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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第一部
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08.噂の剣士

 実之と菜々の婚約が決まると、旅支度も早々に整えられた。三ヶ月という期間を待たずして出立することになったのだ。ひとつには、紫苑の目がまだ確かなうちに少しでも多くのものを見せてやりたいという帝や菜々の希望もあった。

 この頃になると佐兵も駆けつけて来ており、どこからどのように経由していけば良いかなどを話し合った。

「これから冬に向かいますので、いったん西から南を目指しましょう。まず海側を歩き、折り返しに山側をゆきます。戻って参りましたら、十日ばかり京で養生しましょう。主な道筋は四つございますので、これを四度くりかえします。期間はおよそ四年半。それから東へ向かいます。噂の剣士はこの際に拾うといたしましょう。その頃であればお二人のお年も丁度よろしいかと」

 手製の地図を広げ、指差しながら、佐兵は嬉しそうに説明した。なにしろ一人旅の多かった佐兵だ。大勢での旅が楽しみでならなかった。

 佐兵の説明に帝も満足していた。無難な道、安全な宿、名所、休憩所。それらのすべてを把握し、細かなことに配慮しながら計画を立てる佐兵に感心するほどだ。

「そのほうは、ずいぶんと旅慣れているな。そんな調子では塔に仕えている暇もなかろう」

「いやいや、これが私に与えられた塔の仕事でして。各所を巡り見聞を広め、様々な者と出逢い、人材を集める……とはいえ、なかなかこれと思う人物には当たらぬのですが」

 頭をかきつつ困ったように笑う佐兵。その表情には人柄の良さがにじみ出ている。帝はつられて笑いながら、深くうなずいた。

「真崎には、おぬしという良き家臣と立派な息子がいる。あとは人手だな。この旅路で恵まれるといいが」

「いやいや、とんでもない。今回は紫苑様の大切なご旅行。そんなことに時間をさいてはいられません。台無しにしてしまわぬよう誠心誠意、尽くさせていただきます」

 帝は闊達に笑った。

「真面目よのう」


 確かに佐兵は真面目なだけが取り柄の男だ。が、今いっそう真面目に徹するのには訳もある。なにしろ真崎家の将来がかかった大仕事だ。ろくな人材を集めることができない自分もようやく役に立てる日が来たと、はりきっていた。

 また、帝のご息女を見れば年端も行かぬ子供であるが、もうすぐ四十の声を聞く年の佐兵もドキリとするほど美しい。あと二〜三年もすればどれほどになるか。そう思えば胸も踊った。首をかしげて微笑む姿は愛らしく、屈託ない笑い声に心が癒される。なによりも、目の覚めるような美少女で地位もありながら、中身はまったく普通の少女であることが、余計に魅力だった。

 旅の話も毎日聞きたがった。風景を賛美すれば遠い目をして憧れ、変わった人間の話をすれば目を丸くして驚き、失敗談を語れば笑ったり同情したりする。表情豊かで素直な少女は穢れもなく、真に美しいと言えた。

 このような少女には、それに相応しい男が必要だ。

 帝にならったわけではないが、佐兵は心からそう思った。


***


 それから三年。

 南を旅する道中で、佐兵は落ち着かなかった。噂の剣士が道場の門をくぐったと聞きおよんだからだ。それも保倉柴門の……

 東の都では五指に入る名門だ。古くから銀の塔に仕えてもいる。門弟に入った慎太郎が目を付けられて塔へ吸収されでもしたら、鉄の塔は目も当てられない。確かな筋の情報ではどの誘いも断っているというから安心していたのだが、本当だとすれば由々しき問題である。

 そんなことを考えていると、紫苑の手が軽く佐兵の腕に触れた。

「どうかしましたか?」

 紫苑はもう完全に失明してしまっている。その少女が、心配そうな顔で尋ねてきた。佐兵は驚いた。不安な気持ちをどうして悟られたのかと。

「いえ、あの、わたくし事でございます」

「佐兵。私たちは友達でしょう? 隠し事はしないで」

「し、紫苑様」

 佐兵は目を泳がせた。菜々はもとより、実之や菊をまるで本当の兄姉のように思いやる紫苑を、たびたび目にしてきた。しかし佐兵は、菜々のように幼い頃から共に育ったわけでもなく、実之や菊のような地位があるわけでもない。そのように声をかけてもらえるとは思いもせず、動揺した。

「さあ、何を悩んでいるのか教えて? 力になりたいわ」

 佐兵は喜びに身を震わせ、歯を食いしばりながら白状した。

「実は、例の剣士が道場入りしたという噂を耳にしまして。しかも保倉の道場とか。銀の塔に吸収されてしまっては、私たちにはどうすることもできません」

「まあ……でも、まだ決まったわけではないのでしょう? 道場にいるうちに引き抜いてみてはどうかしら」

「誉れ高い剣士を引き抜くだけの財力はありません」

「お金なら私が」

「まさか! そのようなことを頼める義理では」

「ない、と言うの?」

 紫苑はキッと眉を上げた。

「もともとはお父様が頼んだことです。私がお金を出すのは当然です。それにもしかしたら、伴侶となる方かもしれないのだし」

「紫苑様」

 佐兵が声を落とすと、紫苑は柔らかく微笑んだ。

「東の都へ行く楽しみが増えたわ。ね、そうでしょ?」

 その気丈さには、とても楯突けない。佐兵は苦笑しつつ頭を下げた。

「参りました。紫苑様の大切なお金。有益になるよう使わせていただきます」


***


 こうして更に月日は流れ、佐兵は銀の塔が見下ろす町の通りを歩いていた。紫苑たちを先に宿で休ませ、自分は保倉柴門を訪ねるつもりでいたのだ。

 だが人生とは予測がつかないことの連続だ。佐兵は柴門とひと目も顔を合わせることはなかった。

 長く続く塀瓦。その上に差し出た桜の枝はたくさんの花をつけている。人通りは少なく、爽やかな風が吹き、穏やかな日差しが降り注ぐ。こんな平和な昼下がりに、世界でも終わるような顔をして塀の角から飛び出して来た青年がいた。ずいぶんと背が高い。白い剣道着姿だ。すぐに保倉道場の道着だと分かったが、佐兵は笠を目深に被って立ち止まり、しばらく遠くから様子を見た。

 絶望に満ちた瞳。今にも涙が頬を伝いそうだが、どうにか堪えているというふうだ。まさか試合に負けたわけでもなかろうと、佐兵は失笑した。

 同性から、たいそう妬みを買いそうな男である。鍛えられて引き締まった身体は見るからにしなやかそうで、恐ろしく均整が取れている。そんな身体に備わるにふさわしい、男らしく美しい顔立ち。若く穢れない表情から醸し出される存在感がまた、なんとも言えない。

 佐兵は「もしや」と思いながら、ようやく歩を進めた。


 長く旅をして来て、噂以上の者に出会ったことはない。例の剣士も、良くて噂に違わぬ程度だろう。

 佐兵はそう思っていた。

 だが容姿からして噂以上だった剣士のその腕たるは、尋常ではなかった。多少の心得がある程度の菊と菜々は論外であり、幼い頃から稽古に励んでいた実之さえも、またたくまに一本取られた。

 向かうところ敵なし。

 そんな言葉が似合う男であった。


***


 むろん、まだまだ真の実力というものは分からない。実之の言うように、国中の者と戦わせてみたいところだ。

 佐兵は、周囲に気を配りながら歩く慎太郎を見て思った。

 時おり実之が不機嫌そうにしているのは、どうでも妬けるからだろう。菜々と親しげに話をしようものなら鬼の形相だ。菜々も心を決めているとはいえ、慎太郎が目を向けると女らしく恥じらいを見せる。そういうことが、いちいち癪に障るのだ。

 加えて、いまでは妹のように想っている紫苑が慎太郎の声に逐一耳を傾け、頬を染める始末。はがゆいやら何やらで、いろいろと落ち着かないようだ。

 実之様も修行が足りぬ。

 佐兵はそっと溜め息ついた。


 しかし本当の悩みどころはそこではない。一番大事なのは、慎太郎と紫苑の行く末である。紫苑の心はほぼ傾いているようなので問題ないのだが、慎太郎はといえば……これが不思議なことに、サッパリ分からなかった。


 紫苑を美しいと思っていることは確かだろう。誰が見ても美しいものは美しいのだ。無言で顔を眺めていることも多い。ところが恋情が絡んでいるかとなると、非常に妖しかった。慎太郎はあまり自身のことを話さない。ゆえになおさら分からないのだ。

 一線を引いた距離。一枚壁を隔てた会話。たまに見せる虚ろな顔。

 佐兵が気になったのは、保倉の道場で破門寸前だったということだ。高名な剣士に利用価値がないなどと言われても、にわかには信じ難いことである。表向きの理由だとしか考えられなかった。


 ある夜。

 見張りの組み合わせが菜々と慎太郎では不安だと訴えた実之のおかげで、佐兵は慎太郎と向かい合い、じっくり話す機会を得た。佐兵は「この際だから腹を割ってもらおう」と意気込んだ。

「ぜひとも本当の訳を聞かせてもらいたいものです。なぜ保倉の道場を出ることになったのですか?」

 慎太郎はグッと押し黙った。まあ、そう簡単に聞き出せるとは佐兵も思っていない。辛抱強く返答を待った。佐兵に見据えられている慎太郎の心境はどうだか知れない。だが額に汗し歪めた顔が、彼の苦痛を物語っていた。

「……俺には」

 ふと慎太郎は呟いた。

「俺には結納まで交わした相手がいた」

 佐兵は反射的に自分の顔を打った。人が話したがらないことは、やはり聞くべきではなかったのだ。

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