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検証が始まってもうすぐ一月。アーリスとカティンカの夕食後の検証もすっかり習慣となり、話す時間も最初を思えば随分と長くなっている。
そして、この日は少し落ち込んだ様子のカティンカから始まった。
『サリヴァン先生って本当容赦ないですよね……』
「どうしたんですか?」
『授業の話なんですけど……自分がまだまだだって分かってるんですよ⁉︎ 分かってるんですけど、でも推しがきても最初よりは耐えられるようになってきたと思ってるんです』
「おー! すごい! 頑張ってますね」
『ありがとうございます。でも、でも……今日は…………絵画の間にアダム様のコスプレ写真が挟まってたんですよ! しかも一枚だけ! 何アレずっっっるい!!』
力いっぱい悔しがるカティンカとは対照的にアーリスは中空を見つめて何やら思案顔。
「アダム……………………ああ! あのカッコいい怪盗ですね!」
思い出すのに少々時間を要したが、前にイザンバに見せてもらった写真にいたと納得の声を出せば、カティンカが水晶にずいっと近づいた。
『そうです! しかも私がヴィーシャさんから貰ったのとは別のやつだったんですよ! 爆イケすぎて思考停止しましたよね! 反応できないとかじゃなくて思考停止です!』
「ふふ、よっぽどいい写真だったんですね」
『それはもうっ最アンド高ですよ! なのに……『その後に出てきた貴族の似顔絵は誰のものザマスか?』なんて聞かれても推しの余韻に浸ってたから覚えてるわけないじゃないですか! 答え合わせしたけど全く知らない人でした! 一体私は何を試されているんでしょうか⁉︎』
「んー……社交をするにあたってある程度は知っておいた方が話も円滑に進みますから。昔ザナも『無理ー!』って言いながら貴族名鑑と睨めっこしてましたよ」
イザンバの場合は嫁ぎ先が公爵家なのだからもはや丸暗記の勢いだったが、いかんせん人の名前と顔を覚える事が苦手な妹は苦労していたな、とアーリスは思い返す。
しかし、過去を振り返った彼の言葉にカティンカは大いに嘆いた。
『イザンバ様で無理なら私なんて絶対絶対ぜーーーったい無理です! もしかして淑女教育の内容ってコージャイサン様や公爵夫人が関わってるんですかね⁉︎ だったら怖い!』
「写真が出てきちゃってるならその可能性は高そうですよね」
『やっぱりそう思いますか⁉︎ うぅ、頑張らなきゃいけないのに気が重い……』
小さい水晶の中のカティンカがさらに小さく縮こまった。その気持ちはアーリスもよく分かる。彼自身も経験したが故に。
「ご厚意を受けている身だと余計にそう思いますよね。でも……だからこそコスプレ写真が入ってたのかも。カティンカ嬢が思い詰めてしまわないように気分転換を兼ねているのかもしれませんよ?」
『そっか……そういうふうに考えるとちょっと楽かもです。ああ、でもそれならそれで大変言いにくいけどでもお願いしたい! ぜひ他の推しを! レグルス様とかミカエル様のコス写も混ぜて欲しい! 俄然やる気出る! そして買いたい! むしろ言い値で買います!』
アーリスは忍び笑いをしながらも納得した。成る程。コスプレ写真がやる気の燃料として投下されているのは間違いなさそうだ、と。
公爵家の厚意に押し潰されそうだったのがまるで嘘のよう。まだ見ぬ推しの写真にカティンカは貢ぐ気満々だが、その勢いは父や妹と変わらず大変危なっかしい。仕方がないな、とアーリスは苦笑を浮かべた。
「言い値はやめておきましょうね。破産しちゃいますよ」
『神のギフトたる写真が手に入るなら実質無料ですが⁉︎』
「ふふ、心理的にはそうですよね。じゃあこの前の価格を基準にして、使うのはいくらまでって決めておきましょう。じゃないと次の機会に手持ちがなくなってまた悔しい思いをする事になっちゃいますよ?」
穏やかに言ったつもりだが、最後は少しだけ意地悪な感じだったかもしれない。だが、カティンカはその忠告を素直に受け取り、悩み始めた。
『それは嫌です! じゃあ今度の報酬の七割、いや、八割、うーん、九割?』
「あはは! もうほぼ全部じゃないですか!」
『だって〜推しは存在するだけで偉大なんですから!』
「あはははははは!」
ご覧の通り、最初の頃は緊張に固まるカティンカをリードしていたアーリスだが、今では本人もリラックスした様子である。
実はアーリスが女性相手にここまで安心感を持って会話を続けている事は珍しい。
表面上はそうと分かりにくいが、三度の婚約解消は彼の心を硬い種皮で覆い隠したのだから。
けれども推しを全身全霊で崇め讃える姿、そしてカティンカが淑女教育を頑張っている話もまた昔の妹を彷彿とさせて。軽快なやり取りも相まってまるでもう一人妹が出来たようだと、アーリスはあの時と同じ気持ちで見守っている。
肩を揺らして笑った息を整えるアーリスの耳にカティンカのトーンダウンした声が届いた。
『あ、すみません。また私ばっかり話しちゃって……』
「大丈夫ですよ。カティンカ嬢の話、聞いてるの楽しいですから」
『やばー三次元の推しが今日も尊い。優しさ成分で癒される〜ありがとうございます! アーリス様は今日何されてたんですか?』
「んー、特に変わったことはなかったかなぁ……あ、今日のお茶請けがチェリーパイだったんですけど』
カティンカの問いかけに対していつもと変わらない自身の日常を振り返ったアーリスの頭にふと浮かんだものは小さな赤い果実のスイーツ。カティンカが楽しそうに食いついた。
『私の中でチェリーパイと言えば幼児化したイザンバ様なんですけど。あの姿で、しかもコージャイサン様にあーんされててメイドさんたちも大興奮でしたし!』
「ふふ、そうですね。まさかザナがやるとは思わなかったですけど、コージーの方が上手でしたね」
他人事だから楽しいカティンカと妹の性格を熟知しているからこそ驚いたアーリス。
幼児化だけではなくきっと妹がどんな姿になっても受け入れるであろう義弟に頼もしさを感じずにはいられないが、その花言葉の通り、あの時の妹は間違いなくコージャイサンの小さな恋人であったとアーリスは思う。
『んふふー! イザンバ様限定でゲロ甘なコージャイサン様と恥ずかしながらも受け入れるイザンバ様が超絶可愛いかったです! あ、アーリス様の幼児化はいつですか?』
「えー、急にそれ振ります? でも今のところ未定です」
『そうなんですか? クタオ伯爵様とコージャイサン様の話の感じだと絶対あると思うんですよね。私も機会が合えばお目にかかりたいです……推しがうさ耳ショーパンとかメロすぎー!』
「流石にあれは着ませんよ! ねぇ、着ませんからね⁉︎ カティンカ嬢ー⁉︎」
イザンバが着たから可愛いのであって自分が着ても絶対に似合わないとアーリスは言うが、カティンカはうさ耳幼児を想像しているのかどこか上の空。何度目かの呼びかけで、やっと意識がこちらに帰ってきたようだ。
『はっ! 話の腰折っちゃってすみません! チェリーパイ、結婚式前に伯爵邸にお邪魔した時も出てきましたけど、二人ともお好きなんですか?』
「さくらんぼはうちの領地の特産品で、今の時期が旬だからお茶請けでよく出るんです。僕はあまり酸味が強いのは得意じゃないんですけど……。カティンカ嬢はさくらんぼ食べられますか? 甘いものもありますし良かったら送りますよ」
『え、いいんですか? 甘いのも酸っぱいのも食べられます! ありがとうございます!』
「はい。あ、ちょっと行儀が悪いけどさくらんぼの茎を口の中で結んだ事ってありますか? 昔ザナとどっちが早くできるか競争してたんです」
『それやっちゃいますよね! 私もそこそこ出来る方ですよ! あ、そういえば、チェリーパイが出てくる話があるんですけど——……」
小さい水晶の中でカティンカが得意げに胸を張った。
さて、この後も展開されていくカティンカのオタトークに相槌を打つアーリスの表情はとても穏やかだ。
耳に届く声は彼女の感情が溢れている。
——時にテンション高めに
——時に切々と胸の内を明かし
喜怒哀楽のはっきりとした声を妙に耳心地がいいと感じてしまうのも妹の影響だろうか。しかしそれは同時に彼にとって実家にいた頃の懐かしさを手繰り寄せるものでもある。例え水晶の小ささで見え辛くとも。
『————最初はすっごく険悪だった二人が一緒に仕事をしてるうちにお互いを信用し合って、これまで人に言えなかった弱音を吐いた時なんかついにここまできたかーって感じで! 男の友情めっちゃエモーい!』
オレンジの髪の動きで気分が容易に想像できてしまうほどに。
『その後の展開がまた焦ったいんだけど神がかってて! もうっなんでこの人たちくっつかないの⁉︎ いや、ヒロインがいるのは分かってるけど! でも押し寄せるトキメキがいちいち威力高くて本当尊いっていうか!』
声の調子に合わせて表情が容易に想像できてしまうほどに。
『本っっっ当に神作品なんですよ! アーリス様も時間があったら読んでみてください!』
青空のような瞳がキラキラと輝いている様が容易に想像できてしまうほどに。
だから、気が抜けすぎたと言っても過言ではない。
「ふふ、可愛いなぁ」
『え?』
「え?」
アーリスからこぼれ落ちた言葉にカティンカの動きが止まった。つられて止まったアーリスだが、しばしの沈黙の後、自分が何を言ったのか理解すると途端に羞恥心が込み上げる。
「す、すみません!」
『いえ! お構いなく!』
「お構いします! あの、読んでみますって言ったつもりだったんですけどなんか入れ替わっちゃって!」
『そうなんですね!』
「でも変な意味じゃなくて! 家にいた時ザナもそんな感じだったから……! なんか懐かしくてつい!」
『ですよね!』
お互いに焦りを多分に含み、どちらも大きく身振り手振りを加えて弁明を試みる。心なしかカティンカの顔も赤いような気がするが、本人はそれどころではない。
「推しの事が好きなのが話してる声からも伝わってきてそれにすごく楽しそうに話すからきっと瞳をキラキラさせてるんだろうなって思ったら和んじゃうっていうか、話していると僕も自然体でいられるから落ち着くっていうか! 本当にやましい気持ちで言ったわけではなくて純粋に好きなものの事を話してるのとかもザナと一緒だし! いや、ザナを言い訳にしてるわけじゃないんですけど、でも生き生きしてて楽しそうなのがなんか可愛いなぁって思っちゃったからでして!」
『い、いいいったん落ち着きませんか⁉︎ そんなフォローしてもらわなくても大丈夫ですよ⁉︎ 私ちゃんと分かってますから!』
「フォローじゃなくて! これは……いったぁ!」
さらにアーリスは慌てて立ち上がった為に机で足をぶつけ痛みに蹲った。ぶつかった衝撃でゆらゆらと机上の水晶が揺れる。
『アーリス様⁉︎ 大丈夫ですか⁉︎』
案じるカティンカの呼び掛けに答えようとアーリスが顔を上げると、揺れる水晶の中の彼女の顔が何故か傾いて、遠ざかり。
『あっ』
ころころ、ころころと。
当人たちが思っている以上の勢いで転がり落ちた——。




