6
その日の夜、アーリスは逸る心臓を抱えて水晶の前にいた。
「昨日の事もう一度謝って、コージーに形を変えて欲しいって言ったのと交換時期が変わる事と、あとは……あ、さくらんぼだ! でもまだ手配頼んだだけだしこれは送る時でもいいか……」
そして、ぶつぶつと独り言を繰り返す。
コージャイサンに連絡する時には全く必要のなかった心の準備に「ああ、緊張しているんだな」なんて呑気な感想が過ぎるが、何度深呼吸しても一向に変わらない。
——落ち着かなくて
——少し息苦しくて
まるで病を患ったときのよう。ままならない自身とは反対に時計の針は無情にも進み、いつもと同じ時間を指し示す。またひとつ大きく息を吐き出して、意を決して魔力を通した。
チリンチリンと軽やかな鈴の音が流れだす。毎日聞いている音なのに、今日ばかりは心音の方が耳の中で勝るのだから困ったものだ。
数回鳴った後、水晶の中にオレンジ色が浮かび上がって一際大きく心臓が跳ねた。
『アーリス様、こんばんは!』
「……こんばんは、カティンカ嬢」
元気なカティンカに対してアーリスはゆっくりと穏やかな声になるよう心がけた。
何を話そうか、考えていたのにいざ姿を見たら頭の中は真っ白で。言葉を詰まらせてしまったアーリスよりも早くカティンカが話し出す。
『早速なんですけど、コージャイサン様から交換時期の件、お聞きになりましたか?』
「あ、はい。って言うか、僕が昼頃に形の変更をお願いしたら延びる事になったって言うか……」
『ああ、それでなんですね!』
それは雲一つない清々しい青空のようだった。
事の顛末を説明しなければと思うのに、どうしてかアーリスは彼女から目を離せなかった。それほどまでに微笑みに添えられた真っ直ぐな視線が彼女の得心を伝えてくるから。
『実は私もあの後に球体は避けた方がいいかなって思ったんです。それでいつもの休憩時間にイザンバ様にダメ元で水晶の形なんとかならないか相談してみたんです。あ! 誓ってアーリス様の名誉を傷つけるような事は言ってません! 私の手が当たって転がってしまったってところだけです!』
「あの、昨日は本当にすみません。それなのにそんな風に気を遣ってくれて……」
『いえいえ! でも、アーリス様。もう謝るのはなしですよ。おあいこなんですから!』
ニッと笑うカティンカは本当に気にしていないようで、いつも通りの様子に拍子抜けしたような、安心したような。けれどもその優しさに触れて、じんわりと温まる部分がある。
「そうでしたね。ありがとうございます」
緊張に強張っていたアーリスの体から少しずつ力が抜けて、自然と声のトーンも柔らかくなる。
それがカティンカにも伝わったのだろう。彼女はニコニコと話を続けた。
『あ、それでですね。もちろん相談する前に自分で転がらないように対策しようとしたんですけど、ハンカチの上は結局振動が加わったら転がっちゃうし、クッションはそもそも埋もれちゃうしで中々いい感じにフィットするものがなくて。それで、自分じゃ無理だと思ってイザンバ様に聞いたら案を出してくれたんですけど……』
さてはて妹は何を言ったのか。正直なところアーリスには皆目見当がつかない。そこで素直に尋ねる事にした。
「どんな案だったんですか?」
『水晶に穴を開けて固定するとか、紐で結んで宙吊りにするとか」
「んー……このサイズだし穴開けたら真っ二つになりそうじゃないですか?」
アーリスは水晶を手に取ってイザンバの案を想像してみるがなかなかに難しいと思った。手持ちの道具では下手をすれば粉砕してしまいそうだ。
一体どうするのかと唸っているとカティンカが答えを出した。
『そこはアクセサリー作りの要領でやるんだそうです。真珠のネックレスみたいな球体が連なってる感じで』
「あー、確かに。そういう発想なんだ」
アクセサリー作りとは縁がないただけに、アーリスはしげしげと水晶を眺めながらもその着眼点に感心してしまう。
そこはカティンカも同意のようで水晶の中でこくこくと頷いていた。しかし、彼女としてはこの案には別に思うところもあるようで。
『ねー。そんな事考えもしませんでしたよ。まぁそれをするなら専用の工具が必要ですけどね。というかその場合はそれはそれで問題がありまして!』
「なんですか?」
『公爵家が関わってる代物に工具で穴を開けるなんて恐れ多くて絶対できないです! 無理! 紐で結んで固定するのもイザンバ様が実演しながら教えてくれたんですけど……水晶小さいし、私の指先が、あの、ちょっと器用な方ではないので難しくて……実現が厳しかったんで諦めました』
青ざめたかと思えば分かりやすくしょんぼりと肩を落とすカティンカに、笑ってはいけないと思っても小さな笑いが込み上げる。
誤魔化すように咳払いをしたアーリスだが、どうやら彼女は気付いていないようだ。
「ふはっ……ん゛ん゛っ! あー、でも結んだ紐が邪魔になって顔が見えないかもしれないし、やめてよかったと思いますよ」
『はい。その時にイザンバ様が『カティンカ様の懸念は伝えておきますね!』って言ってくれてたんですけど……そしたら夕方にコージャイサン様から連絡が来るからびっくりしました! いくらイザンバ様伝いだとしても早すぎるって思ってたんですけど……アーリス様が犯人だったんですね!』
けれども、ビシッと指を突きつけるようなポーズまでとるカティンカに、とうとう耐えきれずに笑い声を上げた。
「ぷっ、あはははは! 犯人って!」
『だってコージャイサン様に直談判したんですよね? それアーリス様以外できない事ですからね? 私本当にびっくりしたんですから! だから犯人です!』
ふんすと鼻息荒く胸を張るカティンカがまたおかしくて。アーリスはクスクスと笑う。
だが、形も交換時期の変更もアーリスが単独で決めたわけではない。そこで、共犯者の考えを伝えた。
「ふふふ。カティンカ嬢も名探偵ですね。でもコージーは元々形を変えるつもりだったみたいですよ」
『へぇー。自分でお願いしといてなんですけど、まず形を変えようって発想になってた事にびっくりします』
「ですよね。でもコージーだし」
『うわー、その発言はもう慣れきってるじゃないですか! アーリス様、今までもそんな感じでのんびり流してきたんですね』
にししと笑うカティンカの指摘。とは言っても、イザンバとコージャイサンのやる事にはアーリスも毎回驚いてはいるので小首を傾げた。
「のんびりしてますか? でもザナもコージーも僕じゃ考えもしない事をやっちゃってるからそんなものかな〜って」
『あははははは! それはそうですね!』
からからと明るい笑い声に気持ちが引っ張り上げられる。
こうやって楽しそうにしているカティンカを見ているだけで自分も楽しいと思うが、今彼女が笑っていられるのはそれが他人事だからだろう。
しかし、旅は道連れ、世は情けと言う。どうせならここは一つ、彼女にも同行願おうではないか。
「だからカティンカ嬢も早く慣れてくださいね」
『え⁉︎ 私もですか⁉︎』
「だってザナの友達ですから。これからもきっと二人にはこうやって驚かされますよ」
ぽかんと口を開けるカティンカだが、アーリスの言葉に納得できる部分があったのだろう。
『マジですかー。でも確かにイザンバ様のお話には驚く事多いですし。コスプレとかシリウスとか。や、でも今なら授業中叫ばない分を全部叫べる気がします! つまりストレス発散になる!』
「あはははははは!」
驚かされる事をあまりにも前向きに捉えられるのだからこれにはアーリスも降参だ。なんて愉快なんだろう、と。
楽しげに笑う彼にカティンカからお誘いの言葉がかかった。
『せっかくだからアーリス様も一緒に叫びます? 大きな声を出すのってストレス発散になるんですよ』
「ふふ、それはそうですね。でも、今日はもうコージーと話した時に十分叫びましたから」
『そうなんですね。また誰か氷漬けにされたんですか?』
「いやー、それはなかったんですけど話してる途中に爆発があって」
『爆発⁉︎ 一体コージャイサン様は何を仕留めるつもりなんですか⁉︎』
これは結婚式のあの場面が効いているのか、コージャイサン=氷漬けの定義はすでにカティンカの中でも定着済みのようだ。
さらに爆発と聞いて、カティンカの中でコージャイサンの物騒値が急上昇している。なんてこった。
これは言い方がまずかった、とアーリスはすぐさま訂正を入れた。
「あ、コージーが爆発させたわけじゃないですよ。研究部の他のところです。そういえばどこでどう爆発したのかは聞いてなかったなぁ……。コージーは落ち着いてたし、ザナから連絡がないから大丈夫だったんでしょうけど。爆発って聞いて僕の方が焦っちゃって」
『ふふふ、なんか……焦ってるアーリス様、想像できます』
そう言って水晶の中でカティンカがクスクスと笑う。
それがなんだかむず痒くて、でも情けない姿を想像されている事にアーリスは頬を掻いた。
「うーん……それはちょっと恥ずかしいですね。僕としてはもっとコージーみたいに威厳っていうか貫禄が欲しいところなんですけど」
『え、何言ってるんですか? アーリス様にも十分ありますよ!』
「え?」
『あの、これ本人には話したこと内緒にしてほしいんですけど……実はハマルがアーリス様に憧れてるんです。結婚式の時のアーリス様の公爵夫人への対応がスマートでカッコよかったって。実際、私もあの時すごく頼りになるなって思ったし、ハマルの気持ち分かるからそこはしっかり解釈一致なんですよ!』
その時、嬉しいと言う感情がアーリスの心を満たした。
——ハマルからの憧憬も
——カティンカからの賞賛も
彼の努力を讃えるもので、身内から褒められるのとはまた違う喜びでヘーゼルが熱く潤む。
「えっと、その、憧れてるなんて初めて言われました。ありがとうございます」
『はい! あ、威厳って言えばレグルス様がめっちゃカッコいい場面があるんですけどもうお読みになられました?』
「それって……自国の王と対面のところですか?」
『それです!』
「あそこの場面、僕も好きです。王の理不尽から部下を守る堂々とした姿がすごくカッコよかったです」
『きゃー! ですよねですよね! しかもその先がまたヤバくって——……』
それはいつも通り軽やかに繋がる会話。同じ本を読んでいるという共通点がまた話の輪を広げている。
心地良い雰囲気に加わった胸の高鳴りはそっと見ないフリをして——今日も時が過ぎていく。
活動報告に同時刻のコジザナの会話劇をアップ予定です。




