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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第四部
47/47

47.祝言

 改めて求婚されたマナは、今度こそ間違わずに断った。羅山は黙ってうなずいた。

 それが最初で最後の優しさだったかどうかは、マナには分からない。ただ、昔捨てた男の祝言に出席することだけは避けられたのだ。

 マナは父親のもとへ戻り、羅山が用意した手切れ金と持てる物だけを持って、都を去った。その後の父娘の消息を知る者はない。

 祝言にて、羅山が一人で訪れたことを不審に思った者も少なくなかったが、あえて尋ねる者もいなかった。めでたい席である。加えて、広間の奥の一段高い位置に座る花婿と花嫁は、みなが溜め息ついてみとれるほど美しいのだ。野暮な話はせぬにかぎる。

 凛々しく、たくましく、穢れなく咲き誇る慎太郎と、可憐に、慎ましく、はかなげに咲く清らかな紫苑。

 二人は祝福されながら、永遠の愛を誓った。

 粛々とした儀式のあとは、宴が催された。真っ昼間から夕刻にかけての長い宴である。

 酔った七伏が慎太郎に絡む場面も見受けられたが、三宅にあえなく御用となって閉め出されたり、祝言が終わってもひっきりなしに届く祝いの品をもてあましたり、配膳と接待に走り回る女中が忙しさのあまり何か腹にすえかねたのか、突然「いいかげんにして下さい!」と怒鳴って宴がお開きになったり——とまあ、めまぐるしい一日が過ぎた。


 しかし確かに、いい加減のところでお開きになったのだ。あとは夜を待ち、部屋にこもる時間である。

 空は晴天。星がきらめく三日月の晩だ。

 慎太郎は紫苑を抱き寄せ、手探りで着物を脱ぐと、紫苑の着物も取り去った。そしてゆっくりと愛撫し、何度も交わした口づけを深いものに変えていった。

 時々おびえて震える紫苑を優しく抱きしめ、「大丈夫だ」と囁く。そんな慎太郎の熱のこもった声に、紫苑は身を任せた。

 鮮血と共に失われるものと、紡がれるもの。

 痛みと共に知ることと、忘れ去るもの。

 人はそんな営みを繰り返していくものだが、二人は何も見失わずに、ただ紡いだ。何者をも忘れることなく知った。互いの心を強く結ぶ愛と瞬間を……


***


 一夜明け、みな遅くに起きた。そして朝食だか昼食だか分からぬ食事をすませあと、のんべんだらりとしていると、帝からお呼びがかかった。夫婦となって初めての朝を迎える慎太郎や紫苑も例外ではない。というより、むしろ主役である。

 宮中の者が呼び集められたのは演習場だ。帝はそこで、にこやかに言った。

「では飛び降りてもらおうか」

 目の前にはハシゴをつけた(やぐら)があった。いや、櫓というにはあまりにも高い。塔に匹敵する高さの代物である。

 慎太郎は唖然として見上げた。

「よくこんなものを造りましたね」

「造るのは得意だ」

「で、これにのぼって飛び降りろと?」

「そのとおりだ。わざわざ造らせたのだから、断るなよ?」

「俺が頼んだわけじゃありません」

「まあまあ」

「というか、何故そんな話になっているんです?」

「細かいことを言うな。おぬしが塔から飛び降りたという話が本当かどうか確認したいだけだ」

 慎太郎は渋い顔をした。実之をジロリと見やると、実之は「身に覚えがない」と言わんばかりに首を横へ振った。両親を見ると真っ青になっている。式を挙げた翌日に、どうして息子が自殺をうながされているのか分からないのだ。

 ついで佐兵を見ると、こちらは何か事情を知っているようで、汗を拭きつつ目をそらした。

 慎太郎はうなり、また櫓を見上げた。その横顔に帝は今一度、言った。

「綱が必要なら用意させよう」

 慎太郎は顎を上向けたまま、空に突き刺さる櫓の頂上を睨んだ。

「どこに結わえるんです? 土台が固定されてもいないのに」

 指摘するとおり、土台は車輪である。慎太郎が飛び降りてみせるためだけに建てるわけにもいかず、移動式にしたからだ。こんな不安定なものに結わいつけた綱など、おそらく役には立たないだろう。

「しかし、おぬしが命綱をつけずに塔から飛び降りたと言うからなあ」

「誰が」

「真崎が」

 慎太郎は再び実之を見やった。実之はまた首を横に振った。

「お、お、俺じゃないぞ! 断じて、俺ではない!」

「じゃあ……」

 と、慎太郎は佐兵を見た。佐兵は深く頭を下げた。

「申し訳ありません!」

 つまり実継のほうかと、慎太郎は呆れた。それから帝に視線を戻した。

「一回だけですよ?」

「ケチくさいことを言うな」

「こんな馬鹿げたこと、一回やれば充分でしょう」


 というわけで、慎太郎は櫓をのぼった。てっぺんに立ち、両腕を広げ、鳥が枝から飛び立つように、宙へ舞った。

 緩やかな回転と勢いのある速度。慎太郎は風と空気が織りなす糸をかいくぐった。天高く舞い、塔からも飛び降りることのできる者だけが体感できる神秘である。

 腰に命綱はない。だが全身に、見えない糸が幾重も重なって巻きついていると感じるのだ。

 地上より五間の位置に差しかかって、慎太郎は最後にもう一回転し、みごと足から着地した。もうもうと立ちこめる土埃や飛び散る小石に前列の見物人はややむせる。しかしそこに悠然と立つ慎太郎を認めると、なりふり構わず拍手喝采した。

 慎太郎の両親はと言えば、腰を抜かした。神懸かった跳躍や剣技を見ては来たが、まさか塔の高さから飛び降りても平気とは思っていなかったのだ。

 そんな彼らを尻目に、帝は大喜びした。

「いやはや、これはスゴイ。見事だ! どうだ婿殿、もう一回!」

 これにはさしもの慎太郎も、額に青筋立てた。

「二度とやりません」

 とはいえ、胸には達成感が残った。

 この瞳が塔を見上げても、もう陰が映ることはないだろう。

 そう信じられる心で、慎太郎は天に輝く太陽を仰いだのだった。

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