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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第四部
43/47

43.かりそめの宿

 慎太郎は食事と風呂をすませて正殿へ向かった。一足先に向かっていた実之と佐兵が、帝らと談笑しているところへ割って入る形となった慎太郎は、少々気まずそうにして腰を下ろした。話の内容が聞こえてしまったのも、その一因である。


「婿殿の実家までは、どのくらいかかる」

「さて。馬を使えば、ひと月と少し。徒歩ならそれ相応にかかりましょう」

 佐兵が答えると、帝は紫苑の顔色をうかがった。

「馬か。どうだ紫苑。行けそうか?」

「ええ。ちょっと苦手だけど、ご挨拶にお伺いするんですもの。がんばります」

「そうか。では出発は……結納の品をそろえる準備も入れて、一週間後くらいが適当だろう。それまでしっかり養生することだ」

「はい」

 紫苑は、はにかみながらうなずいた。その手を菜々がとり、

「おめでとうございます」

 と言うと、紫苑は頬をそめながら満面の笑みを浮かべた。実之がそれを見て、

「いや、本当にめでたい。俺ももう一度、菜々と式を挙げたくなった」

 と膝を打つので、みなが笑った。そこへ慎太郎が入った。

 慎太郎はやや苦笑いしつつ、帝と対面した。

「挨拶とか結納は、もっと簡略化していただいてもよろしいのですが」

「なにを言う。人生の大切な節目ではないか」

「しかし実家は遠く、紫苑に負担がかかります。なにより……」

「ん?」

「なにより、その、挨拶に来られても、もてなす物もなければ、泊まる場所もありません」

 言いながら、慎太郎はうつむいて軽く溜め息ついた。結納金をおさめに来た柴門の様子を思い出したのだ。瓦を葺いていない屋根。建て付けの悪い戸。障子のない窓。親子三人が雑魚寝するほどの広さしかない部屋——それらを見た時の、開いた口がふさがらないほど驚き呆れた顔を。

 貧乏を極めるとはこういうことか、と今にも言い出しそうであった。しかし慎太郎の手前こらえ、両親に挨拶をした。内心で蔑んでいるのは明らかだったが、当時の柴門は「慎太郎を婿に」と望む気持ちが強かったのだろう。必死にその感情をおさえ、取り繕っていた。

 両親は柴門を前に作り笑いもせず、ただ深い溜め息をついた。


 あれをもう一度繰り返すというのは、なかなかキツイ。


 慎太郎はそう思って、できることなら田舎には来てほしくないと遠回しに告げた。ところが紫苑はクスクスと笑った。

「泊まる場所の心配ならいりませんわ。旅の空の下。何度も野宿したじゃありませんか」

「え? あ、いや」

「それに、ご挨拶のためお伺いするのに、おもてなしなんて」

「しかし」

「私、慎太郎様を育ててくださったお父様やお母様に、お会いしたいわ」

 慎太郎は盛大に息を吐いて、うなだれた。

「野宿はさせられない。家の者が外で寝る。ただ、雨が降ると……」

「そうですわね。雨の場合は、少々歩いても宿があるなら、私たちはそちらに」

「いや。少々歩いたぐらいの距離に宿屋はない。俺が気にしているのはそっちじゃなくて」

 紫苑は小首をかしげた。

「なんですか?」

「瓦を葺いていないので多少雨漏りがする。よけて寝られないこともないが、寝返りは絶対に打てない」

 黙って話を聞いていた帝や実之が、目を丸めた。口を挟んだのは実之だ。

「おぬし、けっこう仕送りしていたではないか。もうそのあたりは改善されているのではないか?」

 慎太郎は顔を上げて実之を見据えた。

「いくらか免除されていたとはいえ、道場へ通うには金がいる。その金は村の者が出し合ってくれた。だからほとんどが返済にあてられているはずだ。そうなると、残った金の使い道は着るものや食うものにかぎられる。住み慣れた者が暮らすぶんには問題のない家だから、修繕などしていないだろう」

「ほう。村の者が貢いだのか。ずいぶん人望があるな」

 と言ったのは帝である。慎太郎が驚いて目を向けると、帝はニヤッと笑った。

「出世払いというやつだろうが、よほど見込みがなければ他人のためにそこまでできぬ。たいしたものだ」

「偶然、人のいい連中が集まっているだけです」

「謙遜するな」

「いえ、本当に」

 慎太郎は、いたって真面目な顔つきだ。保倉家に裏切られたことで、人の醜さや欲深さを目の当たりにしたはずだが、それでもなお、人の善意が純粋だと信じて疑わないのである。

 帝は面食らった。「何の見返りも求めず、また恩義もなく、他人の子の出世のためにひと肌ぬごうなどという人間が、一カ所にそう何人もいてたまるか」と思いはしたが、まっすぐな心に水をさせなかったのだ。

「ではこうしよう。鍵崎に大工を雇わせ、早急に寝泊まりできる程度の宿を造らせる。建てられそうな場所くらいあるだろう」

「はあ。しかし、そんな簡単に」

「こちらが到着するまでには間がある。余計な飾りや施設はいらないし、小さいものでいいのだから、一ヶ月もあれば充分だ」

 帝の押しに慎太郎は黙った。それを承諾と受け取った帝は、さっそく宮仕えの者を呼び、羅山のもとへ伝達に向かわせた。


***


 おかげで羅山は早々に宮を発ち、早馬を乗り継ぎながら、ほとんど休むことなく移動し続けて東の都へ戻ることになった。要した日数は十二日。まさに飛んで帰ったというわけだ。


 羅山は帰るなりマナを訪ね、慎太郎の故郷がどこにあるのか聞いた。マナは恐怖に顔をこわばらせた。

「そんなことをお尋ねになられて、どうなさるおつもりですか」

「大工を雇って、近くに簡易な宿を建てねばならぬ。早く教えろ」

「……は?」

「時間がない! 早くしろ!」

「は、はいっ!」


 塔主のやることに驚いたのは慎太郎の故郷の者とて同じだ。村の空き地に都の大工がやって来たと思ったら、おもむろに測量を始め、あれよあれよと言う間に小さな宿をこしらえてしまったのだから。

「こんなところに宿なんて必要ねえと思うが、なに考えてんだかねえ」

「御上のやることはさっぱり分からないよ」

「そういや関係ねえけどよ。たえさんの話だと近々、慎太郎が帰ってくるらしいぜ?」

「へえ? よかったねえ」

「なんでも、また結納だってえ話だ」

「ええ!? まあすぐに次が見つかるとは思ってたけどねえ」

 村の衆はそんなふうに、男も女も入り交じって宿を遠巻きに見ながら立ち話した。

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