第99話 海魔との死闘とアクアティアの灯
「クソッ!
まさか、こんな大海原のど真ん中で、
クラーケンの下位種とはいえ、
これほどの、山のような大型個体に、
しかも群れで遭遇するとはな!
運が悪いにもほどがあるぜ!
神は、俺たちに死ねとでも言うのか!」
ギドさんが、忌々しそうに、
そしてどこか自嘲するように顔を歪め、
工房から持ってきた、ドワーフ族秘伝の、
雷の魔力を帯びた特殊合金で作られた投擲斧を、
その太い腕で、力強く、そして決意を込めて構えた。
その顔には、明らかな緊張の色が浮かんでいる。
彼ほどの、幾多の修羅場を潜り抜けてきたであろう
歴戦の勇士ですら、この絶望的な状況には、
恐怖を感じているのかもしれない。
海面に、そのおぞましい巨体を完全に現した複数の影――
それは、紛れもなく、
古の伝承や、船乗りたちの悪夢の中で、
恐怖の象徴として語り継がれてきた海棲魔獣、
クラーケンの亜種、『リーフ・テンタクラ―』の、
恐るべき群れだった!
その一体一体が、もはや小島と呼ぶのも生易しいほどの、
丘のような大きさを誇り、
海面からは、大蛇のように太く、滑らかで、
そして無数の、獲物を捕らえ、そして骨まで砕くための
強力な吸盤を持つ触手が、
何本も、何十本も、まるで意思を持った呪われた森のように、
うねり、蠢きながら、こちらへと、
その絶望的なまでのリーチを伸ばしてくる。
その先端には、鋭い、黒曜石のような骨質の鉤爪まで備わっており、
一度でも捕らわれれば、
リュウガの巨体ですら、ひとたまりもないだろう。
「ケンタさん!
あれ、どうするんですか…!?
数が、数が多すぎます…!
それに、なんだか、すごく…
すごく気持ち悪いです…!」
リリアさんの声が、
生理的な嫌悪感と、そして抗いがたい恐怖で、
か細く震えている。
無理もない。
あんな、神話の中の悪夢が具現化したかのような
おぞましい化け物を、こんな至近距離で、
しかも絶望的な数の群れで目の当たりにして、
平常心でいられるはずがない。
彼女の顔は、雪のように真っ青になっていた。
「落ち着け、リリアさん! 大丈夫だ、俺たちが、
俺たちが必ず、君を守るから!」
俺は、リリアさんを安心させるように、
できるだけ力強く、そして冷静に言った。
だが、俺自身の額にも、
嫌な、そして冷たい汗が、
じっとりと、滝のように滲んでいた。
これは、まずい。
これまでのどんな危機とも違う、
本能が、生存本能が、
「死」を予感させる、非常にまずい状況だ。
「リュウガ! ウィンドランナーたち!
絶対に囲まれるな!
奴らの触手の攻撃範囲は、お前たちが思っている以上に、
広く、そして速いぞ!
常に動き続けろ! 一撃離脱を徹底するんだ!
狙うは、奴らの体の中央部分にある、
あのルビーのように赤く、不気味に輝く、
複数の目玉だ!」
俺は、『異世界物流システム』から、
まるで警報のように、瞬時に、そして断続的に送り込まれてくる
膨大な情報を元に、
仲間たちに、的確な、そして生存への唯一の道となる指示を出す!
リーフ・テンタクラ―の、唯一とも言える弱点。
それは、その巨大な、しかし比較的柔らかい体の中央部分に、
複数存在する、感覚器官であり、
そして魔力の中枢でもある、赤い目玉だ!
あれを、一つでも多く潰せば、あるいは…!
「グルルルルルァァァァァッ!!!」
「ピャアアアアアッ!!!」
リュウガとウィンドランナーたちは、
俺の、魂の叫びにも似た指示に応え、
一斉に、死地へと向かう覚悟を決めたかのように、
リーフ・テンタクラ―の恐るべき群れへと、
勇猛果敢に襲いかかった!
リュウガは、その圧倒的なスピードと、
そして『ドラゴンギア Lv.2』によってさらに研ぎ澄まされたパワーで、
まるで嵐のように、縦横無尽に迫りくる触手の攻撃を、
神業のような、紙一重の飛行技術で巧みにかわしながら、
渾身の、蒼白い炎のブレスを、
最も近くにいた敵の、巨大な一つ目の巨眼に、
寸分の狂いもなく叩き込む!
ジュウウウウッ!
肉の焼ける、おぞましい音と共に、
ブレスが直撃し、赤い目玉が弾け飛ぶ!
リーフ・テンタクラ―が、甲高い、
まるでガラスを引っ掻くような、耳障りな苦悶の絶叫を上げる!
ウィンドランナーたちも、
その俊敏な動きと、
風を鋭い刃と変える、彼ら特有の特殊能力で、
次々と敵の触手を切り裂き、その動きを封じていく!
彼らの連携は見事で、
まるで一つの、風の意思を持った生き物のように、
統率された、そして流れるような動きで、
巨大な敵の群れを、巧みに翻弄する!
シルフィも、その小さな体で果敢に戦い、
リリアの、涙ながらの、しかし的確な指示を受けながら、
敵の注意を巧みに引き付ける、
見事な、そして命懸けの陽動を見せていた。
ギドさんも、リュウガの背中から、
ドワーフ特製の、雷の魔力が込められた投擲斧を、
まるで意志を持っているかのように、
恐るべき正確さで、
次々と、別の個体の目玉へと投げつける!
その一撃一撃が、確実に敵の視界を奪い、
その動きを鈍らせていく!
「ドワーフの投擲術をなめるなよ、海の化け物どもが!
わしの故郷の山の岩より、脆いわ!」
ギドさんの、己を鼓舞するかのような雄叫びが、
荒れ狂う大海原に、力強く響き渡る!
俺も、愛用の、ギドさん特製の剣を抜き放ち、
リュウガの背中から、
まるで踊るように、縦横無尽に迫りくる触手を切り払い、
仲間たちの、そして何よりもリリアさんを守るための
援護に回る!
剣先が、ヌルリとした、気色の悪い感触の触手に触れるたびに、
俺の腕に、おぞましい痺れと、吐き気が走る。
だが、リーフ・テンタクラ―の、
その原始的で、そして圧倒的な生命力と、
そして何よりも絶望的なまでのその数は、
俺たちの想像を、そして覚悟を、
遥かに、遥かに超えていた。
いくら目を潰しても、いくら触手を切り裂いても、
奴らの攻撃は、一向に衰える気配がない!
それどころか、傷つけられた怒りで、
さらに凶暴性を増し、
より激しく、より無差別に、
まるで死の嵐のように、
俺たちに襲いかかってくる!
「くそっ、キリがない!
このままじゃ、本当にこっちが先に消耗しちまうぞ!
リュウガのブレスも、そう何度もは使えるはずがないんだ!」
俺の心に、焦りが、
まるで黒い染みのように、じりじりと広がっていく。
リュウガの動きも、
徐々にだが、確実に、そのキレを失い、
鈍くなってきているのが、
鞍を通じて痛いほど伝わってくる。
ウィンドランナーたちの中にも、
触手の、岩をも砕くほどの強力な一撃を受けて、
その美しい翼を傷つけ、
苦しげな、悲痛な悲鳴を上げて、
海面へと墜落しかける者が出始めていた。
リリアさんが、その度に、
「しっかりして!」と叫びながら、
必死の形相で、しかし驚くほど正確に
回復薬の入った小瓶を投げ渡している。
その姿は、あまりにも健気で、そして痛々しかった。
「ケンタさん!
私が、あいつらの動きを、
少しでも、一瞬でもいいから止めます!
その隙に、リュウガさんで、
あの、ひときわ大きく、
そして禍々しいオーラを放っている、
リーダー格と思われる個体の、
あの中央の巨大な目を狙ってください!
あれを倒せば、あるいは…あるいはきっと…!」
リリアさんが、決意を秘めた、
しかし、その奥にどうしようもない恐怖を押し殺した、
震える声で叫んだ!
彼女の手には、いつの間にか、
氷晶の洞窟への旅の前に、
万が一の時のためにと、彼女が夜なべをして準備していた、
特殊な、そして強力な薬草を調合した、
いくつかの、不気味な色の小袋が握られている!
それは、強烈な、神経を麻痺させるほどの刺激臭と、
そして、視覚だけでなく、魔力探知さえも狂わせる
特殊な目くらまし効果のある煙を発生させる、
リリア特製の、最後の、最後の秘密兵器だった!
「リリアさん!
無茶だ!
危なすぎる! それだけは絶対にダメだ!」
俺は、思わず、心の底から叫んだ。
彼女を、そんな危険な場所に、
そんな死地に、行かせるわけにはいかない。
絶対にだ。
彼女を失うくらいなら、俺は…!
「大丈夫です!
私を、そして、私たちの絆を信じてください!
それに、私だって、『ドラゴン便』の、
かけがえのない一員ですから!」
リリアさんは、俺の制止を、
涙ながらの、しかしこれまでで一番美しい笑顔で振り切り、
リュウガの背中から、
ピクシー・ドレイクのレインの小さな背に、
まるで風に乗るように、
そして一筋の流れ星のように軽やかに飛び乗ると、
リーフ・テンタクラ―の群れの、
まさにその頭上へと、
果敢に、そして一切の迷いなく、
一直線に飛んでいった!
その小さな、しかし気高い姿は、
あまりにも勇敢で、
そして、あまりにも儚げで、
俺は、その光景を、ただ見ていることしかできなかった。
そして、彼女は、
懐から取り出した薬草の小袋を、
次々と、リーダー格と思われる巨大な個体の、
複数の、ルビーのように輝く目玉めがけて、
その小さな体の、ありったけの力を込めて投げつける!
小袋が、敵の巨体や水面で弾けるように破裂すると、
中から強烈な、鼻を突き、脳を揺さぶる刺激臭と、
視界だけでなく、全ての感覚を遮断するような、
濃密な白い煙が、もうもうと立ち昇り、
リーフ・テンタクラ―の群れの動きが、
明らかに、そして劇的に鈍くなった!
奴らは、苦しそうに、そして混乱したように身悶えし、
その巨大な触手を、無茶苦茶に、
味方同士でさえも絡み合いながら振り回している!
「今だ、リュウガ!
あいつの、一番大きな、中央の目を狙え!
ありったけの力で!
俺たちの、全ての想いを、
そして、リリアの勇気を、無駄にするな!
その一撃に、全てを込めろ!!」
「グルルルルルァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」
リュウガは、俺の魂の、
血を吐くような叫びに呼応するかのように、
最後の、最後の力を振り絞るかのように、
天を衝き、海を割り、
そして世界そのものを震わせるほどの、
凄まじい、そして神々しいまでの雄叫びを上げた!
その口元に、
これまでで最も強力な、
そして最も純粋な、
まるで小さな、蒼い太陽が生まれたかのような、
圧倒的な蒼白い炎のブレスが収束していく!
それは、もはや炎というより、
凝縮された、絶対的な破壊のエネルギーの塊、
まさに竜の怒りそのものだった!
そして、その究極の一撃は、
俺たちの、全ての希望と、
リリアの、命懸けの勇気を乗せて、
正確に、
寸分の狂いもなく、
リーダー格のリーフ・テンタクラ―の、
最も大きく、そして禍々しいまでの赤い輝きを放つ、
中央の巨大な目玉を、
世界から全ての音を消し去るほどの閃光と共に、
完全に、そして完璧に捉えた!
ギシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア-!!!!!!!
リーフ・テンタクラ―は、
もはや悲鳴とも絶叫ともつかない、
断末魔の、耳をつんざくような、
魂を削り取るかのようなおぞましい叫びを上げ、
その山のような巨体を、激しく、そして無様に痙攣させた後、
やがて、全ての力を失い、
ゆっくりと、
ゆっくりと、
蒼く、そして深い、海の底へと、
そのおぞましい姿を沈めていった…。
残りの個体も、リーダーを失ったことで完全に統率を欠き、
恐慌をきたしたように、
次々と仲間たちの手によって討伐されていく。
「はぁ…はぁ…はぁ…
やった…のか…?
本当に…俺たちは、勝ったのか…?」
俺は、荒い息を整えながら、
静けさを取り戻した、
しかしおびただしい数の魔獣の残骸が浮かぶ海面を、
ただ、呆然と見つめていた。
リュウガも、ウィンドランナーたちも、
そして、レインの背中でぐったりとしているリリアさんも、
皆、疲労困憊だった。
だが、その顔には、
確かに、絶望的な死闘を乗り越えた者だけが浮かべることのできる、
勝利の、そして安堵の色が、
朝日を浴びて、輝いていた。
俺たちは、
この広大な、そしてあまりにも過酷な海の試練を、
仲間たちとの、
言葉では言い表せないほどの、
深く、そして強い絆の力で、
見事、乗り越えたのだ。
その夜、俺たちは、
近くの、地図にも載っていないような
小さな無人島に降り立ち、
傷ついた翼と、疲れ果てた体を休めた。
焚き火を囲み、
リリアさんが、最後の力を振り絞って作ってくれた
温かい薬草スープを飲みながら、
俺たちは、今日の、あの悪夢のような死闘を振り返り、
そして、互いの健闘を、
言葉少なに、しかし心の底から称え合った。
「リリアさん、本当に、本当にありがとう。
君の、あの時の勇気がなければ、
俺たちは、きっと、みんな…」
俺は、心からの感謝と、
そして、彼女を危険な目に遭わせてしまったことへの
深い後悔を込めて言った。
「いえ…私なんて…
ケンタさんと、リュウガさんと、
ギドさんと、ウィンドランナーさんたち、
そして、私を守ってくれたレインちゃんがいたから…
みんながいたから、勇気が出たんです…
私、怖くなかった…ううん、すごく怖かったけど、
でも、みんなと一緒なら、って思えたから…」
リリアさんは、顔を赤らめながら、
しかし、これまでで一番誇らしげな、
そして美しい笑顔で微笑んだ。
その笑顔は、どんな宝石よりも、
どんな奇跡よりも美しく、
俺の心を、どこまでも温かく照らした。
「フン、まあ、たまには役に立つこともあるんだな、
人間も、薬屋の嬢ちゃんも、
そして、あのうるさいだけのチビ竜も」
ギドさんは、憎まれ口を、いつものように叩きながらも、
その目は、優しく、そして誇らしげに
リリアさんと、そして傷ついたウィンドランナーたちを
見つめていた。
彼のその不器用な、しかし深い優しさが、
今の俺たちには、何よりも心強く、
そしてありがたかった。
数日後、
俺たちの目の前に、
ついに、目的地の、懐かしい島影が、
朝靄の向こうに、ぼんやりと見えてきた。
緑豊かな丘陵地帯と、
その麓に広がる、
白壁の、美しい港町。
あれが、俺たちの旅の目的地、アクアティア公国だ!
長い、長い、そしてあまりにも過酷な船旅…
いや、空の旅だった。
だが、俺たちの本当の冒険は、
まだ、ようやく始まったばかりなのだ。
『深淵の水晶』は、
この島の、どこかに眠っているはずだ。
アクアティアの港に、
穏やかな朝の陽光が、優しく降り注いでいた。
その光は、
まるで俺たちの、命懸けの帰還を歓迎しているかのように、
どこまでも温かく、そして希望に満ちていた。
だが、その美しい、平和な風景の裏に、
新たな、そしてより複雑な困難が待ち受けていることを、
この時の俺たちは、まだ知る由もなかった。




