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ころころと転がる水晶にアーリスは慌てて手を伸ばした。しゃがんでいた為、床に落ちる寸前でキャッチ出来たのは幸いだったと言えよう。
「……あっぶな〜」
『わっ、待っ……あぁー!』
だがしかし、アーリスの水晶から流れるくるくると回る背景と焦りと落胆を含んだカティンカの声。どうやらあちらも水晶が転がったようだ。
再び机の上に鎮座したアーリスの水晶の背景が一度跳ねて強く揺れたのは、床に落ちた後にどこかにぶつかったからだろうか。少し暗くなった水晶の中の光景は、まだくるくると回っている。
『すみません、手が当たっちゃって! すぐに拾います……あれ? どこ行った?」
「床に落ちたみたいです。まだ転がってるから踏まなぁっ⁉︎」
足音が聞こえたのと水晶の回転が止まったのは同時だった。映し出された光景にアーリスは思わず息をのんだ。
「っ————あ、あぶ……あぶな……い」
『おかしいなー。こっちに落ちたのに』
呼びかけるが目の前の光景に動揺したアーリスの声は小さく、水晶を探すカティンカの耳に届かない。
——チラチラと揺れるスカートの裾
——薄暗い中で動く華奢な白い足首
いつもより大きく聞こえる足音がアーリスの心拍と妙なシンクロをして。けれども、彼の焦りを嘲笑うようにゆらゆらと水晶の向こう側は揺れ続ける。
アーリスはたまらず手で顔を覆う。指を開いては閉じるを繰り返しながら。
「あ、あの……あの…………カ、カティンカ嬢! 動かないで!」
『え? アーリス様の声? どこから?』
「そのまま大きく五歩くらい下がってください! すぐに!」
『え? はい』
きっちり五歩分の足音を聞いてからアーリスが顔から手を外すと水晶の中の光景が明るくなっていた。
遠のいて小さく映るカティンカの姿。素直に従った結果、状況を理解したであろう彼女にただただ申し訳なさが募る。
『す、すすすすみません! アアアーリス様……あの……』
「見てません!」
彼女の狼狽える声から懸念事項を察知して、アーリスは声を張り上げた。
「いえ、あの、水晶は足元で止まったから安心してください! ってこんな言い方だと安心できませんよね! でも引き締まった綺麗な足首だなと思いましたけど本当にそれ以上は見えてませんから!」
『きれいなあしくび?』
カティンカの虚を衝かれたような声での鸚鵡返しに、また心に留めておくべき事を口走ってしまった自分に気付く。気まずさと羞恥心がぐるぐると混ざり合いアーリスは赤くなったり青くなったりと忙しない。
「え、あ、その……すみません。足は見えてました……」
『ひえっ! こ、こち、こちらこそ、お、お、お目汚し失礼しました!』
「なんでカティンカ嬢が謝るんですか?」
『え? だって事故とはいえ見たくないもの見せちゃったんですし。まぁでも実際そんな大したものじゃないですから気にしないでください』
何故だろう。明るい調子で告げられたのは彼女なりの気遣いの言葉なのに、怒りにも悲しみにも似た思いがふつふつと沸き上がりなんだか落ち着かない。
「女の子がそんな事言っちゃダメですよ!」
『へぇっ⁉︎』
「自分の意思に関係なく見られたり触られたりしたら気持ち悪いでしょう? それに大したものじゃないなんて自分で自分を下げるような事、絶対に言っちゃダメです! もっと自分を大事にしてください!」
『は、はい……』
カティンカの返事が呆然としているように聞こえて言い方がキツかったかもしれないとアーリスは自身の口を押さえた。
——自分を大事にして欲しい。
その一心だったが、なんだか押し付けてしまったようで込み上げる罪悪感がアーリスを苛み始めた。いつだって自分が絶対に正しいわけじゃないと、アーリスは理解しているから。
「すみません。自分のした事を棚に上げて。直接じゃないにしても見ちゃった僕が悪いんですからカティンカ嬢が謝らないでください」
『えぇ⁉︎ いえ、それを言うなら落とした私が悪いんです!』
「いえ、元は僕の発言です!」
『違います! 私です!』
「僕です!」
『私です!』
「いいえ、僕が悪いんです!」
カティンカに恥ずかしい思いをさせたのは他でもない自分だから。
声に出した言葉によって這い出てきた過去がアーリスを苛む。
——私は悪くない! 魅力のないあなたが悪いのよ!
——お前ってノリが悪いよな。そんなだから婚約者も公爵令息にいくんだよ。
あの瞬間、棘ごと殻の奥に閉じ込めた傷が痛みを伴って心を塗り潰す。
「本当にごめんなさい。せっかくコージーが任せてくれたのにこんな信用を裏切るような真似……ザナの大切な友人に僕はなんて事を……」
『アーリス様!!』
それは今までにない必死の声だった。まるで引き留めるような、戒めるような、そんな声。
カティンカの表情の判別はつかないが、すっかり下を向いていたアーリスはのろのろと顔を上げた。
一拍置いてカティンカがひとつ大きく息を吐きだした。そんな音にもびくりと肩が揺れてしまって、なんだか幼少期に執事に叱られた時を思い出してしまう。
そんな緊張感がカティンカに伝わったのだろうか。いつもよりも少し固い声がアーリスの耳に届く。
『大きな声を出してすみません。あの、少しだけ私の話を聞いてもらってもいいですか?』
「……はい」
『ありがとうございます。あの、私、初めてお会いした時からずっとアーリス様の事、優しい人だなって思っています。でも結婚式の時とか検証が始まってからは優しいだけじゃなくて、真面目で、努力家で、正義感が強い人なんだなって思いました。さっきも、私を心配して言ってくれたんですよね? でも——……だからってなんでも自分が悪いんだって、そんな風に思わないでください』
「でも、今のは……」
『女性から男性への性的な嫌がらせもあるんです。たとえば密室で女性と二人きりになった時、二人の間に何もなかったとしても女性が泣いて訴えてしまえばそれが嘘でも罷り通る事もある。でもあなたはそんな場面で無実の罪を着せられても自分が悪いと、それを仕方がないと思うんですか?』
「それは……」
きっとそう思ってしまう、と言いかけてアーリスは口を噤んだ。
問いかけるカティンカの声は真剣さを帯びていて、本心からアーリスを案じているように聞こえるから。
そのまま言ってしまえば、彼女を傷付けるような気がしたから。
『もし本当にそうなったとしたら、アーリス様は自分の気持ちは後回しにしてでもちゃんと責任をとろうとするんでしょうね。でも、その優しさや責任感の強さを悪用されたら嫌じゃないですか!』
厳しさを含んだ声で彼女は言う。あなたの良いところを利用されたくないと。
『私は知り合ってまだ日が浅いですけど、でもアーリス様がそんな状況に陥ったら悲しいし相手の女性を許せません。イザンバ様も、コージャイサン様も絶対に悲しむし怒ります。私に女性だから大事にしろと言うのなら、アーリス様もご自分の心を大事にしてください』
優しさを含んだ声で彼女は言う。アーリスがカティンカにそう願ったように。
自分が言った言葉が彼女の願いをのせて打ち返された。
『アーリス様は何も悪くないです。今回は私が不注意で水晶を落としてしまった事が原因なんです。ご迷惑をおかけして申し訳ございません』
「カティンカ嬢……」
真正面からぶつかってきた彼女にヘーゼルが大きく揺れた。
——あまりにも眩しくて
——あまりにも温かくて
言葉がすんなりと腑に落ちる。
まるで憑き物が落ちたように体が軽くなり、アーリスは水晶の中でまだ頭を下げるカティンカに呼び掛けた。
「じゃあ……おあいこって事でどうですか? 今回の事、カティンカ嬢だって悪くないんですから」
『そうしましょう! 私がいうのもなんですけど本当に事故ですし、ぐちゃぐちゃーポイってして忘れちゃいましょう!』
「ぷっ、あはははははは!」
『どうしたんですか?』
確かにカティンカにとっては恥ずかしく忘れたい出来事に違いないだろう。でもアーリスは、今、カティンカからもらった言葉は忘れたくないと——そう思う。
けれども、同時にこれ以上言ってはいけない気がして。
「僕も過剰に反応し過ぎて申し訳ございません。それと……ありがとうございます。なんだか目が覚めた気分です」
清々しい気分になったアーリスに自然と微笑みが浮かぶ。それは声の調子でカティンカにも伝わったのだろう。頭を上げた彼女の声もまた和らいだ。
『いえ、私の方こそ偉そうに言ってすみません! ふふ、これで本当におあいこですね。実はさっきの……アーリス様やイザンバ様の真似をしたんですけど』
「そうだったんですか?」
『はい。まだハマルとは言い合いになっちゃう方が多いんですけど……アーリス様ならちゃんと聞いてくれるだろうなって思ったから』
自身を真似たと言われると、年下の女の子に諭された事が少しだけ気恥ずかしい。
カティンカもどこか照れ臭そうで、二人して誤魔化すように軽く笑う。
『アーリス様の優しいところとか真面目なところとか責任感が強いところとか、とにかく全部めちゃくちゃ推せるところなんです! これは絶対! だから余計にそこで損してほしくないなって思って』
それは確かな思いやりで、アーリスの心の柔らかい部分がなんだかむずむずして妙にくすぐったい。
『そもそも私の反射神経が良かったら落ちる前にキャッチ出来たのに! 明日から鍛えます!』
「あははは! じゃあ僕は復習します」
『復習ですか?』
「はい。ソクラテス卿の教えをもう一度胸に刻みます」
ソクラテスのいう紳士たるものとは、まずは上品で礼儀正しくある事。教養を身につける事。そして、冷静沈着に、忍耐強く、相手を尊重する態度を持つ事。
だが、相手を尊重するあまり自身を疎かにする事が誰かを傷つけるのならば——改めなければならない、とアーリスは思った。
それを気付かせてくれたカティンカに感謝の念が湧く。
「カティンカ嬢——……ってその体勢はなんですか?」
『え? 水晶拾おうと思って』
なんと水晶に映るカティンカは立っていた位置で四つん這いの格好だ。冷静沈着になるべしと思ったばかりのアーリスだが、まさに今一歩進もうとしている彼女にそんなものはすぐさま吹っ飛んだ。
「だからってなんでその格好⁉︎ 服汚れますよ⁉︎」
『え、でも落ちたままだと話しにくいし顔見えないじゃないですか。家の中だしこれくらいで汚れませんよ?』
「そうかもしれませんけど! あ、でも、立って近づくのも憚れますよね! 気付かなくてすみません! あの、それなら今日はこれで失礼しますから! 通信切ってから拾ってください!」
『分かりました。お気遣いありがとうございます』
このまま彼女を床に這いつくばらせているわけにはいかないにしても、カティンカの方が落ち着いている事が妙に納得がいかなくて。
それでもアーリスは努めて穏やかな声を出した。
「いえ。それじゃあ、また明日……おやすみなさい」
『はい、おやすみなさい』
水晶が暗転すると、アーリスは机に突っ伏した。さっきから胸が騒ついて仕方がない。
火照った頬に机のひんやりとした感触が心地良く、目を閉じてゆっくりと深呼吸を繰り返す。
しかし、中々騒つきは落ち着かない。
暫くして目を開くと水晶が一番に目に入った。それを見て、何よりも優先してコージャイサンに伝えるべき事項が出来たと拳を握る。
——球体はダメって言おう! 絶対言おう!
遠く離れた地、奇しくも二人の心が一致した瞬間であった。




