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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第二部
32/47

32.一意攻苦

 保倉道場にある頃、昭三郎にとって慎太郎は、突然ふってわいた目の上のたんこぶだった。


 道場というのはどこもたいして代わり映えしないが、名門か否かは己の名にも関わる重要なことである。よって昭三郎は保倉の門をくぐった。そこで見事に才能を開花させたのだ。

 手始めとして初年度で初段、一年後に二段、二年後で三段という具合に、一年ごとに段位を上げた。誰もがなし得ることではない。そして三年後。四段を取り、周囲から才能があるともてはやされ、師範代を狙えるのではないか、とまで言われていた矢先だ。

 慎太郎がやって来た。ちらほらと噂を聞いていた二歳下の少年である。齢十七。すでに成長しきっているのではないかと疑えるほど背が高く、見目の良い男である。しかも才能があるとか天才だという段階ではなく奇才と言うべき腕の持ち主で、あっというまに師範に気に入られ、その娘にも惚れられ、段位などすっ飛ばして師範代へ駆け上がった。

 上面だけ見ていれば、恨むなというほうがどうかしている異常事態である。昭三郎が陰湿な感情を抱いたといても、責めることはできないだろう。彼とて、才能に甘んじることなく、順調に段位を上げるため人知れず血のにじむような努力をしていたのだ。常に上を目指し、道場を任される日を夢見て。

 それを入ってまもない少年に横からかっさらわれたのであるから、はらわた煮えくり返るどころの騒ぎではない。だが手合いを組むたび負け越し、決して勝つことはできなかった。

 不条理だ。

 昭三郎は胸の内で呟いた。


 昭三郎のように思っていた門弟はほかにも多くいた。とくに屈指と言われる者たちは、そうだ。みな夢見ていたのだ。名門と呼ばれるこの道場にその者ありとうたわれる時を。

 しかし慎太郎をやっかもうにも、道場主であり師範でもある柴門に気に入られているとなると、露骨にはできなかった。娘婿に、という話もあったので余計だ。そのうえどういうわけか少しも天狗にならないので、つけいる隙もなかった。

 指導する側に立つと己の稽古より熱心で、誰にも分け隔てなく接し、常に真っ正直である。みな、妬めば妬むほど己の小ささを思い知らされるばかりだったのだ。


 だがそんな慎太郎でも、時々むなしそうにして空を仰いでいることがあった。

 何が気に入らないのか、昭三郎には分からなかった。同じ剣の道を志しているにもかかわらず、分からなかったのである。


***


 あの頃の慎太郎が門弟に対してどれほど心を裂いていたのか。同じように、どれほどマナを愛していたのか、今の昭三郎には、よく分かった。

 己の剣を振るうことは諦め、少女のために生きようとした慎太郎。だが志は捨てられず、制約を受けながらも門弟に託していたのだ。真の剣士として立つ夢を。

 実際、昇段できずに行き詰まっていた者たちを助けたのは保倉柴門ではなく、慎太郎だった。流派の型は守らせつつ、個人の癖を生かしてうまく勝たせていた。人の欠点を長所に変えてやるのが得意だったのだ。

 そんな恩も忘れ、立場を失った慎太郎に皆がつらくあたったのは、募らせていた嫉妬心のほうがまさったからだ。ここぞとばかり、叩けるだけ叩こうという浅ましい想いに取り憑かれたのである。かえって負けを証明しているようなものだが、それで勝った気になっていたのだ。

「きっと神はいるのだろうな」

 昭三郎は呟いた。

 先日、屋外の稽古場で見た慎太郎の剣はまさに神業だったのだ。心が晴れるほど豪快な跳躍と獅子の眼差し。強靭な太刀筋——闇に葬られていいはずがないその力を世に送り出すため、慎太郎は神の手によって都を追い出されたに違いない。そう思わざるをえないほど、華麗であったのだ。


***


「保倉でも遠慮せず存分に剣を振れば良かったのでは」

 いろいろ想いがあったことは分かるが、それでもどこか釈然としないものを残した昭三郎が勢いで尋ねると、慎太郎は苦笑した。

「師範は固い考えの人だったし、化け物に娘はやれんと言われたら、俺は立つ瀬がなかった」

 昭三郎は「なるほど」と唸った。一世一代の賭けをしてまでマナを失う危険は冒せなかったというわけだ。


 そのように、稽古場へと向かう道を行きながら話す二人を、たまたま実之と見かけた千吉は、首をかしげた。

「よくもまあ保倉の門弟だった人間と仲良く並んで歩けるものだ。私には、さっぱり分かりませぬ」

 すると実之が言った。

「慎太郎殿は苦しいのだ」

 千吉は驚いて実之を見た。

「苦しい?」

「口ではいくら許すと言っても、東で味わった屈辱はそう簡単なものではないだろう。だが慎太郎殿は分かっているのだ。許さねば誰も救われない、と。許さぬ者も許されぬ者も。一生憎しみを抱いて苦しみ続けるわけにはいかぬ。それでは前に進めぬし、なにより己が救われない。ゆえに、ああしているのだ」

「しかし」

「命を取られたわけではない。はたから見れば単なる痴情のもつれだ。たとえ人生を左右する事柄であったとしても、そのようなことは何に限らずある。どこかで切り捨てねばならない感情というものが、この世には往々にしてあるのだ」

「……切り捨てられるでしょうか」

「やらなければ、落ちるのは自分だ」

 千吉は表情を曇らせた。

「もし落ちた時は、どうなるのでしょうか」

 その不安に、実之は笑って答えた。

「支える覚悟はできている」

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