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夜、若夫婦の寝室。先に入浴を済ませていたイザンバはソファーで何やら思案顔。膝の上に本が載っているが彼女の集中力はそちらには向けられていない。そこへ忍び寄る一つの人影。
「うひゃあっ!」
突然頬に触れた冷たい感触にイザンバが驚きの声をあげた。
慌てて振り向けば悪戯な笑みを浮かべるコージャイサンがいた。彼は術式でわざと冷やした手で再度イザンバの顔や腕に触れていく。
「え、冷たっあはははははは! 待って待って!」
「おっと、逃すか」
「きゃー冷たいー! あははははははは!」
立ちあがろうとするイザンバを抱き寄せる腕は優しいのに、触れてくる手は相変わらず冷えたまま。そのギャップがまたおかしくて、彼女はケラケラと楽しそうに笑う。
しばし戯れていた二人だが、はしゃいで乱れた息を整えながらイザンバは夫に視線を向けた。
「もぉー、コージー様〜?」
「ははっ、悪い。ここに皺が寄ってたから。せっかくの可愛い顔が台無しだ」
「おっふ」
そう言ってイザンバの眉間に指先で触れるが、その顔はすぐに手で隠されてしまう。コージャイサンは小さく笑うと隣へ座り直した。
「何を考えていたんだ?」
「あのね、お兄様の事なんですけど」
「アル? そろそろ一回目の交換時期だが何か不具合でも生じたか?」
「いえ、それは大丈夫です。欲を言えば呼び出し音が鳴った時に相手が誰か分かるといいなとか、出られなかった時に誰から連絡があったって分かるといいなとか思いますけど」
「確かにあると便利そうだな。文字の情報を術式に組み込んで……相手の魔力を登録しているからそれと連動するようにすれば……いや、その前に音を……」
早速実現できるか考え始めたコージャイサンの横顔から伺えるのはワクワクとした雰囲気だ。
そんな彼の姿を可愛いなと眺めていたイザンバだが、ふと疑問を抱いた。
「あれ? そういえば最近はいつ作業してるんですか? 昼間はお仕事に行ってるし夜は……」
「ザナと過ごしてるな」
「ア、ハイ」
「昇格した時に俺も研究部に部屋を貰ったからそっちでしている。防衛局でも使うつもりだから」
「そうだったんですね」
趣味から始まったものが、今や仕事として成立している事にイザンバは驚いたが、同時に妙に納得した。使い勝手が良くなれば撮影機同様、防衛局がうまく活用するだろうと言う事に。
頬杖をつきながらコージャイサンは妻に微笑みかける。
「今度研究部の部屋にも来てみるか?」
「うーん……行ってみたいですけど、もうちょっとほとぼりが冷めてからにします。ほら、この前色々とやらかしちゃったし……」
コージャイサンの幼児化を含めた三種変化の自分の行動を振り返り、とほほと言うように肩を落とすイザンバだが、コージャイサンはそうでもないようで。
「誰も気にしてないけどな。むしろ次はいつ連れて来るのかって聞いてくるし。首席なんかうるさすぎるくらいだ」
「わぁー、恐れ多いです」
「今はマゼラン先輩とゴーレムの再活用に熱中してるけど、クロウ先輩曰く招待券を束で用意してるらしい」
「そんなにたくさん用意するものじゃないですよね⁉︎」
「別に全部に応じなくていいからな。首席の知識欲に付き合ってたらキリがないから」
そう言ってため息をつく彼から垣間見える疲れに、前回のファブリスの勢いを思い出したイザンバも苦笑を浮かべた。
さて、すっかり話が脱線してしまったがコージャイサンが話の軌道を元に戻す。
「それで? アルの何を気にしているんだ?」
一体妻は何を憂いていたのか。案じる翡翠にイザンバも改めてその胸中を吐き出した。
「ほら、結婚式でご令嬢たちに囲まれた時にね、コージー様が助けてくれるまでお兄様ずっと囲まれてたじゃないですか?」
「ああ、あれな。断るにしても出来るだけ相手を傷付けないようにしたんだろうけど……」
「今までにない勢いで来られてるから押し負けちゃうんでしょうね。別室に行った後も囲まれるのは怖いって言ってましたし」
「アルの気持ちは分からなくないが次期伯爵として避け続ける事は難しいな」
優良物件を狙う令嬢たちの顔つきはまさにハンターの如し。しかし、そんなガッツ溢れる令嬢たちを相手にするにはアーリスでは経験値が低すぎるのだ。
令嬢たちと距離を置いてきた経緯も知っているが、やはり現実としてこのままでは居られないとコージャイサンは言う。イザンバも神妙に頷いた。
「はい。お義母様や他のご夫人方とは普通に話してるし。あ、カティンカ様とも毎日話しているせいかすっかり打ち解けてるんですよ。なんかね、私と話している時みたいで気楽なんですって。私がカティンカ様と話した内容とかも大体知ってるし」
妹と同じオタクだからこそアーリスにとっては気負わずに話せる相手であるが、検証の進捗を聞いてコージャイサンは満足気な笑みを浮かべる。
「へぇ……アルは聞き上手だから面白いくらいに筒抜けになってるんだろうな」
「そうなんですよ。まぁ別に知られて困る事はないんですけど。でもお兄様を驚かせようと思ってもちょっと反応が薄くてつまんないです」
そう言って少し唇を尖らせる妻にコージャイサンはクツクツと喉を鳴らして笑った。
——兄の反応をつまらないと言いながらも
——二人の会話の種になると分かっていながらも
先にカティンカに話しているのは彼女自身なのだから。
「まぁ何が言いたいかっていうと、お兄様の場合は社交が出来ないってわけではないけど年頃のご令嬢が相手だと苦手意識が先に出ちゃってるんじゃないかと思って」
どうやらイザンバは、兄のこの先を案じて苦手意識克服のために何か手助けができないかと考えていたようだ。
そこでコージャイサンも己の考えを口にした。
「……それなら時期を見てアイツらをアルのところに送り込もうと思ってる」
「アイツらってイルシーですか?」
「いや、ヴィーシャとジオーネだ。アイツらなら令嬢の行動のあらゆるパターンを想定できるから。あとはそうだな……ザナの友人たちとお茶会をして慣らしていくか」
「あ、成る程! 皆さんも気にしてくださっていましたし一度聞いてみます! それならカティンカ様も呼んでもいいですか⁉︎」
「そうだな。仕立て直しの披露目にもなる。アルも多少荒療治になるが今なら耐え切れるだろう」
クッと上がった口角が彼の余裕と厳しさを見せつけて。イザンバはぱちくりと瞬いた。
「コージー様って意外とスパルタですよね」
「そうか? 実践に勝るものはないだろう?」
「それはまぁ……そうですね」
いくら頭の中で対策を練ったところで肝心な時に動けなければ意味がない。
アーリスの優しさを逆手に取られる前に彼自身が躱し方を学ばなければならないからこその厳しさであるとイザンバも理解した。
「ザナとしてはアイツらが外れても大丈夫か?」
「んー、あのね、今日ナチトーノ様から結婚式の招待状が届いたんです」
「いつだって?」
「一年後です」
「まぁ相手が皇族だしそれくらいだろうな」
「その返事も兼ねてナチトーノ様のところに行きたかったんですけれど……やめた方がいいですか?」
少し眉の下がった表情で伺いを立てる彼女にコージャイサンは優しく微笑んだ。
「いや、行っていいよ。まだその時期じゃないし」
「そうなんですか?」
「ああ。その時が来たらアルには俺から連絡する。だからこの話はカティンカ嬢にもまだ言うなよ」
筒抜けだからこそ念を押すようにコージャイサンは「しー」と唇の前で人差し指を立てる。きっと悪い事にはならないだろう彼の企て、加担する事に少しだけ胸を躍らせながらイザンバはこくこくと頷いた。
「分かりました。二人がいない間は外出は控えますね」
「それなら一人ずつ交代で行かせる。その間はリアンをつければ問題ないだろう」
「そこまでしなくても大丈夫ですよ?」
「俺は別に出掛けるなと言いたいわけじゃないんだ。ただ心配なだけ。今はザナの魅力に気付いた人も多いだろうしな」
少し憂いを含んだ声音に、あ、とイザンバは思った。
『男からの注目をあの二人に集めて、お嬢様を他の男から隠しておきたいって言う割と強めの独占欲。あなたはイイ女だからそれだけ大事にされてるって事、忘れない方がいいっすよ』
それは新月の夜になされた死者からの助言。見上げた先の端正な横顔は相変わらずそんな独占欲をおくびにも出さないまま。
それでも意識してしまった彼の想いに頬が熱くなり、イザンバは顔を隠すように彼の肩に額をつけた。
「どうした? 眠い?」
「ううん、なんか……大事にされてるんだなって思ったら…………照れ臭くなっちゃいました」
言葉にするのも恥ずかしいのか声は先程までよりもずっと小さい。
恥ずかしがり屋の妻の頬をゆっくりと撫で、クイッと顎を持ち上げれば羞恥と恋慕で潤んだヘーゼルに己の顔が映る。コージャイサンは吸い寄せられるようにそっと唇を重ねた。
何度か啄んだ後の深い口付けは全身が甘く痺れるようでイザンバの心臓が早鐘を打つ。
コージャイサンの手が奥で眠る情欲を呼び起こすように体の線をなぞった時、
——濡れた彼の唇が
——吐息に含まれる熱っぽさが
首筋に触れてイザンバの体が小さく震えた。
「っ——待って。明日もお仕事じゃ……?」
「うん」
「うんじゃなくて……。あの、もう寝ないと」
「大丈夫」
「でも昨日も……ほら、疲れが残るといけないから」
「残らない」
「そんなわけないです!」
「本当。俺の事、甘やかしてくれるんだろう?」
「そ、うだけど、でも……」
そう言われると返事に困るのはイザンバ自身が言った事だから。
「ザナ」
そっと囁く声が理性を揺らす。
もう夜の帷が下りた二人きりの場所。真っ直ぐに見つめてくる彼の瞳には紛れもない恋慕と情欲が浮かんでいる。
そんな翡翠に覗き込まれて彼女が否と言えようか。グラグラと揺れる天秤が音を立てて傾いた。
——真っ赤に染め上がった頬で
——翡翠の色を移したヘーゼルで
——震える腕で抱きしめて
それだけで彼に伝わるとイザンバは知っている。
新妻の健気な意思表示にコージャイサンは嬉しそうに笑うと、彼女の耳元で甘く囁いた。
「ありがとう。移動するからしっかり掴まって」
今宵も愛しい人の腕の中。互いだけが知る甘い熱の高鳴りに酔いしれた。




