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結婚式から四日後。アーリスが領地に着くであろう日の夜がとうとうやってきた。
サリヴァンの授業を乗り切り、夕食も終えて自室に戻ったカティンカだが、ぶつぶつと独り言を溢しながら落ち着きなく動き回っている。
「しまった。検証って何話せばいいんだろう……オタトークしちゃダメだし、ああ、推しが足りない……いやいや、頑張れ私! うーん、アーリス様との共通点……え、イザンバ様しかなくない? 結婚おめでとうってもう言っちゃってるけどもっかい言う⁉︎」
カティンカは考えた。母に言われた通りお行儀よくするにはやはりオタクを前面に出せない。しかし、前面どころか埋もれているのが彼女である。そして部屋も然り。
——検証をすれば部屋の様子が分かるから
——淑女の仮面の仕立て直し中だから
そんな理由を並べ立てる家族に仕立て直しが終わるまではと渋々推し断ちを決行したところ……。
「やったー! ついにオタクをやめたー!」
「違うし。ちょっとの間見ないようにするだけだし」
小躍りしている父と弟にはイラッとした。ああ、もうすで推しが恋しい。
そして、カティンカが認識している彼との共通点はイザンバのみというこの現状。
「何話せば……あ、推し吸いたい……ちょっとだけなら……いやいや、ダメだって! 我慢でしょ私! てかマジで何話せば……あれ、もしかして始まる前から詰んでる?」
頭を抱えたカティンカの耳に軽やかな鈴の音が届き大袈裟なほどに肩が跳ねた。ごくりと唾を飲み込んで水晶に魔力を通せば、そこに映るアーリスの姿。
『カティンカ嬢、ご機嫌よう』
彼の声は結婚式の時と変わらず穏やかで。
「ご、ご機嫌よう、アーリス様……えっと、無事に到着されましたか?」
——ってなに聞いてんの私⁉︎ 無事についてるから今話してんじゃん!
何か言わなければと口を開いたが、出てきたのはむしろ聞かなくても分かる事。自分のコミュニケーション能力のなさに落ち込むカティンカに、けれどもアーリスは揚げ足を取る事なく返してくれた。
『はい、トラブルもなく帰ってこれました。今日から検証も出来るんでよろしくお願いします』
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
『僕の方は音声も映像も問題ないんですけど、そちらも乱れはありませんか?』
「はい、大丈夫です」
しかし、会話が途切れ沈黙が落ちる。チクタク、チクタクと、カティンカの内心なぞ嘲笑うように今日も時計の針は元気に進む。
——気まずぅぅぅい! あぁぁぁあ、前にもこんな事あったけど何か話さなきゃ……ヤバいヤバいヤバい、イザンバ様助けてぇぇぇっ!
焦れば焦るほど話題なんて一つも思いつかなくて。ああ、イザンバという安心感が恋しくて仕方がない。
そわそわと視線が泳ぎ落ち着きのなくなった彼女の耳が敏感に音を拾った。それはこっそりと笑う声。水晶が小さくて肩が揺れているのはなんとなく分かる程度だが。
『ふふ、ふふふ……ああ、すみません。もしかして緊張してますか?』
「え、あ、その……はい」
『ですよねー。僕も緊張してます。なんかザナが間に居ないと変な感じですね』
「そ、そうですね」
アーリスの言葉には全面同意であるが彼が緊張しているようには全く見えない。推しとイザンバ以外の話題なんて到底思い付かないカティンカは早くも検証を引き受けたことを後悔していた。
『そうだ。今日は今後のルールを決めませんか?』
「ルールですか?」
『はい。検証するにしてもいつ呼び出し音が鳴るか分からないなんてそわそわしちゃいません?』
おどけるような口調で言われたが、実際カティンカには身に覚えがありすぎるくらいだ。
「あー……はい。それは確かに」
『だからまずは時間から決めませんか?』
アーリスからの提案にカティンカは一も二もなく同意した。何回も頷く彼女にアーリスはクスリと笑うと穏やかな口調で尋ねた。
『カティンカ嬢がこうやって話すのに都合のいい時間帯ってありますか?』
「そうですね……昼間は……予定が入っている事もありますけど、基本的にはいつでも大丈夫です」
予定と一纏めにした中にまだアーリスには言っていない彼女の秘密の仕事が含まれているが、カティンカとしては領地経営をしているアーリスの方が忙しいだろうと彼の都合に合わせるつもりである。
『お茶会とかありますもんね。じゃあ、今日みたいにこのくらいの時間でどうですか? 大丈夫ですか?』
「はい、それで大丈夫です」
『予定がある時は言ってくださいね。時間を変えるかその日はやめるか、その時に決めましょう。あとは本体と魔力の消耗具合も知りたいって言ってたし……。うーん、同じ条件を作り出すなら毎日僕から繋ぎましょうか』
「いえ! それはなんか悪いですし、あの、こ、こ、交代で、というのはどうでしょうか?」
『いいんですか?』
「はい。私も仕事として引き受けた身ですから」
『じゃあそうしましょうか。あ、そうそう、一番大事な事を忘れてました』
「え?」
大事な事と言われてもピンとこないカティンカが首を傾げれば、水晶からとても優しい声音が伝わって来た。
『体調が悪い時は絶対に無理しない事。この時間以外でも可能な限り出ますから、そういう時は遠慮なく言ってくださいね。コージーもそういう時は検証しなくていいって言ってましたし』
「はい。あの、アーリス様も……お忙しい時とか疲れている時は無理せず言ってください」
『ありがとうございます。今日は初日だからこれくらいにしましょうか。そろそろ三分経ちますし』
アーリスは前もって準備していたようでチラリと懐中時計を見る仕草と告げられた言葉にカティンカは驚いた。
「え、は、計ってくれてたんですか⁉︎」
『コージーが伝達魔法を繋いで話す時間は最低でも三分って言ってたから一応ですけど』
「わ、わ、ありがとうございます。あの、明日は私が計ります」
『はい、お願いしますね。それじゃあカティンカ嬢、お疲れ様です。また明日』
「はい、お疲れ様です……また、明日』
以前イザンバがしたようにアーリスが手を振るからカティンカも控えめに手を振り返す。
時間にして三分ちょっと。彼の人柄をほんの少しとはいえ知っているからこそコージャイサンと相対する時のような恐ろしいほどの緊張や疲労はなかったが、それでも通信が終わって大きく息を吐き出した。
「なんか、ものすごい気を遣ってくれてた気がする……アーリス様マジで優しすぎやしないか⁉︎ これは推せる!」
彼の姿は見えなくなったが、カティンカは水晶に向かって感謝を込めて拝み倒したのであった。
そしてそれ以降、サリヴァンからの淑女教育の後に検証という毎日続いている。
「今日王都はいい天気だったんですけど、そちらはどうでしたか?」
『こっちもいい天気でしたよ。作付けが始まっていつもより多くの領民と挨拶してたら散歩の時間がすごく長くなっちゃいました』
「え? つまりアーリス様は直接領地を見る派ですか?」
『せっかく領地にいますからね。って言っても今日は邸付近だけですけど。部屋でずっと書類仕事してると外に出たくなっちゃうんです』
だとか。
『あれ以来ご両親の体調にお変わりないですか?』
「はい。公爵夫人とロイ姉様のお陰です。…………お父様なんて毎日うるさいくらいだし」
『え? すみません、最後の方聞き取れなくて』
「いえ、大したことではなくて、えっと、あの、めっちゃ元気ですって事です!」
だとか。
当たり障りのない話題で三分から五分ほど話してお終い。カティンカは実にお行儀よくやり過ごしている。
そんなある日。授業の休憩中にチリンチリンと軽やかな鈴の音が鳴った。部屋で休んでいたカティンカはのっそりと動きなんとか表情筋を動かすと水晶に魔力を通した。
そこには少し見慣れて来た色合いの、けれども夜に見る彼ではなくイザンバの姿。
「イザンバ様、ご機嫌よう」
『カティンカ様、ご機嫌よう。今お時間大丈夫ですか?』
「はい」
相手がイザンバというだけで安心感が半端ない。アーリスと話す時よりもリラックスした状態で受け入れてしまったが、返ってきたイザンバの声音も嬉しそうで。
『良かった! 今は休憩時間だって聞いていたんですけど、お邪魔しちゃってごめんなさい』
「全然そんな事ないですよ。イザンバ様こそ今大丈夫なんですか? コージャイサン様とかコージャイサン様とかコージャイサン様とかとイチャイチャタイムなのでは?」
『そんなイチャイチャしてません! それにコージー様は今日からお仕事なんです』
「あ、そうなんですね。それは寂しいですねー。じゃあイザンバ様は何してたんですか?」
カティンカの質問にイザンバは少し水晶の向きを変えた。そこには分厚い貴族名鑑と紙の束の山と万年筆が見える。
『結婚祝いのお礼状を書いてました。なので私もちょっと休憩です』
「成る程、お疲れ様です。お邪魔虫にならなくて良かったです」
それにしても公爵家ともなるとお礼状の量も半端ない。これを一人でこなしているのかと思えばまた感心してしまう。
けれども水晶が再びイザンバを映せば、彼女はニコニコとしながら尋ねてきた。
『カティンカ様、お兄様との検証って何時ごろしてますか?』
「夕食が終わった後ですね」
『そうなんですね。じゃあ、私は今日みたいに休憩時間にお話ししてもいいですか?』
「でもそうなるとイザンバ様に色々質問しちゃうと思うんですけど……」
同じ先生から教わっている事や結婚式前に泣きついた時も丁寧に教えてくれた事、何よりイザンバはカティンカの友人の中で淑女として抜きん出ているのである。
これ以上手本になり、また目標となる人物がいるだろうか。いや、いない。
申し訳ないと思いつつも年下の友人に頼ってしまう自信があるカティンカに、けれどもイザンバは朗らかに微笑んだ。
『サリヴァン先生との授業が継続になったのってわたしのせいですよね。だから私でお役に立てそうならいくらでも聞いてください』
「いえ! 私も必要だなって改めて思ったんで、そこは全然イザンバ様のせいじゃないです!」
『ありがとうございます。予定がある時とか体調が悪い時は無理しないでくださいね! あの、それで……色々とお話ししたい事があるんです!』
「私もあります!」
『じゃあカティンカ様からどうぞ』
「いえいえ、イザンバ様からどうぞ」
『いえいえいえいえ、カティンカ様から』
「いえいえいえいえいえいえ、イザンバ様から」
何度も互いに譲り合ってなんだかおかしくて。二人は揃って吹き出した。
「ぷっ、あはははははは!」
思いっきり笑えるとはなんと気持ちのいい事だろう。しかし、カティンカは「あっ」と口元を抑えたかと思うと慌てて謝罪した。
「すみません。大きな声で笑ってしまって……」
『じゃあ私もですね。カティンカ様、ごめんなさい』
そう言って何故かイザンバも水晶の向こうで頭を下げるからカティンカはまた慌ててしまう。
「え、なんでイザンバ様が謝るんですか⁉︎ 謝らないでください! そんな必要なかったですよね⁉︎」
『それならカティンカ様も謝る必要ないですよ。私たち友達なんですから』
「でも、私は淑女教育を受けてる最中だし…… イザンバ様もアーリス様も落ち着いて対応してたのに……だからなんて言うか、もっとちゃんとしなきゃって思って……」
『さっきまで授業だったから余計にそう思われますよね。じゃあ社交の練習って感じで話しましょうか?』
水晶越しでも分かる。スッとイザンバの雰囲気が変わった事が。すごいなと思う反面彼女の気やすさを知るからこそどこか距離を感じて寂しい。
「いや、でも、イザンバ様とは思いっきり話したい気持ちもあって……」
どうしたって折り合いのつかない願望と反省がカティンカの中でせめぎ合う。
俯いたカティンカをイザンバが呼ぶ。それは毎晩聞いているアーリスと似通った穏やかさを持っていて。
『ふふ、ねぇ、カティンカ様。結婚式に来てくれて本当にありがとうございました。あの後お義母様からも私たちの事を庇ってくださったと聞いてすごく嬉しかったです』
「とんでもないです! 庇うって言うか私にとってはそうだって事を言っただけで! まぁ、あの、その後やらかしてるんですけど……」
『全部別室での事なんだから気にしないでください。と言ってもカティンカ様は気にしますよね。でもロイ姉様も言ってたじゃないですか。頑張るのもいいけど自分を大切にしなさいって』
「言ってましたね」
その後『潰れた心は治癒魔法でも治せない』とも。
頑張る者たちを何度も治してきた医療管理官だからこそ出てきた言葉だろう。
そして、それは何も肉体を酷使する事だけに当てはまらない。
『休憩時間の後のパフォーマンスを上げるためにも今は一旦自分の時間ですよ』
「自分の時間……」
『そう、淑女の仮面は着脱可能なんですから……はい、今はもうオフタイムです! 全力で推しを讃えるもヨシ! 推しに癒されるのもヨシ! 推しへの愛を叫ぶもヨシ! 何してもいいんです!』
「でも……」
——まだ何も出来てないのに甘えちゃっていいのかな……?
そんな心の迷いを読むようにイザンバは言う。
『カティンカ様、私社交界では頑張って隠してるんですけど素はすっごい二次元オタクなんです! それでも一緒にお話ししてくれますか?』
淑女の微笑みとはまた違う笑顔で待つイザンバにカティンカは目を見張った。そして思い出す。話したい、と最初に声をかけたのは彼女自身だ。だから返す言葉はただ一つ。
「はい!」
イザンバと話すこの時間だけは淑女の仮面を脱ぐ事を許してほしいとそっと心の中で詫びながら、カティンカは元気よく返事をした。




