2
朝戸風が芽吹いた草木の香りを運ぶ中、着替えを済ませたコージャイサンが柔らかな笑みを浮かべながらイザンバの寝顔を眺めている。起きる気配のない彼女の頬をひと撫ですると、タイミングを見計らったようにコージャイサンの自室側の扉がノックされた。
「コージャイサン様、時間だぜぇ」
「ああ」
寝室には入らず壁にもたれて主人を待つイルシーだが、離れる事を名残惜しむように髪を掬う主人の指先を見て憎まれ口を叩く。
「それさぁ、毎朝してっけど飽きねぇ?」
「飽きない」
四文字であっさりと返すとコージャイサンはベットを揺らさないようゆっくりと立ち上がった。そして寝室を出る頃には表情はいつも通りクールなものに。
しかし、先程までの甘ったるい雰囲気にイルシーがため息を吐く。
「ンな事するなら起こせばいいじゃねーかぁ」
だがコージャイサンはゆるく口角を上げるだけ。イルシーは軽く肩をすくめるとそのまま主人に付き従い、使用人たちに見送られて彼は仕事へと向かった。
こうして寝室に残されたのは健やかな寝息のみ。
徐々に日が差し込み、ふわりふわりとイザンバの意識が浮き上がる。
寝返りを打った際に手がもぞもぞと隣にあるはずの温もりを探した。しかし、触れる先に温もりはなく。
「…………んー?」
寝ぼけ眼のぼんやりとした視界にも彼の姿は映らない。一度ゆっくりと瞬きをした直後、イザンバは勢いよく起き上がった。
「今何時⁉︎」
慌てた様子で時計を見た彼女だが、すぐに布団に突っ伏した。すでにコージャイサンが家を出る時刻から一時間経っている。
「あぁぁぁぁぁあ、また起きれなかった……!」
イザンバがこんなにも落ち込んでいるのは、まだ一度も仕事に行くコージャイサンの見送りができてないからだ。
翌日に響くと分かっていて断れなかった自身のせいだとわかっているだけに、どうにももどかしいやら悔しいやら。
落胆と罪悪感を抱えたままのっそりと起き上がった彼女は足取り重く自室に向かう。扉を開けると四人の側付きたちが口を揃えた。
「おはようございます、若奥様」
「おはようございます……」
けれども返された声にハリはない。明らかに肩を落としているイザンバにヴィーシャがコロコロと笑いながら言った。
「あらあら、若奥様は今日も朝からしょんぼりさんで」
「だって……コージー様が起きたの全然気付かなかったんです」
「あたしたちも用がないなら起こすなとご主人様から言われてるので気にしなくていいと思います」
「でも……うう、今日こそはちゃんと起きて見送るつもりだったのに……」
ジオーネのフォローは有り難いが決意虚しくしっかり爆睡。疲れの一欠片も残っていない、実に健康的で爽やかな朝である。イザンバの表情とは一致していないが。
そこへリンダもフォローに回る。
「若奥様からのお見送りがあれば若様もさぞかし喜ばれる事でしょうがご無理をなさる必要はないかと。奥様も朝はゆっくりとされていますから」
「そうなんですか?」
「はい。なにせ旦那様と若様はよく似ていらっしゃいますから」
「えっと、あの、それは…………はい」
ニコニコとした表情と含みのある言い方になんとも居た堪れない。はぁ、と吐き出した息が重い。イザンバは心配そうな表情で側付きたちに尋ねた。
「あのね、コージー様、眠そうとかしんどそうとかじゃなかったですか?」
「はい。それどころかモチベーションが高まっていらっしゃるご様子です」
「え、本当に?」
ヘザーの答えにイザンバは目をまん丸にして。彼の方が睡眠時間は短いのにどうしてと不思議がる様子にヘザーは穏やかに続ける。
「若奥様とお過ごしになって心身共に満たされているからでしょう。何もご心配になる必要はございません」
今この邸で伝播する幸福感や満足感。オンヘイ公爵一家の面々の心の余裕は使用人たちの環境に如実に影響するのだから。
しかしながら新参者はあれこれと気を揉んでしまう。
「でも、やっぱり、仕事がある日は……私がちゃんと、言うべきですよね……?」
「そうは言いますが若奥様がこの時間に起きて動けてるんですからご主人様はかなり加減されてますよね?」
「え?」
「初夜や旅行から帰ってきた日の事をもうお忘れで?」
つまりは翌日のことも考えてしっかりと手加減はされていたと言う事で。ずばりと言うジオーネに対してイザンバの顔は真っ赤である。
イザンバの言い分も分かるが、それでも従者たちは主至上主義。優先すべきは主人の意思であるとヴィーシャもすげなく言う。
「ご主人様もほんまに疲れてはったらしはりませんて」
「それにその時は若奥様もすぐに気付くと思います。なにせ男は疲れていると勃ちが悪k……」
「わーっわーっわーーーっ!」
ジオーネのストレートな物言いにイザンバは叫びながら彼女の口を塞いだ。しかし、やんわりとその手を外される。向けられる紅茶色の眼差しはまるで手のかかる妹を見るようだ。
「まぁ若奥様が本気で嫌がったらご主人様も引くでしょうが」
「ゆうて満更でもないでしょうに。いけず言うたらあきませんよ」
「イ、イケズ、チガウ……」
うっとりとするほどの甘い笑みに内心を見透かされているようで、しどろもどろになるイザンバの頬にまた一段と赤みが増した。
リンダはそんな新妻を宥めながら鏡台へと誘導すると、豊かな茶髪を丁寧に櫛で梳く。
「若奥様のお気持ちも分かりますが、髪も、お肌も、こんなに触り心地がいいんですから。いくらでも触りたくなりますよ」
二人はまだ共に暮らし始めたばかり。浮き立つのも当然なのだと、リンダの言葉と丁寧な手付きに気持ちも少しずつ落ち着きを取り戻し。
「お身体を心配しているとお伝えになった上で都度お二人でお決めになられると良いかと」
「はい、そうします」
ヘザーに同意を示したイザンバの表情も穏やかなものになった。
あの翡翠に見つめられたらどうしたって否とは言えないイザンバは、そのせいで彼の負担になっていたらどうしようと思うからこその苦悩であったが、側付きたちからすればただの惚気話。実に平和な事である。
切り替えるようにヴィーシャが手を叩いた。
「ほな、お召し替えしましょか。本日のご予定は奥様の補佐となってます。どのようになさいますか?」
「いつも通りお任せで!」
「かしこまりました。髪はハーフアップに、お肌の調子も良いのでパステルカラーの小花柄のワンピースにいたしましょう。少し落ち込んだ気分もお肌につられて明るくなるかもしれませんよ」
「ふふ、お願いします」
ヘザーの指揮でくるくると側付きたちが準備に動く。流石の手際にイザンバはその身を任せていると、あっという間に楚々とした若奥様の出来上がり。
ヘアメイクを終えたところでヘザーが鏡越しに藍色の視線を向けた。
「僭越ながら若奥様」
「なんですか?」
「お見送り出来ない事を気に病まれていらっしゃるのであれば、ここは一つお出迎えの際にキスをするのはいかがでしょうか?」
「ファッ⁉︎」
キリリと真面目な顔つきでぶっ込んでくるヘザーにイザンバからは素っ頓狂な声が出る。混乱しきりの彼女を置いてリンダがノリノリで応じた。
「それはいいですね! 若様も間違いなくお喜びになられますしお仕事の疲れも吹き飛びますよ!」
「無理無理無理無理! そんなんで取れませんよ! そもそもみんないるじゃないですか!」
「安心してください。全員しっかり空気に徹します!」
「有能さの無駄遣いでは⁉︎」
親指を上げるリンダにイザンバは力いっぱい言った。
イザンバが恥ずかしがり屋である事は周知の事実。それならば周りが空気の一つや二つ読んでやろうではないかという使用人の鑑とも言えるリンダの心意気に、ヴィーシャもまたコロコロと笑いながら便乗する。
「いってきますとおかえりのキスなんか新婚さんなら当たり前ですわ」
「しない人もいますよ!」
「そんなんごく少数ですって」
「え、本当に?」
にんまりと弧を描くアメジストに、そんなはずはない、とイザンバはぶんぶんと首を横に振る。ふと、ジオーネと目が合うと彼女は力強く頷いた。
「ヤる事ヤッてるんですからおかえりのキスなんて可愛いもんですよ!」
「ヤッ……⁉︎」
「お迎えの際にちょっと頑張るだけで見送りができないという若奥様の憂いは万事解決です!」
「いやいやいやいや、しませんよ⁉︎」
なんと言う事でしょう。側付きたちはおかえりのキス推奨派。
「え? あの……」
右を見ても。
「みんな? え?」
左を見ても。
「でも、ひとまえ……」
ニコニコとした微笑みから妙な圧を感じ取ってイザンバは大いに狼狽えた。
「若奥様、頑張りましょうね!!!!」
「……………………はい」
綺麗に揃った四人の声に押されてつい頷いてしまったのもまた致し方なし。
さて、出掛ける予定がないとは言えイザンバの一日も中々に忙しない。
セレスティアの補佐として女主人の実務を学び、共に食事とお茶をする事で所作や振る舞いを高める傍ら検証と称したカティンカとのお喋りでほっと一息。
再び補佐に戻り一通り仕事を終えた後はジオーネとウォーキング、体力作りにもなるからと軽く護身術を学ぶ。そして、それを見守る使用人たちと自然と交流を深めている。
夕方にアーリスと検証をしてからようやく夕食まで図書室でゆったりと過ごす自由時間である。
最高の癒し空間でページを捲る音が不規則に時を刻む中、突如鈴の音が鳴った。イザンバは本を膝の上に置くと、ポケットから伝達魔法の水晶を取り出しすぐに魔力を通した。
『ザナ』
「コ、コージー様! お仕事終わったんですか?」
『ああ。ザナは今図書室か?』
「はい」
『そうか。今から帰る』
その言葉にイザンバの心臓がどくりと音を立てる。
「……分かりました。気をつけてくださいね」
カウントダウンが始まった。
——控えていた側付きたちにももちろん聞こえていた帰るコール。
怖気付く背を押されるも。
——側付きたちの微笑みと共に贈られるエール。
心拍はどうしようもないほどに早鐘を打って。
——人が集まる中で妙な緊張感に包まれる玄関ホール。
がちがちに固まるイザンバの思考はひたすらに羞恥心と逃げ出したい衝動にぐるぐるとするばかり。もういっそ部屋まで走り出そうかとしたその時、玄関の扉が開いた。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
使用人を代表して言葉を発したモーリスに鷹揚に頷いたコージャイサンだが、妻の姿を見つけて眦が緩んだ。
「ザナ、ただいま」
「お、おか、おかえり、なさ、い」
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いいいいえ! 元気ですすごく元気です! 今日も一日お疲れ様でした! さぁ、ご飯にしましょう! レッツゴーダイニング!」
だがしかし、イザンバにすんなりと出来るわけもなく。誤魔化すように彼の背をぐいぐいと押す。
訝しむコージャイサンが従者に視線を向けるが、彼女たちはすまし顔のまま。少し威圧してみてもそれは変わらなかった。
仕方なしにイザンバに視線を向けてもへらりと笑う。
——特に問題が起きたわけではなさそうだな……。
新妻たちの何かしらの企みを彼は見逃す事にした。
活動報告に従者たちの会話劇をアップ予定です。




