33.御触書
東の都は例年どおり何事もなく時を過ごし、夏を越そうとしていた。周辺の田舎はもうすぐ秋。町では商人が、畑では百姓が年貢を納めようと必死になりはじめている。慎太郎の故郷でもそのような動きがちらほら見られる中、村人が一人、民家へ駆け込んだ。世話役の男で、齢六十である。
「たえさん、おふれがき見たかい!?」
たえ、と呼ばれたのは慎太郎の母である。ちょうど繕い物をしていたところだ。夫は畑に出ている。最近は慎太郎が仕送りするので、着物は安物ながらも新しく、髪もきっちりと結わえて小綺麗にしている。四十なかばだが、そこはかとなくある美しさは若い頃から変わらない。
「どうかしました?」
「どうもこうも、剣士を集めて東の一番を決めるんだってよ! 慎太郎を出してやったらどうだ」
興奮気味に話す世話役の男を見やって、たえは眉をひそめた。
「……おふれがきってことは、塔が一枚かんでるんじゃ」
「お? お、おう」
「じゃあ、おあいにくさま」
「まあまあ、そう言わず。もったいねえじゃねえか」
「慎太郎は、よそでうまくやっているんです」
「たえさん」
「あの子は帰って来ません」
キッパリと言い放つたえを、世話役の男は目を見開いて見つめた。
「そう手紙に書いてありました。離れていないとダメなんですよ、きっと」
「ダメって、なにがだい?」
「許せないんですよ。でも遠くにいれば許せそうな気がする。そんなところじゃないでしょうか」
「なんだい。それならよお、いっちょ試合に出て一番取りゃあいいじゃねえか。あの強さを見せつけてやりゃ……」
「恨みがはらせるとでも?」
「おうよ」
たえは軽く目を伏せた。
「親の私が言うのもなんですけど、あの子はそんな器の小さい子じゃありません。取った取られたなんて話はザラにあることですし、恨みなんてはらしても、はらされたほうがまた恨む。堂々巡りだってことは、よく分かっていると思うんです。それに本当に強い人間っていうのは、人を許せるものだと教えてきましたから」
世話役の男はしんみりと宙をあおいだ。
「確かになあ。あの力で仕返しくらったんじゃ、おっ死んじまう。そう言っとくのが無難ってもんだ。だがよお、どうしても許せなかったら、どうするんだい」
たえは伏せていた目を上げた。
「そりゃあ恨みをはらすでしょうね。でも、感情のまま突っ走ってもいいことにはなりません。ちゃんとした方法でなくては」
「お、そりゃ、どんな方法でい」
「さあ? だけどもしかしたら、許すことが最大の復讐なのかもしれません。いっそ殴られたほうがマシっていうのもいるでしょうし。報復されたら、そんなに執着していたのかと、あざ笑うこともできます。けど、許されてしまったら本当に負けです。もっとも、あの子が許さないのと私が許さないのでは、だいぶ意味が違いますから、私は許しませんけどね」
たえが肩をすくめて少しいたずらっぽく笑うので、世話役の男もつられるように笑ったあと、腕組みした。
「なるほどねえ。わかった。もう何も言わねえ。だけどよ、その気になったら加勢すっから、いつでも帰って来いって返事書いとけや」
「はいはい」
***
二人がそんな会話を終えた頃、塔内は慌ただしかった。闘技場設営のためである。
羅山が御触書を出したのは帝から文が届いたからだ。それは、
「東の名だたる剣士を集め、試合を組ませよ。頂点に立った者を京へ寄越せ」
というものだ。前例がないことなので羅山は首をかしげたが、三宅の年を考えて、もしやと思った。次期宮廷長官を宮内で決めあぐね、東に手を伸ばしたのではないか、と。だが宮廷長官となりうるだけの人材はそういない。たとえ東で一番の剣士となり宮に仕えたとしても、将官がせいぜいである。
とはいえ、乗る価値のある話だということに変わりはなかった。
宮仕えの剣士を手配できれば、京に対しても西に対しても箔がつく。さまざまなことで融通も利くようになるだろう。
そう考えた羅山は、さっそく保倉柴門を呼んだ。
「そちらの道場はもはや塔の所有するところとなった。頂点に立つ者を出せば、帝に対して格好がつく。そなたも鼻が高かろう。強い剣士を選りすぐって試合に臨ませてくれ」
「は、はい」
柴門は心の片隅をざわつかせながら、深く一礼した。
柴門の胸中は複雑である。保倉道場で最も強かった剣士は、ほかでもない塔主たる羅山によって都を追われたのだ。東の頂点を極めるような剣士を選りすぐれなどと一口に言われても、できるわけがなかった。つい最近も、有望だった剣士の一人がやめてしまった。小倉昭三郎である。残る手だては、段位の高い者を期日までに鍛え上げて出すことだ。
柴門は念のため、各道場を調べて回った。どのみち保倉もよその道場から調べられるので遠慮はいらない。
結果、どこも七段の門下生を出すことに落ち着いていたため、保倉でもそのようにした。しかし段位が低いからといって必ずしも負けるわけではない。年数が足りないだけで七段の実力を備えている者もある。よって、実質七段も数に入れた。
「誰か一人、面目を保ってくれればいいだろう」
頂点は取れなくても、決勝、準決勝に残れば良い、というわけである。
「仮に慎太郎がいたとしても、絶対的に強いというわけではない。あのような剣士はほかにもいるだろう。世間は広いのだ」
柴門は声に出しながら、不安を打ち消した。
羅山の期待に応えられなければどうなるのか。そう考えると居ても立ってもいられないのだ。
マナが愛されていないのは、すでに承知である。ゆえに、機嫌を損ねるようなことは避けねばならなかった。これ以上、娘を不幸にするわけにはいかないのだ。
京へ参る、という話をした日のことだ。マナは口に出さなかったが、憂えた瞳と死んだような顔色がすべてを語っていた。柴門は、娘が愛されていないと悟った。結婚して日はまだ浅いというのに、冷めきった唇が後悔の溜め息をつく。そんな娘を見るのは堪え難いことだった。
誰に聞いても「自分なら塔主をとる」という間違いのない選択だったはずである。それが……
しかし慎太郎と一緒になったからといって、幸せになると保証されていたわけでもない。
柴門は選出した者に告知するため稽古場に向かいながら己に言い聞かせ、納得させた。
暑い夏が去り、山が紅葉に染まりはじめる神無月の頃である。




