第26話 8月-7
オレは夏希の腕から放れると、桃井の目の前に立った。小さな男の子のように小さくなってしまった桃井。叱られた子供。
「桃井。親父の拳は効くだろう? 親父はさ、お前が可愛くて可愛くて仕方ないんだよ。きっと、仕事が忙しくてお前に構ってやれなくて、どうやって愛情表現をすればいいか解らなくなってたんだろうと思うんだ。お前も本当は親父に甘えたかったんじゃないのか? 自分の悩みを聞いてほしかっただろうし、もっと相手して欲しかった。お前は金があれば何でも出来ると思ってる。そう思わせてしまった親父も悪い。そんな風にしか愛情が表現出来なかったんだな。でも、お金を出しに使っていろんな女の子に手を出すお前も悪いんだぞ。親も友達も恋人も人の心も金じゃ絶対に買えないんだ。買えたと思ってもそれは錯覚でしかない。金についてくる人間は碌な人間じゃねえとオレは思うんだ。お前だって本当の所はもう解ってるんだろ? 大事なのは金じゃないよ。もう意地を張るのはやめたらどうだ? お前が親父に認めて欲しい、目を向けて欲しいって思うんだったらこんな形じゃないだろ。親父の元で真剣に勉強すればいいんだ。本当の意味で偉い奴になってみろよ。そしたら、金でつらなくても女なんてイヤってほどついてくるんだから。な?」
「俺は、いつだって親父に認めて貰いたかった。本当に認めて貰いたいのは親父だけだ。だけど、親父は俺を認めてはくれない。だから、俺は女にそれを求めたんだ。女なら俺を褒めてくれる、認めてくれる。それが気持ち良かった。一時でも自分が凄い人間だって思えた。解ってたさ、そんな戯言は金の為に言われていた事だって事。あいつ等は俺なんか見ていない。俺の向こう側にある金しか見ていなかった。俺の中身は空っぽだよ。俺には何もない。親父が認めないのも仕方のないことだ。甘えていたんだ、全てのことから。俺は……、やり直せるのかな」
桃井が縋るような目でオレを見た。心細くて仕方のないただの子供だ。きっと桃井はいつまでも子供のままだったのかもしれない。体は成長していても、心はいつまでたっても子供。
「出来るよ、本気になれば何だって。桃井社長、今回のことは何もありませんでした。……そう言うことにして貰ってもいいですか? 桃井が気持ちを入れ替えてくれるならオレはそれでいいですから。ただ、同じ過ちを犯すようならその時は容赦なく切り捨てて下さい。甘やかしたら駄目ですよ」
オレが微笑むと桃井社長は涙を流した。オレの手を握り、ありがとう、と何度も言った。
何て不器用な人なんだろう……。何て不器用な親子なんだろう。
息子の間違いを金で解決することしか出来なかった父親、父親の愛をお金で感じることしか出来なかった息子。
「罪滅ぼしではないけれど、黒田さんとの婚約は解消させて頂きます。そして、黒田さんとことの業務提携をさせていただきます。資金援助も勿論させて貰います。またお金で解決してと、君は怒るだろうか?」
「いいえ。有難うございます。素直に嬉しいです」
一はそんな光景を無口で見ていた。納得していないんだろう。オレを襲おうとした桃井を許せないんだろう。
オレは一の前に立つと、一の手を取った。
「一、怒ってるのか?」
オレは一を見上げてそう問いかけた。一はほんの少し悲しげな笑顔を見せた後、オレの手を解いた。
「桃井。一発だけ殴らせてくれ」
一は手をぎゅっと握り締めて桃井を見た。
桃井は一のその目を真摯に受け止めていた。恐れるわけでも怒るわけでもなく、自分のしたことへの当然の報いとして。
嗚呼、桃井はもう大丈夫だ。ここからきっとやり直せる。オレはその表情を見てそう思った。
一は桃井を殴った。桃井が壁に叩きつけられるほどの強烈なものだった。
桃井社長が桃井に駆け寄った。口元に血が滲んでいた。桃井社長に、大丈夫だ、と声をかけ、桃井は立ち上がると、オレ達に深々と頭を下げた。
「すみま……せん……でした」
息子の隣に立つと桃井社長も頭を下げた。
「愚息の無礼、お許し下さい。申し訳ありませんでした」
オレはアパートのドアを開け、一歩部屋の中に踏み入れると途端に腰が抜けて、その場に座り込んでしまった。一が肩を貸してくれてやっと居間まで辿り着いた。本当は、一がお姫様抱っこで居間まで運ぶとかほざいたがそんなこっぱずかしいことはお断りだとその提案を瞬時に跳ね除けた。
一はオレをすっぽりと包み込むように抱き締めると、そのままいつまでもその腕を放そうとはしなかった。
「つばさ、あいつに変なことされなかったか?」
「首にキスされたくらいだから、大丈夫だ」
どこ? と聞かれたので、指をさしたら、それを見た一の表情がみるみる硬くなり、最終的には鬼のような形相に変わった。
「なっ何だ? どうしたんだよっ、一」
一の異変に驚き、慌ててそう聞いた。ボソッと一が何か呟いた。ん? とオレが聞くと、一が興奮気味にこう言った。
「あの野郎ぉ、つばさにキスマークつけやがった。絶対許さねぇ!」
ええっ! と叫んでオレは首を押さえた。キスマークって言われても、本当のところどんな物であるのかきちんと理解出来ていなかった。真っ赤な口紅が洋服とかにつくと、唇の形がべったりとつく。そういうのが、キスマークだってオレの中では認識していた。だから、桃井は口紅なんか付けていなかったのになんでキスマークなんてつくんだろうって疑問に思っていた。
オレがそんな風にいまいち解っていないのを見てとったのだろう。
「例えば、腕んとこをこうやって強く吸うと、吸った所が痣みたいになるだろ? こういうのをキスマークって言うんだ」
一はオレの腕をちゅぅっと強く吸って出来たキスマークをオレの前に見せた。強く吸われてほんの少しちくっとした。そう言えば、桃井もあの時オレの首筋を吸っていて、ちくっとした痛みを感じた。
ということは、こんなもんが、オレの首にも出来ているってことなのか。
そんなことを頭の中で考えながら整理していると、一が首を押さえていたオレの手を退けると、恐らくは桃井がつけたキスマークがあるところに唇を押しあてると強く吸った。
「な……に、あっ」
一の突然の行動と、自分の女っぽい変な声に驚いた。
一に吸われた所が酷く熱く、変な感じがした。
「何してんだよっ、ボケっ」
オレが怒鳴ると、一は顔を上げた。顔が間近にあって、その美しさに思わず見惚れそうになった。
「何って消毒。でも、桃井と間接キスしてるみたいで複雑ぅ」
そんな、まるで桃井の毒を吸い出すみたいに……。
もうないかなぁ、と一はオレの首筋を眺めている。これ以上あんなことされたら体が熱くって変になりそうだ。
「もうないよっ。それより、鏡貸してくれ」
一から手鏡を受け取ると、自らの首元を覗き見た。そこは、蚊に刺されて掻きすぎた後のように赤く内出血みたいになっていた。
「こんなにくっきり?」
「ああ、俺が重ねてやったからくっきりになっちゃったね。ごめんね、つばさ」
ものすごく目立つ所。この真夏にオレにタートルネックの服を身に付けていろと言いたいのか?
「これってどんくらいで消える?」
「う〜ん、そうだなぁ、一週間くらい?」
呑気にそう言う一の首を締めたくなってきた……。とは思ったものの、それはせずに睨みつけるだけで我慢した。
「もう誰にも触らせないでよ」
「誰にもって。オレにだってこれから先恋人の一人や二人出来るかもしれないだろ?」
「駄目だっ」
一の勝手な言い草にオレは苦笑した。オレに一生恋人を作るなって言ってるのか?
「何でだよ?」
「俺がイヤだから」
「何だよそれっ。自分勝手だな。オレだってそのうち彼氏くらい欲しいんだけど。一だっていい人がいたら彼氏にするんだろ? 自分は作るのにオレだけ駄目なのかよ?」
本当に彼氏が欲しいと思っているのかは疑問だ。大して今は恋人が欲しいとか、デートがしたいとか、イチャつきたいとは思えない。最近、色々あってそれどころじゃないからそう思うのかもしれない。こんなドライな女子高生はあまりいないだろう。みんな出会いだ、ときめきだ、彼氏だと盛り上がっているように見える。特に夏で特別開放的だから、尚更自分が冷めているように見えるのかもしれない。
「俺は恋人は作らない。つばさには俺がいるだろ? こんな間近にいい男がいるんだから」
自分で自分のこといい男とか言っちゃうのってどうなんだ?
「はいはい、解りました。そんなことより、一は家を出ている間どこで何をしていたんだ?」




