43.かりそめの宿
慎太郎は食事と風呂をすませて正殿へ向かった。一足先に向かっていた実之と佐兵が、帝らと談笑しているところへ割って入る形となった慎太郎は、少々気まずそうにして腰を下ろした。話の内容が聞こえてしまったのも、その一因である。
「婿殿の実家までは、どのくらいかかる」
「さて。馬を使えば、ひと月と少し。徒歩ならそれ相応にかかりましょう」
佐兵が答えると、帝は紫苑の顔色をうかがった。
「馬か。どうだ紫苑。行けそうか?」
「ええ。ちょっと苦手だけど、ご挨拶にお伺いするんですもの。がんばります」
「そうか。では出発は……結納の品をそろえる準備も入れて、一週間後くらいが適当だろう。それまでしっかり養生することだ」
「はい」
紫苑は、はにかみながらうなずいた。その手を菜々がとり、
「おめでとうございます」
と言うと、紫苑は頬をそめながら満面の笑みを浮かべた。実之がそれを見て、
「いや、本当にめでたい。俺ももう一度、菜々と式を挙げたくなった」
と膝を打つので、みなが笑った。そこへ慎太郎が入った。
慎太郎はやや苦笑いしつつ、帝と対面した。
「挨拶とか結納は、もっと簡略化していただいてもよろしいのですが」
「なにを言う。人生の大切な節目ではないか」
「しかし実家は遠く、紫苑に負担がかかります。なにより……」
「ん?」
「なにより、その、挨拶に来られても、もてなす物もなければ、泊まる場所もありません」
言いながら、慎太郎はうつむいて軽く溜め息ついた。結納金をおさめに来た柴門の様子を思い出したのだ。瓦を葺いていない屋根。建て付けの悪い戸。障子のない窓。親子三人が雑魚寝するほどの広さしかない部屋——それらを見た時の、開いた口がふさがらないほど驚き呆れた顔を。
貧乏を極めるとはこういうことか、と今にも言い出しそうであった。しかし慎太郎の手前こらえ、両親に挨拶をした。内心で蔑んでいるのは明らかだったが、当時の柴門は「慎太郎を婿に」と望む気持ちが強かったのだろう。必死にその感情をおさえ、取り繕っていた。
両親は柴門を前に作り笑いもせず、ただ深い溜め息をついた。
あれをもう一度繰り返すというのは、なかなかキツイ。
慎太郎はそう思って、できることなら田舎には来てほしくないと遠回しに告げた。ところが紫苑はクスクスと笑った。
「泊まる場所の心配ならいりませんわ。旅の空の下。何度も野宿したじゃありませんか」
「え? あ、いや」
「それに、ご挨拶のためお伺いするのに、おもてなしなんて」
「しかし」
「私、慎太郎様を育ててくださったお父様やお母様に、お会いしたいわ」
慎太郎は盛大に息を吐いて、うなだれた。
「野宿はさせられない。家の者が外で寝る。ただ、雨が降ると……」
「そうですわね。雨の場合は、少々歩いても宿があるなら、私たちはそちらに」
「いや。少々歩いたぐらいの距離に宿屋はない。俺が気にしているのはそっちじゃなくて」
紫苑は小首をかしげた。
「なんですか?」
「瓦を葺いていないので多少雨漏りがする。よけて寝られないこともないが、寝返りは絶対に打てない」
黙って話を聞いていた帝や実之が、目を丸めた。口を挟んだのは実之だ。
「おぬし、けっこう仕送りしていたではないか。もうそのあたりは改善されているのではないか?」
慎太郎は顔を上げて実之を見据えた。
「いくらか免除されていたとはいえ、道場へ通うには金がいる。その金は村の者が出し合ってくれた。だからほとんどが返済にあてられているはずだ。そうなると、残った金の使い道は着るものや食うものにかぎられる。住み慣れた者が暮らすぶんには問題のない家だから、修繕などしていないだろう」
「ほう。村の者が貢いだのか。ずいぶん人望があるな」
と言ったのは帝である。慎太郎が驚いて目を向けると、帝はニヤッと笑った。
「出世払いというやつだろうが、よほど見込みがなければ他人のためにそこまでできぬ。たいしたものだ」
「偶然、人のいい連中が集まっているだけです」
「謙遜するな」
「いえ、本当に」
慎太郎は、いたって真面目な顔つきだ。保倉家に裏切られたことで、人の醜さや欲深さを目の当たりにしたはずだが、それでもなお、人の善意が純粋だと信じて疑わないのである。
帝は面食らった。「何の見返りも求めず、また恩義もなく、他人の子の出世のためにひと肌ぬごうなどという人間が、一カ所にそう何人もいてたまるか」と思いはしたが、まっすぐな心に水をさせなかったのだ。
「ではこうしよう。鍵崎に大工を雇わせ、早急に寝泊まりできる程度の宿を造らせる。建てられそうな場所くらいあるだろう」
「はあ。しかし、そんな簡単に」
「こちらが到着するまでには間がある。余計な飾りや施設はいらないし、小さいものでいいのだから、一ヶ月もあれば充分だ」
帝の押しに慎太郎は黙った。それを承諾と受け取った帝は、さっそく宮仕えの者を呼び、羅山のもとへ伝達に向かわせた。
***
おかげで羅山は早々に宮を発ち、早馬を乗り継ぎながら、ほとんど休むことなく移動し続けて東の都へ戻ることになった。要した日数は十二日。まさに飛んで帰ったというわけだ。
羅山は帰るなりマナを訪ね、慎太郎の故郷がどこにあるのか聞いた。マナは恐怖に顔をこわばらせた。
「そんなことをお尋ねになられて、どうなさるおつもりですか」
「大工を雇って、近くに簡易な宿を建てねばならぬ。早く教えろ」
「……は?」
「時間がない! 早くしろ!」
「は、はいっ!」
塔主のやることに驚いたのは慎太郎の故郷の者とて同じだ。村の空き地に都の大工がやって来たと思ったら、おもむろに測量を始め、あれよあれよと言う間に小さな宿をこしらえてしまったのだから。
「こんなところに宿なんて必要ねえと思うが、なに考えてんだかねえ」
「御上のやることはさっぱり分からないよ」
「そういや関係ねえけどよ。たえさんの話だと近々、慎太郎が帰ってくるらしいぜ?」
「へえ? よかったねえ」
「なんでも、また結納だってえ話だ」
「ええ!? まあすぐに次が見つかるとは思ってたけどねえ」
村の衆はそんなふうに、男も女も入り交じって宿を遠巻きに見ながら立ち話した。




