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翌朝、アーリスはのっそりと起き上がった。ぼんやりとしたまま窓の外を見れば、朝日の眩しさが目を刺激する。
その白さに瞼を閉じると——また昨夜の光景が浮かんだ。
「あぁぁぁぁぁ……!」
あの後、ベッドに横になってからも胸のざわつきは治らなかった。目を閉じれば反芻し、さらには夢にまで見る始末。なんだか寝た気にならないのも当然だろう。
一晩悶々としたせいか顔を洗っても、朝食を食べても、どこかぼんやりとした感覚が抜けないまま。
執務室で書類を読むが文字が目の前を滑っていく。
仕事中にも関わらずどこか気もそぞろな彼に、長髪をきっちりと一つにまとめ眼鏡をかけたアーリス付きの執事——ラムーア・ヨデスがついに声をかけた。
「若様、本日の決済分が遅々として進んでおりませんがお加減が優れないのですか?」
「え? あー、ごめんね。ちょっと昨夜眠れなくて……」
「ジンシード子爵令嬢様と何かございましたか?」
執事の発言にアーリスは慌てた。
——重ねようとした書類を落とし
——持っていた万年筆を落とし
——昨夜と同じ場所を机でぶつけ
ぶわりと赤くなった顔でラムーアを見上げた。
「いっ……なっ……なんっなんで⁉︎」
「夕食までは普段とお変わりないご様子でしたので、何かあったのならその時間である事は明白です」
流石である。きらりと光る眼鏡は伊達じゃない。返事に窮したアーリスは逃げるように書類を拾いに行った。
しかしラムーアはそんな彼を目線で追い、さらに変化を見つけようと眼鏡を光らせる。
「図星ですね。おや、顔が赤いようですが暑いですか? 窓を開けますね」
「あー、うん……ありがとう」
アーリスがぱたぱたと書類で顔を仰いでいると外から入ってきた初夏の風が髪を揺らす。
今度は落とさないようにと書類の上に置いた蛙の文鎮は見るだけで肩の力が抜けるコミカルさ。椅子に腰掛け大きく息を吐き出したアーリスにラムーアがにこやかに提案した。
「仕事が手につかないのなら気分転換に散歩でも行かれますか? それとも……」
そっと机の上に置かれた検証用の水晶。驚いたアーリスが執事を仰ぎみれば、彼は父性溢れる笑みをこぼした。
「ご友人に相談なさいますか?」
この水晶で繋がっている友人はただ一人。執事の提案にアーリスは困ったように眉を下げる。
「いや、でも、向こうも仕事だろうし」
「まもなく昼時です。今すぐが難しい場合はご都合の良いお時間を聞くだけでもよろしいのではないでしょうか?」
「…………うん」
悶々とした思いを抱えているのは事実。ラムーアに促され、アーリスは水晶に魔力を流した。
チリンチリンと鈴の音が鳴る。いつもよりも長く音を聞いた後、黒翠が水晶に姿を現した。
「こんにちは、コージー。仕事中にごめんね。今大丈夫? ちょっと話したいんだけど……」
『ああ、構わない。ちょうど昼休憩を取るところだ。何かあったのか?』
「うん、あのね……その…………えっと……」
どう切り出そうか。考えれば考えるほど音になるのは意味のない言葉ばかり。
ぐるぐると思考が迷走して何を話せばいいのか、そもそも何故今伝達魔法を繋げたのかすらアーリスには分からなくなってきた。
「いや……やっぱり、なんでもない……」
すると突然水晶の前にそっとティーカップが置かれた。無作法にも主人の言葉を遮るように割り込み、二人の注目を集めたラムーアが口上を述べる。
「オンヘイ小公爵閣下、ご無沙汰しております」
『ラムーアか。久しいな』
「記憶にお留めくださりありがとう存じます。アーリス様に関してひとつお願いがございます。使用人が意見を述べるご無礼をお許しください」
『いいだろう』
イザンバと婚約して以降コージャイサンはクタオ伯爵家の使用人も把握している為、二人も見知った間柄である。
鷹揚に頷くコージャイサンにラムーアは丁寧に礼をした。
「寛大なお心に感謝いたします。閣下の休憩時間は何時まででございますか?」
『今から一時間だが、多少の融通は効く』
「かしこまりました。では二十分だけアーリス様にお時間をいただけませんでしょうか? お悩みを抱えているご様子なのですが、私ではお力になる事は叶わず。時間になりましたら必ずお声がけいたしますので、何卒お願い申し上げます』
『そういう事なら構わない』
「では、どうかアーリス様のお心が整うまで今暫くお待ちいただけますでしょうか?」
『ああ。俺も茶を飲んで待つとしよう』
「誠にありがとう存じます」
最後にしっかりと頭を下げてラムーアは後ろに下がった。
決められたタイムリミットと二人の気遣い。申し訳なく思いながらもその厚意がアーリスの心をじんわりと温める。
さて、紅茶を一口飲んだアーリスはたっぷりと時間をかけてからこう言った。
「……………………僕は……変態かもしれない……」
『ぶはっ!』
告げた途端にコージャイサンではない人の笑い声が高らかに響く。その合間に「流石は兄妹」なんて呟きも聞こえてアーリスは狼狽えた。
「え、ごめん! 誰かいたの⁉︎」
『悪い。コイツだ』
先程のアーリスと同じくコージャイサンの前にもティーカップが置かれ、彼の背後にひょいと現れたのはイルシーだ。
『よぉ、兄君ぃ。真っ昼間から変態発言とはよっぽど夢見が良かったんだなぁ?』
「夢……」
時に行動は言葉よりも雄弁だ。あの光景がまた脳裏を過り、アーリスの顔が一気に紅潮したのだから。
コージャイサンがお茶を飲んでいる傍らで、フードを目深に被った従者は水晶越しにも関わらずそれを的確に捉えた。
『ハハッ、もしかして思い出してんのかぁ? よっぽどだなぁ』
「いや、あの、そうじゃなくて!」
『ンな焦んなよぉ。ただの夢だろぉ? 法を犯してるわけでもねーし、女の夢を見るなんざ兄君も健全な男ってことだろぉ?』
弁明をしたくともうまく言葉が出ず、ニヤニヤと笑っている事が伺えるイルシーの口調にただただ顔の熱さが増す。
しかも、背後からも大きな声が上がるではないか。
「それは本当ですか⁉︎ ついに若様が女体に興味をお待ちに!」
「言い方ー! そういうのじゃないから!」
必死に否定するアーリスだが、残念ながら喜色に満ちて輝いたラムーアには届かない。彼は目元をチーフで拭いながらその胸中を語り始めた。
「ここ四年ほどは女性とのお話をとんと聞かなくなり、もしやお嬢様の仰る新しい扉をお開きになられたのではないかと案じておりましたが……なんと喜ばしい事でしょう! ちなみに夢ではどのようなシチュエーションでしたか? 寝室は若様のお好みに合わせますか? それともお相手様のお好みに合わせますか?」
「そこは相手の好みに合わせて欲しいかな……って違う! 一足どころか何歩飛ぶの⁉︎ 本当にそんなんじゃないから!」
アーリスからすれば彼の発言はツッコミどころ満載である。
しかし、ラムーアは表情をキリリとしたものに改めると一層胸を張って言った。
「ご安心くださいませ。このラムーア、すでに子どもたちにも若様のお子様に誠心誠意仕えるよう教育しております」
「気が早いにも程がある! 子どもってまだ五歳と三歳でしょ? もっと遊ばせてあげて!」
「そうですね。私も父に教えられて若様のおしめを変えましたので、まずはおしめの変え方を教える事が先でしたね」
「それも違うよね⁉︎ おしめどころか結婚も婚約も何もしてないよ! どっちかっていうと妹がもう一人増えたような気分だったのになんか気まずい事になっちゃったって話をしたかっただけなんだよ⁉︎」
忙しなくツッコんでいる内に相談内容をぽろりと口にすれば、虚をつかれたラムーアは分かりやすく意気消沈した。
「あ、左様でございますか……まだその段階で……」
「そんな落ち込む⁉︎ なんかごめんね⁉︎」
『ハハハハハハッ! 思春期かよぉ! つかアンタも本当にあのオッサンの息子かぁ? イザンバ様と兄君の影響受けすぎじゃね? ハハハハハッ!』
二人のやり取りにイルシーは笑い沈んだ。
落ち込む者を宥めている一方で、ツボにハマって抜け出せない笑いにより混沌と化したこの状況。制したのはやはり彼だった。
『イルシー。ラムーア』
大きくもなく、不機嫌でもない。けれども逆らいようのない澄んだ強い声に、名を呼ばれた者たちの肩が大袈裟なほどに揺れた。
『控えろ』
たった一言で放たれた強者の圧。そこに含まれなかったアーリスも自然と背筋が伸びるほどに。
『コージャイサン様、クタオ伯爵令息様、ご無礼いたしました』
「御不快な思いをおかけし、誠に申し訳ございませんでした」
すぐさま非礼を詫びて下がった二人にコージャイサンはただひとつ頷く。
威厳溢れるその姿を感心しながら義弟を見ていれば、その翡翠は圧を和らげてアーリスに向いた。
『悪い。騒がせたな』
「ううん。僕も一緒に騒いじゃってごめんね」
『そうだな。まぁ元はコイツが原因だ。後で教育しておく』
「それを言うなら僕の発言のせいだし、そこまでしなくていいと思うよ」
『そうか?』
悩みに悩んだ末に飛び出したのがあの発言。コージャイサンはいつも通りだが、もしこの場にいたのがイザンバならイルシーと同じように反応したかもしれない。そう思い申し訳なさに頬を掻いたアーリスはちらりと背後の執事を見た。
「ラムーアもこっちに来てから何も言わなかったから……あんなになるとは思わなかったし」
『幼少期からの付き合いなんだろう? 密かに気にしていても仕方がない事だ』
「はは、だよね。面目ない」
『アルのせいじゃないだろ。それで? 何かあったのか?」
「えっと、あのさ——……」
さてはて、賑やかさは落ち着いたが彼はその心の内を話す事ができるのか。タイムリミットまであと——分。




