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アーリスは考える。
——カティンカの反応に
——友人主従の意見に
これからも共に仕事をするからこそ判断を間違えないように、慎重に。しかし、どうしてもチラつく残像に心が騒つく。
雑念を放り出そうともう一度彼らの意見を反芻していると、ふとある事実に気が付いた。
「ねぇ、もしかしてザナもそんな感じだったの?」
その問い掛けにコージャイサンは仕方がなさそうに肩を竦める。
『経緯は違うけどな。あの時はどうしてやろうかと思った』
「うちの妹がごめんね! もしかして今も!?」
『今は一応気を付けてくれているから大丈夫だ。それでも足りないなら分かるまでじっくり教え込めばいいからな』
「あー、じゃあやっぱりその効果があったのかな? 結婚式前の話だけどザナってば新しい扉を開きかけてすぐに閉めてたんだよ。どんな風に話したの?」
だが、聞き返した内容にコージャイサンはただ笑んだ。その深まった笑みが妙に色っぽい。水晶越しでも当てられてしまいそうなほどに。
二人は結婚前も気の置けない仲ではあったが、今更彼らが新婚夫婦である事を思い出した。
ゆっくりとコージャイサンの唇が動く。アーリスは思わず固唾を飲んだ。
『それはさておき』
「さて置かれた! あ、でも自分から言っておいてなんだけどこの話題続けるのはちょっと気まずいかも……ザナが絡んできちゃうし」
『それもさておき』
「まさかの二連続!」
『アル』
「はい!」
ただ短く愛称を呼ばれただけだが背筋がピンと伸びた。これではどちらが年上なのかわかりゃしない。
だが、そんなアーリスを揶揄うでもなく、茶化すでもなく、コージャイサンは穏やかに告げる。
『たとえ妹のように思っても彼女は妹じゃない』
「え? うん。そうだね」
『だから気まずさが生じる。見られた方より見てしまった方が気にしてしまう事はよくある事らしい。自分は変態なのかと悩んでいるようだが、その反応は普通の事だよ』
「……普通……でも……」
この妙に心臓が落ち着かない状態を普通と言っていいのか。
——初めてのハプニングに驚いたせい
——何度も思い出してしまう罪悪感のせい
一秒でも早く今まで通りにしようとする事が間違っているとは思えないから。
いっそ変態と罵ってくれた方がカティンカときちんと距離を取れるような気さえする。
『俺も同じように悩んだ事があった』
「え、そうなの?」
『あれは学生時代にザナと地方に行った時で』
「ちょっと待ってー! 気になるけどこれ以上聞くと絶妙にザナとも気まずくなる!」
友人の恋バナならば聞いていられるが、そこに兄妹が絡むと途端に生々しく感じるこの現象。寄り添おうとしてくれている彼には悪いが、それ以上は言わないで、とアーリスは手も首も激しく横に振る。
だが、コージャイサンは話を遮られたのにも関わらず機嫌を損ねるどころか軽く笑った。
『ははっ。それもそうか。なぁ、アルは……——彼女と話している時、どんな気持ちだ?』
「え? どんなって……」
その時、思考を止めるほどの大きな爆発音が響いた。
『おっと』
「若様!」
「なになに何事⁉︎」
突然の爆音に驚きを露わにするアーリスと彼を庇うラムーアだが、音に見合う振動や衝撃は一切ない。変わらず平和そのものの空間に彼らは不思議そうに顔を見合わせた。
しかし、異変があったのは水晶の向こう側のようでコージャイサンが淡々と言う。
『研究部のどこかで爆発したな』
「え! 逆さまだけどコージーは大丈夫なの⁉︎」
『大丈夫、水晶が転がっただけだ。成る程……水晶の視点が固定されているからそっちは逆さまに見えるんだな。切り替えが出来るようになればそれも解消されるか? いや、そうなるとまた術式をいじって……なら切り替えの条件は……』
「爆発したんでしょ⁉︎ 落ち着きすぎじゃない⁉︎」
なんと! この状況下でどう改良しようかとワクワクしているではないか。指先で水晶を二、三度揺らした彼にアーリスが力一杯ツッコミを入れるも柳に風と受け流す。
『ここでは日常茶飯事だからな』
「それでももうちょっと焦ろうよ! 建物が崩れたらどうするの⁉︎」
『このくらいなら問題ないと思うが……イルシー』
『はいよぉ』
名を呼ばれた従者は主人の意を汲み素早く動いた。まさに阿吽の呼吸である。
理想的な連携にアーリスの少年の心がうずうずと刺激された。
「わぁー、カッコいい! あ、もしかしてこれが主従萌え? って、そんな事言ってる場合じゃないね! もう切るね!」
『まだ時間はあるけどいいのか?』
「そんなの気にしなくていいよ! なんか大変そうだし、仕事中に本当ごめんね」
万が一また爆発音が聞こえても、その場にいない彼は狼狽える事しか出来ない。ただでさえ私的な相談なのだから、コージャイサン側に問題が生じているのならこのままでは邪魔になってしまうとアーリスは判断したのだ。
そんな思いもコージャイサンにしっかりと伝わったようで、翡翠が感謝を伝えるように穏やかに微笑んだ。
『こっちこそ慌ただしくて悪いな。検証の事だが、形を変えるなら交換時期を遅らせる事になるが構わないか? 元々変えるつもりではあったんだがザナの意見を聞きたい部分もあるから』
「大丈夫だよ! どちらかというと遅れてもいいから変えて欲しいです! お願いします!」
それはもう全力でお願いした。アーリスにとってコージャイサンは友人であり身内。恥も外聞も気にしなくていいのだからそれはもう全力だ。
大きな水晶がまた転がってしまったら……。そんなもしもは想像したくないが、今ですらこんな状態だ。カティンカとまともに顔を合わせられる気がしない。
そんな考えもお見通しなのだろう。コージャイサンがクツクツと喉を鳴らして笑う。
『分かった。この件については仕事の契約期間にも関わるからカティンカ嬢には俺から伝えておく』
「うん」
『準備が出来たら改めて連絡するよ。それまでは今までのように検証を続けてくれ』
「とりあえず今日は…………うん、頑張る」
『その意気だ。交換には遣いをやるから今使っている水晶と検証レポートの提出を頼む。その時に報酬も渡すから』
「了解。あ、昨日の分の抜けてるかも……でもあとでちゃんと確認しておくから!」
仕事として引き受けているのだから記録は毎日付けている。昨夜は衝撃的な事があったせいでその辺りの記憶がないが、今ならまだ挽回できる範囲である。
アーリスが力強く言うとコージャイサンも信用しているというように頷いた。
『ああ、引き続き頼むよ』
「うん! コージー、聞いてくれてありがとう」
『どういたしまして』
「それじゃあ、またね」
『ああ、またな』
軽い調子で挨拶を交わして通信を切ったが、アーリスはまだ心配そうな表情で水晶を見つめている。
「建物が崩壊しなきゃいいけど。爆発が日常茶飯事って言われても心配だよねぇ……って、ラムーアは何してるの?」
「小公爵閣下に感謝の祈りを」
「ええ?」
意見を求めて振り向いたアーリスが目にしたのは、涙を流しながら祈りを捧げるラムーアの姿だ。
彼がそこまでするほど心配をかけていたのかと自身を振り返れば、一人で悶々としている時よりもコージャイサンに相談したお陰か今は少し胸のざわつきが治ったように感じる。
そのままゆっくりと呼吸をしているとラムーアが涙の余韻で更にキラキラと瞳を輝かせて見てくるものだから、ヘーゼルがぱちくりと瞬いた。
「それで若様! どのように……」
ところが、どうにも間が悪い。響くノック音にアーリスの視線はラムーアから扉へ。そしてまたラムーアへ。
一つ頷いた彼に執事も姿勢を改める。
そしてアーリスは落ち着いた様子で入室の許可を出した。
「どうぞ」
「失礼します。若様、昼食の時間ですが忙しいようでしたらこちらに運びましょうか?」
入ってきたのはメイドだった。どうやら昼食の時間になっても現れない彼に気を利かせて尋ねに来たようだ。
「あ、待たせてごめんね。ダイニングで食べるよ」
「かしこまりました。ご用意は整っておりますので」
「分かった、すぐに行くよ。そういえばラムーアはさっき何を言いかけたの?」
けれども、メイドがいる場で言うべきではないと考えたのだろう。ラムーアはさもできる執事であると言うように静かに惚けた。
「いえ、急ぐ事ではございませんので。さぁ、昼食に参りましょう。その後はしっかりと遅れを取り戻してください」
「分かってまーす。コージーに相談して少しすっきりしたよ。ありがとう」
「恐縮です。クタオ伯爵家に仕えるものとして当然のことをしたまでです」
謙虚に受け止める執事にアーリスはふわりと微笑んで立ち上がったが、ふと何かを思い出したように声を出した。
「あ。ねぇ、さくらんぼの配送手配をして欲しいんだけどいい?」
「かしこまりました。採れたての良品を選定いたします。送り先はどちらに?」
「王都のジンシード子爵邸。カティンカ嬢は甘いのも酸っぱいのも食べられるんだって。でも、ご家族分も考えるなら甘いの多めがいいかな?」
ニコニコと楽しそうな横顔と弾む声色にラムーアは目を見張った。
——問い詰めたい
——喜びを叫びたい
けれども二度遮られてしまった事を思えば……きっと、まだその時ではないのだ。胸に込み上げる思いを堪えるように拳を握り、ただにこやかに同意を返す。
「初めてお送りするのですから全体の量は控えめがよろしいかと。酸味が強いものは好みが分かれますので少量で別に包みましょう。送る前に確認なさいますか?」
「うん。よろしくね」
「かしこまりました」
アーリスの後ろを追う形で二人は部屋を出たラムーアは表情筋を全力で固定しようと努めた。だが、彼の目がこちらを向いていない今、どうしたって喜びが溢れて頬が緩んでしまう。
——やはりこの検証は若様のご縁も考えてくださっての事。ならば……おしめの変え方を教えておいても問題ないでしょう。
歩を進めるたびに揺れる長い髪の重み。たとえ気が早いと言われても、いつか数年分の重みがなくなる日と、かつてのあの日々の訪れを夢見ることは、今暫く声に出さない限り——許されるだろう。




