めた。
その表情からは、
幼い、孤立無援の領主への深い同情と、
そして、この愛する国が、
静かに、しかし確実に沈んでいくのを、
ただ見ていることしかできない、
どうしようもない絶望感が、色濃く、そして痛いほどに読み取れた。
アリア様…
それが、このアクアティア公国を、
今、たった一人で治めているという、
若き、そして気高き女性領主の名前か。
そして、彼女が今、
海洋大国ネプトゥーリアという、
あまりにも巨大な脅威に、
たった一人で立ち向かおうとしているというのか…。
その重圧は、想像を絶するものだろう。
「それで、俺たちが調べたいのは、
この近くにあるという、古い遺跡のことなんだが…
『深淵の水晶』ってものに、何か心当たりはないかい?
どんな小さな言い伝えとかでも、構わないんだが」
俺は、本題を切り出した。
この街の、そしてアリア様という領主の状況も、
もちろん気にはなる。
だが、俺たちの第一の目的は、
あくまで『深淵の水晶』の入手だ。
それがなければ、俺たちの未来もない。
店主は、俺のその言葉に、
少し驚いたような、
そして「お前たちもか」とでも言いたげな顔をしたが、
やがて、声をさらに、囁くように潜め、
まるで禁忌に、触れてはならない聖域に
触れるかのように、言った。
「…遺跡、ねぇ。
あんたたち、まさか、
あの『禁断の聖域』とまで呼ばれている、
岬の先の、海に沈んだ、
古の神殿に行くつもりじゃないだろうな?」
禁断の聖域…?
海に沈んだ、古代神殿…?
やはり、そこか…!
「その遺跡はな、
このアクアティアの民にとっては、
古くから、我らが信仰する海の神々を祀る、
最も神聖で、そして何よりも大切な場所として
崇められてきたんだ。
だが、同時に、
古代の、強力で、そして解くことのできない呪いが
かけられているとも言われていてね。
興味本位で、あるいは欲望に駆られて下手に近づけば、
二度と、二度と生きては戻ってはこれんぞ…
海の藻屑となって、永遠に彷徨うのがオチだ…」
店主の目は、ただの迷信深い田舎者のそれではない。
そこには、遺伝子レベルで刻み込まれたかのような、
確かな、そして絶対的な恐怖が映し出されていた。
「それに、最近じゃ、
あの忌々しい、強欲なネプトゥーリアの連中も、
あの遺跡に何か特別な力があるとか、
あるいは、国をも動かすとんでもないお宝が眠っているとか
どこからか嗅ぎつけたらしく、
頻繁に、最新鋭の調査船を送っては、
見張りの兵士を、その周辺海域に
まるで網を張るように配置しているという噂だ。
一体、奴らが何を探しているのかは知らんがね…
ろくなことじゃないのは、確かだ。
関わらないのが、身のためだよ、旅の人…」
ネプトゥーリア王国まで、
あの遺跡を、そしておそらくは『深淵の水晶』を狙っている…?
やはり、『深淵の水晶』は、
ただの珍しい、そして強力な冷却効果を持つ鉱石ではないのかもしれない。
何か、国家の運命すらも左右するほどの、
とてつもない、そして計り知れない秘密が
隠されている可能性もある。
俺たちの前途には、
想像していた以上に、
多くの困難と、そして、
あまりにも強大で、狡猾な敵が、
その牙を剥いて待ち受けていそうだ。
酒場を出た俺たちは、
重い、鉛のような足取りで、
そして、さらに、さらに重くなった心で、
今夜の、雨露をしのぐための宿を探すことにした。
アクアティアの空には、
いつの間にか、
厚く、そしてどこまでも黒い暗雲が垂れ込めていた。
それは、まるで、
この公国が抱える、深く、そして出口のない闇と、
そして、これから俺たちが立ち向かわなければならない
あまりにも過酷な苦難を
象徴しているかのようだった。
俺は、ただ、
どうしようもない怒りと、
そして、ほんの少しの無力感に、
固く、固く、拳を握りしめることしかできなかった。
この街を、この国を、そして、
まだ見ぬ、その若き領主を、
このまま見過ごすことなど、
俺には、到底できそうになかったからだ。




