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通信を切った後、イザンバはヴィーシャが淹れたお茶で喉を潤しホッと一息ついていた。
「吹き出しちゃった時はどうしようかと思ったけど、まさかあんなに追撃ばっかりされるとは思いませんでした。マゼラン様とクロウ様のコンビはヤバいですねー」
思い出してまたクスクスと笑うイザンバだが、どうにもジオーネとヴィーシャは知っていたようで。
「イルシー曰くあのふわふわ男は自分が思い立った瞬間にああして突撃してくるらしいです」
「まぁご主人様は聞き流してはる方が多いみたいですけど、時々からかう側で混ざるそうですわ」
「あの冷やした手ですね! 私もされました! ふふ、クロウ様と私はびっくりさせられちゃった仲間ですね」
冷やした手もそうだが、ビートルに乗った時は二人だけが舌を噛んでいる。特別不運というわけではないが、クロウに対して妙な親近感が生まれそうだ。ふと、イザンバは思った。
「そう言えば前にお義母様がお義父様は気に入った相手をからかうって言ってたけど……」
「奥様のお言葉を借りるなら『やっぱり親子ね』というやつですね」
「あははは! まさにそれですね!」
それはジオーネも聞き覚えがあったからか素直な同意が返ってきた。楽しそうに笑うイザンバにヴィーシャがからかいの視線を向ける。
「若奥様には甘々仕様やから珍しい見えるんでしょ?」
「でも私にもあんな感じの時ありますよ。なんかこう、上手いこと遊ばれてるような、手のひらで転がされてるような」
「言うて若奥様もご主人様を振り回してますよ」
「え? どこがですが?」
目をまんまるにして尋ねるイザンバに対して護衛たちはにんまりと弧を描いて。
「無自覚に煽ったり焦らしたりしてはるでしょ?」
「まぁ若奥様が焦らした分はしっかり付いてますしね」
トントンとジオーネが鎖骨あたりを叩けば、たちまちイザンバの顔は赤みを増す。
そっとイザンバの手があるものに触れた。服の下に隠れた赤い花弁とエメラルドのネックレス。
——恥ずかしいけれど嬉しい
——恐れ多いけど誇らしい
想いの印はいつだって色鮮やかで、見るたびに甘く切なく胸を締め付ける。
『ザナは俺の妻です。身内ならともかく付き合いの浅い男にそう呼ばれて良い気はしません』
『ほんっとコージャイサンってイザンバちゃん大好きだよねー』
『分かりきったこと言うなよ』
さらに周りからもそう思われる程にコージャイサンは職場でも隠しもせずに示してくれている。
それはイザンバに自信と、何よりも安心感を与えるものだ。
——私も、ちゃんと——……。
「若奥様。お出迎え、頑張れそうですか?」
その問いかけにイザンバは紅茶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
側付き達の勢いに呑まれた感は否めないが、おかえりのキスをすると決めたのは自分だ。人目が気になって中々動けずにいたけれど労りと感謝を伝えたい気持ちは大いにある。その為に必要だったのはあと一歩を踏み出す勇気。
イザンバは今一度自身を鼓舞するようにゆっくりと瞬きをした。
「はい」
そのヘーゼルの煌めきに護衛たちはその意を支持すると言うように揃って頭を下げた。
そして通信を切ってから三十分後、イザンバは長く息を吐き出した。もうすぐコージャイサンが帰ってくる。そう思うと予想外の笑いに取って代わられていた緊張感が戻ってきたからだ。
気合いを入れ直したとはいえ、秒針が進むにつれてイザンバの心拍も徐々に速くなっていく。
彼の姿が目の前に現れた時、明らかに緊張に肩を強張らせ出迎えた彼女に「さぁ今日こそ成功なるか⁉︎」と使用人たちも固唾を飲んだ。
「ザナ、ただいま」
「お、おかえりなさい! あの……」
けれどもイザンバはコージャイサンの顔を見て一度動きを止めた。通信時には分かりにくかった疲労感を読み取ったからだ。
「疲れてるみたいですけど……首席様のお話、何か大変な事だったんですか?」
「いや。内容は先輩と同じだったけど粘られて……。とりあえずこれ部屋に置いてくるから先にダイニングへ行っててくれ」
「なんですか、それ?」
「魔導研究部特別招待券」
「わーお」
マゼランが言っていた通り正しく束である。どうやら粘られた末に押し付けられたようで、コージャイサンからため息が溢れた。
「部屋って私のところですか?」
「いや、俺の部屋。そっちに置くとプレッシャーに感じるだろ?」
そう言われるとイザンバは困ったように笑った。
「でもコージー様の職場でのお付き合いとか立場を考えたら行った方がいいですよね?」
「大丈夫だ。そんな事で仕事がしにくくなるようなところじゃない。前にも言ったけど全部に応じなくていいからな。キリがないから、本当に」
「ありがとうございます」
仮に毎日行ったとしてもこの束を使い切るのにどれくらいかかるのか。そして使い切る頃にまた追加される事が予想出来てしまうのは何故だろう。
二人は揃って苦笑を浮かべた。特にイザンバは出鼻を挫かれた事も含めて余計に。
部屋に向かって歩き出せばイザンバもついてくる事に、コージャイサンは不思議そうに尋ねた。
「先に食べてていいぞ?」
「えっと、その、私も……こっちに用があって」
「そうか」
側付き達とも離れてそのまま二人揃ってコージャイサンの部屋へ。彼は執務机の引き出しに片付けに行ったが、後ろ手に閉めた扉の前でイザンバの緊張感はピークに達していた。
折角やる気を奮い立たせたのだ。二人きりになった今なら、と痛いほどに早鐘を打つ心臓を抱えて彼を呼んだ。
「あの、コージー様!」
「ん?」
「お、おかえりなさい」
「ただいま」
「おかえりなさいませ」
「うん、ただいま」
「おかえりなさいませませ」
「……ザナ?」
不自然な程におかえりなさいを繰り返すイザンバに、流石におかしいと思ったコージャイサンは彼女に近づき膝を曲げて顔を覗き込む。
「どうした? 何かあったのか?」
「いえ、あ、の、その……」
イザンバはうろうろと視線を彷徨わせたが、じっと見られている事に耐えられなくなりそっと彼の目を手のひらで隠した。
なすがままのコージャイサンの耳にか細い声が届く。
「……おかえりなさい」
イザンバは彼の頬に短く口付け、そのまま逃げようとしたが敢えなく失敗。彼が素早く腰に腕を回していたからだ。
「こら、逃げるな」
そう言われても恥ずかしくてたまらないイザンバはなんとか抜け出せないかと腕の中でもがく。
しかしかえって強く抱きしめられ、コージャイサンの逃がすまいという意思がありありと感じ取れた。
優しい拘束にとうとうイザンバも諦めた。顔を胸元に埋めて隠す事をせめてもの抵抗として。
腕の中の新妻から伝わる心拍の速さが彼女の勇気を表していて、コージャイサンから熱い吐息が漏れる。
「今のはおかえりのキス?」
イザンバの耳元で低い声が甘く囀る。顔はこれ以上にないほど熱くなり、ただ頷くだけでも精一杯だ。
それでも彼がその続きを待っていると分かるから、イザンバは懸命に言葉を紡ぐ。
「あの、あのね……私まだ朝に一度もお見送り出来てないから、でもお仕事頑張ってとか、お疲れ様とか、伝えたくて……。だから、みんなが、出迎えの時に、もうちょっと、だけ、頑張ってみたらどうかって……」
「そうか」
優しい声音につられるようにそろりと見上げると、コージャイサンは笑っている。嬉しそうに、幸せそうに、ほんのりと頬を赤く染めて。
思わず見入ってしまったイザンバだが、次の言葉に肩が跳ねた。
「最近帰ってくるたびにそわそわしてたのはこれだったんだな」
「バレてた⁉︎」
「頬っていうのがザナらしいけど」
「あう……」
羞恥心は止めどなく、もうどんな顔をしていいか分からない。イザンバは再び彼の胸元に顔を埋めようとしたが、ある事に気付いて首を傾げた。
「あれ? 私が何か隠していたのは気付いてたんですよね?」
「うん」
「思考……読まなかったんですか?」
「読まない」
「どうして?」
ただ純粋に疑問に思ったのだろう。真っ直ぐに見据えてくるヘーゼルにコージャイサンは眦を緩め、滑らかな頬を指の背で撫でながら答えた。
「確かに思考を読めば何を考えてるか分かるけど、俺はザナの口から話を聞く方がいい」
「…………コージー様、そういうところですよ」
「何が?」
「だってもう本当に——……ズルい」
イザンバは思わず顔を手で覆った。
——それは信頼関係があるからこそ言葉を待つ、と
——二人で話す時間を楽しみにしている、と
効率重視ではないその言動にどうしようもない程に胸がときめいたから。
「ザナ、顔見せて」
けれども、胸がときめいたのはイザンバだけではなくて。隠れていた恋慕に濡れるヘーゼルに見つめられたなら、コージャイサンの表情は自然と甘く柔らかなものになっていた。
「こんな風に出迎えてもらえるなら明日も頑張れそうだ。これから毎日してくれるのか?」
「え⁉︎」
なんという事でしょう。毎日おかえりのキスを期待されているではないか。
翡翠は揺らめく。恋慕と独占欲と甘えたい気持ちを映し出して。
耳に馴染んだ声が強請る。彼女の胸を震わせるように。
「してくれるんだろう? 玄関で」
「なんでそこ指定⁉︎ やっぱり人前は無理です!」
「頬でいいぞ」
「無理無理無理無理! 今日だってすごく恥ずかしかったんですから!」
今回、二人きりになったからこそ行動に移せたという面は大いにある。しかし、やはりと言うか唇にするのはハードルが高かったようだ。
そんな新妻の性格を知っていてなおコージャイサンは笑む。
「でも俺の為に頑張ってくれるんだろ?」
「うぅ、そうだけど……でも、それとこれとは……」
「ははっ、耳まで真っ赤」
未だ御せぬ羞恥心にイザンバはお手上げ状態。コージャイサンはそんな彼女の顎を持ち上げ、親指で唇を撫でる。
「いつか——……」
「コージー様?」
それは未来を願う言葉。何が言いたいのかと続きを待つ彼女にコージャイサンはにっこりと、それはそれは綺麗に微笑んだ。
「じゃあ練習しようか」
「え?」
「ほら、ここ」
そう言って自分の頬を指差し待ちの姿勢。
「えっと、練習はしなくても」
「その方が早く慣れるだろ?」
「でも、あの……」
「ザナ」
早く、と愛称を呼ぶ声が急かす。
暫し葛藤したイザンバだが、意を決したのか彼の肩に震える手を添え、目を閉じて背伸びをした。
しかし、頬に触れる直前にコージャイサンが動いた。顔の向きを変えたのだ。
「んんっ⁉︎」
——強引だけど抱き締める力は優しくて
——己の唇が触れた先が頬ではないと分かって
イザンバが驚いたのは当然である。腕を突っ張ればあっさりと二人の間に隙間が生じた。
「ちょ、コージー様⁉︎ 今のはズルい!」
不意打ちの口付けにイザンバは真っ赤な顔で訴えたが。
「悪い。ザナが可愛いくてつい」
意地の悪い言葉に反して愛おしそうな表情を見せられては湧き上がっていた文句は自然と消えてしまう。再び、ゆっくりとコージャイサンの顔が近づいてくる。
——やっぱり……私の方が振り回されてる気がする……。
そう思うものの、今は甘く蕩けた翡翠ともう一度と唇を擽る吐息に応えた。今度は隙間を埋めるように、深くふかく——。
見つめ合い、語り合う事で二人の親密さは一層増していく。
気負わない会話も、積み重なる好意も、ふとした瞬間すらも、全てが鮮やかに光り輝くようで。
これは蜜が滴るほど甘い幸福感に満つる二人の日常、そのほんの一幕。
これにて「花みつる日常」は了と成ります!
読んでいただきありがとうございました!




