3
翌日以降、次こそはと思っても羞恥心が勝りイザンバは中々行動に移せないままでいた。
時には悶々としているうちにさらりとダイニングへエスコートされ、時には共に帰宅したゴットフリートにコージャイサンがそのまま執務室に連れて行かれる事もあった。
そんな新妻の奮闘を、側付きたちと使用人たちはヤキモキしながらもさり気ない気遣いと連携で応援しながら見守っているが、チャレンジはことごとく失敗に終わり、日が経つにつれイザンバの内心に落胆と焦りが浮かぶ。
そうこうしている内にコージャイサンの休日となった。奇しくもこの日はゴットフリートも休みで、公爵一家全員が揃ったのだ。
いつもよりも遅い若夫婦の朝、と言うよりもすでに昼。後からダイニングにやってきた公爵夫妻に二人は揃って挨拶をした。
「父上、母上、おはようございます」
「……おはようございます」
とはいえ、いつも通り淡々としたコージャイサンと気まずそうなイザンバとでは対照的である。
察しのいいゴットフリートが笑いを含みながら返す。
「ああ、二人ともおはよう。おや、ザナはまだ疲れが取れていなさそうだね。どれ、義父が治癒魔法をかけてあげよう。こちらにおいで」
「俺がするので結構です」
「遠慮するな」
「してない」
片やニコニコと、片や冷え冷えと。美形父子は今日も通常運転である。
嫁が関わるととても分かりやすい息子の態度にゴットフリートは愉快そうに喉を鳴らして笑った。
「妻に負担をかけすぎるのはよくないぞ」
「父上だけには言われたくないです」
「あ、あの……」
見透かされた事への羞恥心と止めたいけれどどう言えばいいのかと狼狽えるイザンバだが、心底呆れたようにため息を吐く義母に助けを求めた。
それを受けてセレスティアは柔らかく微笑んだ。
「気にしなくていいわよ。ゲッツはあなた達を構いたいだけだから」
「流石ティア。分かっているじゃないか」
「当たり前じゃない。さぁ、食事にしましょう」
セレスティアの号令で始まった昼食。しかし昼食後に若夫婦を驚かせる発言を投下したのもまたセレスティアであった。
「今日撮影会をするわよ」
「え?」
ぱちくりと目を瞬かせる二人だが、母は構わずにこやかに続けた。
「エルザも張り切っていてね。弟子たちと一緒にお出掛け用と夜会用のドレスを数着ずつ持って来るらしいから」
「今日ですか?」
「そうよ。コージーの休みの日にするって言ったじゃない。まさか忘れていたの?」
「いえ、特に気にしていなかっただけです」
「それを忘れていたって言うんじゃないの? まぁいいわ。約束の時間までまだあるからちゃんと整えてきなさい」
「マダムが来るまでする事なんてないでしょう」
全くと言っていいほどやる気なく言い返してくる息子にセレスティアは呆れたように息を吐くと、口調を強めた。
「私は整えろと言っているのよ」
「だから何をですか?」
「ドレスを着るためには肌を仕上げておく必要があるでしょ? ねぇ、ザナ?」
名指しされて首を傾げたイザンバだが、麗しく微笑む碧眼とは視線が合わず。セレスティアの言葉を反芻し、その碧眼が向けられた先を悟りサァッと顔色を変えた。
「は、はい! すみませんが一旦失礼します! コージー様行きましょう!」
「え?」
慌てて立ち上がったイザンバはコージャイサンの腕を多少強引に引っ張りながら早足で進む。向かう先は寝室だ。
コージャイサンを中に押し込み後ろ手に扉を閉めると、彼女は必死に訴えた。
「大変です! 急がないと!」
「何を?」
「こ、これ……早く消してください!」
イザンバが首元のボタン一個外しただけで見えるキスマーク。消せと言われてコージャイサンは不満を露わにした。
「えぇー……」
「えぇーじゃなくて! 流石にこのままはマズイです!」
「服で隠れる所だけなんだから気にしなくていいだろう」
「気にしますー! お義母様が言ってたじゃないですか、数着ずつ持ってくるって! つまり着替えが何回もあるんです!」
「いつも通りしたらいいじゃないか」
「話聞いてました⁉︎ 全部が全部今みたいに隠れるデザインなわけないじゃないですか! 夜会用のドレスとか即アウトです!」
「じゃあ諦めろ」
「諦めるのが早い! 潔さ男前か! だってお義母様もマダムたちも居るんですよ⁉︎」
「それこそ母で見慣れてるだろうから気にするな」
「え、お義母様も⁉︎」
ポン、ポン、ポン、と言葉は軽やかに飛び交うが、二人の声の温度差といったらない。
コージャイサンに譲る気がないのは明白であるが、それでも見上げながら言い募るイザンバはすでに羞恥心から涙目で。
「うぅ……でもぉ……」
彼女のこの表情にコージャイサンは滅法弱い。
——願いを叶えてやりたい
——自分の想いを貫きたい
庇護欲と罪悪感に掻き立てられ選択を迫られる中、自身を落ち着けるように小さく息を吐き出してからソファーに座ってイザンバを見上げた。
しかし、彼女の表情はコージャイサンが離れた事でより泣き出しそうになっている。
慰めるには遠く、相反する思いを処理するには時間が足りない。コージャイサンは拗ねたように妻から視線を逸らした。
そんな彼の態度にイザンバの視線が一層下がり、小さく彼を呼ぶ。
「コージー様……」
「……キスマークって所有印とも言うよな」
「そう、ですね」
「俺のものって印、そんなに嫌か?」
問いかける彼の声が少し弱々しく聞こえて、イザンバは顔を上げた。時間がない焦りから自分の気持ちを伝えるばかりで、彼の気持ちを考えていなかった事に気付き眉が下がる。
たくさんの印に彼の想いが籠っている。それは重々理解しているのに。
泳いだ視線を定めて、跳ねるように脈打つ心拍を抱えたまま、震える声がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの、付いているのが、嫌なわけじゃなくて……見られるのが恥ずかしいんです。それに……」
側付きたちに見られるのも未だに恥ずかしいのだとイザンバは言う。
羞恥心と恐怖心から閉ざした視界の向こうで彼がどんな表情をしているのかは分からないけれど、今しっかりと伝えないとすれ違う事は分かるから。
「……き…………キスマーク……が、なくても…………」
——この身も
「私は……もう、ずっと……」
——この心も
「コージー様だけの、もの、です……」
——この命すらも
ただ一人に捧げたもの。伝われと願うあまり強く両手を握りしめた。
か細い声の告白に目を瞠ったコージャイサンだが、彼女の言葉が染み渡ると駄々をこねた心が解け翡翠に歓喜が滲む。
「わがまま言って、ごめんなさい」
「ザナ……」
「でも、でもどうか今は消してくださいお願いします〜〜〜!」
けれどもイザンバは彼の変化に気付かずじまい。その必死さにどうにも気が抜けて。
「俺もごめん。意地を張った」
そう言ってコージャイサンはゆっくりと腕を広げた。
「ザナ、おいで」
その声はまるで甘い蜜。穏やかな彼の様子にイザンバは蜜に誘われる蝶の如くスッとその場所に収まった。ギュッと抱きしめられると額に、瞼に、口付けが落ちてくる。
「コージー様、あのね……」
「大丈夫。ザナの気持ちは分かったから。俺も——……この先もずっとザナだけのものだ」
「——はい」
真っ直ぐに向けられる言葉と甘く蕩ける翡翠に抱いたであろう不機嫌さは見当たらない。
理解し、譲歩してくれた彼に感謝するようにイザンバも抱きしめ返した。
すっかり安心しきった彼女は油断していたのだろう。
「それにキスマークはまた後で付ければいいだけだしな」
「え?」
「そうだよな?」
「ア、ハイ」
にっこりとそれはそれは綺麗に微笑む夫に「はい」以外なんと返せようか。コージャイサンがただ譲歩するだけの人ではないと言う事を失念していたイザンバは少し遠くを見てしまった。
コージャイサンはといえば、言質は取ったとばかりに満足そうに頷くと、妻を抱きしめたまま器用に片手でボタンを外ずしていく。
すると、彼の眼前に現われた白い肌に映える赤い花々。消す前にコージャイサンの指先がそっと触れる。ひとつ、ふたつ、みっつと。
「っ……や、くすぐったい」
「せっかく綺麗に付いてるのに消すのはもったいないなと思って。それに……」
唇を寄せたい衝動を堪え、滑らかな肌に頬擦りする。
「ザナの肌は触れるだけで気持ちいい」
「そう言って貰えるのは、嬉しいです。でも……」
「分かってる。ちゃんと消すからじっとしてて」
焦ったいほど丁寧に治癒魔法のほんのりとした温かさが肌をなぞれば花弁が散っていく。ひとつ、ふたつ、みっつと。
真っさらになった素肌を見て違和感を覚えたイザンバは苦笑した。やっぱり自分はなんてわがままなんだろう、と。
——あの痛みが
——あの熱が
恥ずかしいけれど、今やある事が当たり前になってしまっていたから。
そう考えるとすぐに羞恥心が湧く。そそくさとボタンを止めようとしたのだが、ここで発せられた夫の言葉に耳を疑った。
「じゃあ次、後ろ向いて」
「後ろ⁉︎」
「なんだ、気付いてなかったならそのまま……」
「いえいえ! 言ってくれてありがとうございます! はい、よろしくお願いします!」
元気が良すぎるほどの声を出して背中を向けたイザンバにコージャイサンはやれやれと肩をすくめた。
服をはだけさせ、髪を片方にまとめて流すが見えている方の耳は真っ赤である。
そんな妻を可愛いと思うと同時に沸き上がる悪戯心。それでも、治癒魔法が先程と同じように撫でるように施される。
温もりが離れた瞬間、肩甲骨あたりにコージャイサンの唇が触れた。
「ひゃっ! いま、なに……⁉︎」
「ん? キスしただけだ。これくらいなら跡は付かないって知ってるだろ?」
「あの、でも……本当についてない?」
「付いてないよ。ほら」
合わせ鏡で口付けた場所を見せてもらったイザンバは跡のない肌にホッと息を吐いた。
しかし、実は髪で隠れた首の後ろ側の黒子近くに一つだけ残されたキスマーク。その存在を今はまだ悪戯心と独占欲が彩った翡翠だけが知っている。




