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リアンはスタンドを引っ張り出すとコージャイサンとアーリスが対面になるように水晶板を机の上に置いた。
小型の球体と違い水晶板は相手の表情も顔色もよく分かる。ポカンと口を開けたアーリスと余裕の笑みを携えているコージャイサンとでは対照的と言えるだろう。
『驚かせて悪かったな』
詫びの言葉を使うコージャイサンだが、その態度に悪びれた様子はない。
けれどもアーリスに怒りはなく、純粋に湧いた疑問を口にした。
「すっごく驚いた! でもなんでこんな事したの?」
『情操教育と情報操作の為だ』
「どういう事?」
『俺もザナも、クタオ伯爵夫妻やアルの友人たちも、みんなアルの幸せを願っている』
「え?」
思っていた内容と違う答えにアーリスはぱちくりと目を瞬かせる。
その様はコージャイサンにも分かりやすく伝わったのだろう。彼は喉をクツクツと鳴らして笑う。そして、まるで慈愛の神の如く尋ねた。
『この前は爆発で聞きそびれたが……カティンカ嬢と話している時、どんな気持ちだ?』
「どんな………………ねぇ、コージーは?」
彼がどんな意図を持って尋ねているのか、図りかねたアーリスは失礼だと分かっていながらも質問に質問で返す。
「コージーはザナと話している時、どんな気持ちなの?」
ただ知りたい、と真剣なアーリスの眼差しに一瞬虚をつかれたものの翡翠は穏やかさを面前に出して答えた。
『そうだな……楽しそうに笑ってたり、喜んでいるのを見ているだけで嬉しい』
——あ、僕も……彼女が笑っていると、嬉しくなる。
それはアーリスにも覚えのある感覚。喜怒哀楽がはっきりとしているからこそ話している時間は楽しく、身内や友人とは違う高揚感は日に日に大きくなっている。
『落ち込んでいたり、無茶をしそうな時は放っておけない』
——そう、危なっかしくてほっとけないんだよね。
それは妹に対する気持ちと似て異なるもの。支えてあげたい、力になってあげたいという庇護欲は彼の言動を突き動かす。
『今は家で毎日顔を合わせているけど、会えなかった時期は……寂しかったよ』
——彼女と話せなくなったら……きっと、すごく寂しい。
毎日話す事が当たり前になった。それがなくなったら、心にぽっかりと穴が空いたようなどうしようもない虚無感に襲われるだろう。
彼女と話している時の包み込むような、優しく解すような、硬い種皮の奥に届く安心感は何ものにも代え難い。初めて会った時は当然のように警戒していたというのに。
けれどもイザンバとの類似点からアーリスにとっては話しやすい人で、まるでもう一人妹が出来たように思っていた。
なのに、水晶が転がって以降どうしようもなく胸が騒ついて。
『たとえ妹のように思っても彼女は妹じゃない』
コージャイサンに言われた時、何を当たり前のことをと思っていたけれど……そうじゃなかった。
どうしてあんなにも残像がチラついたのか。
それはアーリスが彼女を好ましく思っているから。淑女としての姿も、素のオタクとしての姿も。
一つ一つ確認した想いがじわじわと染み込んでいく。
——心拍数が
——体温が
——育った想いが
上昇してみるみるうちにアーリスの頬に朱を注ぎ足していった。
「え、待って…………うわ、そっかぁ……」
ずっと続くざわつきの正体。
——僕は……——カティンカ嬢が好きなんだ。
見ないフリをしたそれが明確な形となった今、アーリスはたまらず顔を手で覆った。
なぜならコージャイサンがこの問い掛けをしたという事は、彼はアーリスの想いを悟っていたという事で。
『自覚したか?』
「うん。……でもちょっと待って! 今めちゃくちゃ恥ずかしいから!」
まさか己の恋心を友人たちに見守られて自覚する事になるとは思いもよらなかった。
カティンカと出会ってから今日までの所業を振り返り身悶えるアーリスの正面でイルシーとリアンはニヤニヤと笑い、背後のラムーアは静かに震えながら感涙を流しているというのにそれに気付きもしない。
しかし、ふと彼は動きを止めた。
「あれ? でも知り合ってまだ一か月半くらいだし……僕ってチョロすぎる⁉︎」
『そんな事はない。回数も時間も月に一度しか会わない婚約者同士よりも話してるんだからな』
「あ、そっか……」
コージャイサンに言われて即座に納得してしまった。言われてみれば確かに顔を合わせる頻度が違いすぎるのだから。
すると対面のイルシーがレポートを流し読みしながら言った。
「ざっと見て平均して一時間弱。よくもまぁ毎日話題がつきねーもんだぜぇ」
「でもほとんどジンシード子爵令嬢のオタク話なんでしょ? 兄君もよく聞いてられますね。僕は無理です」
「俺もだなぁ。あんだけ延々と喋り続けられたらイラついてしゃーねーわ」
「その趣味自体は否定しないけど自分には振らないで欲しいよね」
「え、そうなの?」
イルシーとリアンがいう点はアーリスが全く気にならない部分である。それは妹がオタクだからというよりもアーリス元来の性格によるものだろう。
『そういう人もいるって事だ。だがアルが気にならないのならカティンカ嬢とそれだけ波長が合うという事だろう』
「……変じゃない?」
『ああ。変じゃないよ』
コージャイサンにそう言われると妙に安心する。安堵の息をついたアーリスに、コージャイサンは表情を穏やかなものから真剣なものへと切り替えて言った。
『この先カティンカ嬢とどうなりたいかはアル次第だが、どちらにせよ今後のためにアルも身につけなければならない事がある』
「えっと、なんだろ?」
『今アルは未婚の令嬢たちから注目されている。加えて彼女は子爵令嬢だ。親しくし続けるのならその立場の違いがどう影響するか、ザナを見てきたアルなら分かるよな?』
「うん」
伯爵令嬢という立場は決して低くない。けれども、婚約者がさらに格上であったが故に妹の身に降りかかった苦労をアーリスは間近で見てきた。
もちろんあの家庭教師の一件以降、コージャイサンが妹を守り続けた姿も。
カティンカとどうなりたいか——まだ想いを自覚したばかりのアーリスにはその先を望むことは贅沢な事だと感じる。
だが、叶うのならば……
——楽しそうな笑い声を
——キラキラと輝く瞳を
——心地良いあの時間を
彼女の一番側で——。
「兄君、男を見せる時ですよ!」
「うん。今まで逃げ回ってたけど……頑張るよ」
強い意志を乗せたヘーゼルに友人主従も頷いてくれた。
『ああ。俺もサポートは惜しまない』
「ありがとう。ねぇ、コージー。僕ね、ザナとコージーが無事に結婚して幸せになりますようにって願掛けをしながら髪を伸ばしてたんだ」
『そうだったのか』
少し驚いたようなコージャイサンの声音にしてやったりと笑うと、アーリスはそっと自身の髪に触れた。
「でもその願いは叶ったし、今は僕自身が変わらなきゃいけないっていうか、決意表明って言うほどではないんだけど……髪を切ろうと思うんだ。それでね、こんな事を頼むのはおかしいかもしれないけど、見ててくれないかな?」
『もちろん。アルの思いやりに感謝するよ。そして、その願いは必ず俺が叶え続ける。約束しただろ?』
「ふふ、キミならそう言ってくれると思ってたよ。ありがとう」
確かな信頼感が結ぶ熱い男の友情。了承してくれた彼に感謝しつつも、善は急げとアーリスは執事の方へと振り向いた。
「ラムーア、聞こえてたと思うんだけど……って何してるの?」
「小公爵閣下に感謝の祈りを捧げております」
「ええー、また?」
そこにはまさかの感涙にむせぶ姿。ハサミを持って来て欲しいという前にアーリスはラムーアを宥める事に注力する事態となった。
さて、二人の注意が逸れている隙にイルシーが机の上の水晶板を操作し、コンコンと縁を指先で二回叩いた。すると、事前に付けていたイヤーピースから届くコージャイサンの声。
『声は聞かせたか?』
「そりゃあもうしっかりと」
『そうか。帰りも頼んだぞ』
「全ては我が主の意のままに」
小声で任務結果を伝えれば主人の満足そうな声が返ってくる。イルシーもフードの陰でニィッと口角を釣り上げた。
翌日、昼食を終えるとイルシーはまたカティンカに変装して邸を出た。
正体を知ってしまえばアーリスも気楽なもので、自然な対応が出来る。馬車がオンヘイ公爵家のものだと一目でわかり、また脱力したのは余談である。
彼女が馬車に乗る前の二人は誰がどう見ても親しげで、どちらも笑顔で挨拶を交わしていたという。
件の子爵令嬢は馬車に乗るその時、邸周辺を見渡してゆったりと微笑んだとか。
そして、夜。いつもの検証の時間の直前にアーリスは心を鎮めるように深呼吸した。
緊張の理由はもう分かっている。
自身の心を受け入れた彼は視線は真っ直ぐに水晶板に向け、表示された名前を指先でなぞり伝達魔法を繋いだ。
軽やかな鈴の音すら聞いていて心地良いと思えるのは恋心故だろうか。鮮やかなスイートオレンジを目にした瞬間、しらず頬が緩んだ。
『アーリス様、こんばんわあぁぁぁぁあっ!』
「あははははは! カティンカ嬢、いい反応してくれますね!」
水晶板に互いの姿が映った途端、驚愕を露わにするカティンカにアーリスは声をあげて笑った。
しかし、彼女にしてみれば笑い事ではない。
『か、かかか髪! 髪がない! どうしたんですか! え、いつの間に⁉︎ 昨日はまだ長かった……いや、水晶小さかったからよく見えてなかったけど! うわぁぁぁあ、推しの変化に気付かなかったとか一生の不覚!』
「あははははは! そんな大袈裟な」
『いや、何言ってるんですか! 一大事ですよ!』
実際、肩甲骨まであった髪がばっさりと切られており、穏やかな面立ちは変わらないが紳士的な印象から健康的で活発な印象になったアーリス。
全力で悔しがるカティンカについ笑ってしまい、短くなった茶髪が軽やかに揺れる。
けれども、彼女が真剣な眼差しで説明を求めている事に気付いて息を整えた。
「昨日切ったんです。元々願掛けで伸ばしてたんですけど、もう必要なくなったから」
『願掛け?』
「はい。ザナとコージーが無事に結婚して幸せになりますようにって」
『はぁぁぁぁん! 推しの優しさがまじで限界突破すぎる! もうアーリス様が天使じゃん! 尊すぎて召される!』
カティンカはたまらず天を仰いだ。推しを尊ぶその熱量たるや相当なものだ。
恋心を自覚したアーリスには向けられる熱量がいつも以上にくすぐったい。
「ふふ、まだ召されないでくださいね」
『もちろんです! でもちょっと勿体無い気もします。長いのも似合ってましたし』
「そうですか? カティンカ嬢にそう言われると嬉しいです。じゃあまた伸ばしてみようかな」
『いいですね! 今度も何か願掛けするんですか? それなら次はアーリス様自身の願い事にしてくださいね! 推しの幸せが一番!』
「あははは! そっか、僕の幸せか……考えてみます」
『はい!』
ほら、また一つ。彼女の言葉で芽吹いていく。
ほら、また一つ。彼女の笑顔に胸が躍る。
しかし、甘く高鳴る胸の鼓動にもう戸惑いはない。
歓喜が彩るヘーゼルの背後にそっと恋の色を乗せて、彼はふんわりと笑った。
今日も今日とて二人の間には和やかな時間が流れている。
——相手の声に
——相手の表情に
——相手の言葉に
その全神経を傾けて。
だがら、彼らは知らない。
部屋から漏れる笑い声に領地の使用人たちがこっそりガッツポーズをしている事を。
傷を抱える彼が踏み出した一歩に涙している事を。
遠からず訪れるだろう幸せな日々を夢見て宴会の準備が始めている事を。
苦渋の時を過ごした種子がゆっくりと時間をかけて芽吹いた。その想いが無事に育つよう、今は皆が見守っている。
これにて「萌芽フィーリングス」は了と成ります!
読んでいただきありがとうございました!




