28.戦意喪失
宮廷の北に広がる土地は、日頃から宮仕えの兵士らが訓練している演習場である。つまり彼らにとっては庭だ。わずかな起伏も風向き具合も熟知している。そして、いずれも腕に覚えのある強者ばかりだ。連携の取り方ひとつ見ても洗練されており、負け戦などしたことがない。ゆえに今回のことについて、
「帝も酔狂なことだ」
と余裕で談笑したとしても、おかしくはないだろう。
たった一人の敵である。それを千の味方と共に討てばいいのだ。十日間などと言っていたが、勝敗は初日でつくはずだった。
「紫苑様の婿候補だと言うが、運のない男よな。このような条件をつけられるとは、よほど気に入られなかったとみえる」
そう話し合う者たちの間に割って入ったのは八神重佐衛門である。
「なにを言うか。すでに宮の女どもが騒いでいるらしいぞ。しかも西の都で知らぬ者はないとうたわれている剣豪だ」
「はっはっは。それにしても重佐衛門様、我々を千も相手にするのです。勝ち目はございません。おまけに死ぬ気で戦えとのお達しもありました。帝がその男を迎えるつもりがないのは明らかです」
「ううむ」
重佐衛門は唸ってうつむいた。一見、反論の余地はないように思えたのだ。しかし万が一にも兵が負けたらどうなるのか、と考えた。直接見たわけではないが、ひと振りで草を根こそぎ払い、驚くべき跳躍で舞い上がり、鷹のように滑空するという超人である。おめおめやられる訳がないと思うのだ。
だが、と重佐衛門は首をひねった。
宮の兵を一日千人。それを十日間である。確かに仲間の言う通り、帝は勝たせるつもりがないのだと読み取れた。
ところが、手合い会場となる演習場へやって来た慎太郎を見て、重佐衛門以下の兵士らはみな首をかしげた。このうえないほどの面構えで、全体の均整もよく取れており、不満を見つけるほうが困難な男だったからだ。性格に問題があるとするなら、紫苑みずから連れてくることはないと思われるし、帝とてまだひと目会っただけである。内面を否定することもできそうになかった。
「いったい全体、どこが気に入らないと言うのだ?」
思わず呟いた重佐衛門の脇に、三宅が寄った。
「見てくれが良すぎるところだ」
「わ! み、三宅様」
「家臣の我らがこれで文句あるまいと思っても、君主は違う。特に大事な紫苑様の将来がかかっているとなれば、慎重にもなる」
「は、はあ。そうですか。しかし、この後に続く候補となると、厳しいのでは」
「うむ。確かにな。だが負けはせんだろう」
「え?」
「慎太郎殿は負けぬ。神懸かりとは、そういうものだ」
前で腕組みし、かすかに笑みを浮かべる三宅の様子に、重佐衛門は不吉なものを感じた。
***
一対千、という前代未聞の手合いである。木刀を用いるが、使いようによっては相手を殺める可能性もあるので気は抜けない。
初日の第一戦は八神重佐衛門ひきいる兵だ。
「守備は良いな。相手一人と思っても、あなどるなよ」
重佐衛門は注意をうながしたが、大半の者は軽い気持ちで聞き流した。
慎太郎を取り巻くようにして、千もの兵士が身構える。慎太郎は木刀の先を地につけ、少し身を低くした。その姿には独特の雰囲気がある。今からチャンバラごっこを楽しもうとする子供のような笑顔と、今日の糧を得るために獲物を狙う獅子のような眼差し。そして大気を震わせるような気合いだ。
威嚇だけで気圧されてはならないと、重佐衛門は早々に攻撃の合図を出した。まずは最前列の五十名が飛びかかる。三宅と互角であれば、半数は撃退できたとしても、あとの半数からは攻撃を受けるだろう。
そう思ったのだが、慎太郎はギリギリのところで飛び上がった。噂通りの超人的な跳躍である。味方同士を衝突させようという作戦だったのだが、そこは宮仕えの兵。動揺を押し殺しつつ、勢いづいた身体をかろうじて踏みとどまらせた。「慎太郎は五間の高さを飛ぶ」と前もって聞いていたからこそ、なしえたことである。しかしそれ以外のこととなると未知の世界だ。
慎太郎は着地する際に右回転しながら木刀を振り、風圧との合わせ技で周辺の者をなぎ倒した。降りてきたところを攻撃しようと構えていた者たちは、何が起きたのか分からぬまま地に背をつける形となってしまったのである。
そして、ここからが地獄の始まりだった。
茫然としている兵士へ向かって、慎太郎は容赦なく木刀を振り回し、次々に手から武器を奪った。正確に木刀のみを狙い、叩き落としていったのである。
疾風のごとく駆け抜けながら、獅子が牙を剥くように人垣を削り取っていく。それは凄まじき速さだった。相手に息をつく暇も与えぬ勢いである。兵士らは一刀を投じることもなく、地に空に、木刀を飛ばされていった。
辺りは、たちまち驚愕と混乱の渦に巻き込まれた。
むろん、そこには慎太郎の計算がある。獣より俊敏ではなく獰猛でもないとはいえ、千もあれば慎太郎にもあまり余裕はない。一撃必殺で片付けられるところまでは一気にやっておかないと、後半がきついのである。
離れたところで手合いの行方を見守っていた三宅は、絶句した。慎太郎が過ぎたあとは、まるで大蛇が這ったあとのようだったからだ。倒れた兵士は叩き落とされた木刀を再度握る余力もそがれてしまったように、突っ伏したまま動かない。その道筋が、計ったように美しく蛇行している。
唖然とするあいだにも大蛇の道はのびていった。味方の兵はそれに比例して数を減らし、あれよあれよと言う間に半数だ。
そしてついに、残兵は後退し始めた。屈強の兵士としてならした腕も形無しである。
「何をやっている! かからないか!」
重佐衛門が檄を飛ばすも、みなは逃げる足を止めなかった。
「こ、殺される!」
「冗談じゃない!」
そう叫んで、顔色を変え逃げ惑い、重佐衛門の横を走り去る彼らだったが、まもなくして急にひるがえして来た。思い直して戦う気になったのかと重佐衛門は思ったが、違う。逃げていた方向に、慎太郎が先回りして行く手をふさいだのだ。
「もう遊ばないのか?」
慎太郎は不敵な台詞を吐いて、兵士らを追い立てる。と、不意にその矛先が重佐衛門へ向いた。重佐衛門は二十年も寿命が縮まる思いで身構え、慎太郎の強いひと振りを受けた。
木刀はどこか遠くへ弾かれ、重佐衛門の腕には激痛が走った。しかしそこは大将である。ほかの者同様に地へ伏してのたうち回りたいという衝動に耐え、抜けそうになる膝を奮い立たせた。
「……手加減なしだな」
重佐衛門は慎太郎を睨み、うめきながら言った。すると慎太郎は、足を止めてニッと笑った。
「必ず勝つと約束した」
「約束……? 誰と」
「紫苑と」
返った答えに、重佐衛門はフッとまぶたを伏せ、笑みを浮かべた。
「おぬしの勝ちだ、神懸かり」
慎太郎は眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。我々は戦意を失った。勝負はあった」
***
厠へ用を足しに行って帰ってくるあいだに勝負がついていた、という最速の敗退に、帝は広い正殿に響くほど強く舌打ちした。
「あと九日続けても意味はなさそうだが、どうだ? 三宅」
三宅は汗を拭きつつ答えた。
「はあ。左様ですな。積んだ経験も、詰め込んだ地の利も役立たず。あと九日も続けましたら、一万の兵が使い物にならなくなってしまいます」
帝は拳を握って唸った。
「奴を呼べ」
「よ、よろしいんですか?」
「いいから呼べ!」
「はっ」
そうして呼ばれた慎太郎は、緊張した面持ちで帝と向かい合った。
「あの……なにか?」
しばらくたっても何も言わないので慎太郎から尋ねてみると、帝はギロリと睨んだ。
「俺の仕事をどう思う」
「は?」
「紫苑と結婚したいんだろう」
「は、はい」
「俺の仕事をどう思っているのか、考えを聞かせろ」
慎太郎は視線を泳がせて建物の内装をしばらく眺め、また帝へ目を戻した。
「仕事というのは、神主か何かで?」
「……え?」
いっとき沈黙が続いた。それはそうである。帝は慎太郎がおおかたのことを把握して来ているのだと思っていたため、用意していた文句が消し飛んでしまったのだ。
「紫苑と結ばれようというのに、そこは考えなかったのか」
「いやそれは、どのような仕事だろうと、やれと言われればするつもりでしたから。家のことに触れられたくなければ、外で働いても構いません」
あっさり言う慎太郎を見て、帝は拍子抜けした。放たれる存在感は相変わらずだが、最初に見た好戦的な鋭さもなければ、むせるような自信もない。
いや、慎太郎は始めから自信など持ち合わせていなかったのだが、帝が気づかなかっただけだ。初顔合わせということで互いに緊張していたし、見てくれがいいというだけで、先入観があった。しかし改めて向かい合ってみると、慎太郎は真っ正直なだけが取り柄であるような、純朴そうな青年だった。
実之がここへ送り出したということは、さしあたり問題ないと見て間違いなさそうだが……
帝は考えを巡らせたあと慎太郎を追い払い、次に紫苑を呼んだ。
「あの男は、どこまで知っているんだ」
紫苑は困ったように睫毛を震わせた。
「実は、なにもお話していないの」
これにはさすがの帝も驚いた。
「なにも知らずに来たのか!?」
「はい」
「聞かれなかったのか」
「不躾な方ではありませんから」
「無関心なだけではないのか」
「違うわ。ただ、一見しただけで資産家の娘というのはお分かりになられたようで、敬遠なさっていたそうですけど」
「普通は取り入るところだろうが」
「そうなさらないから、私は慎太郎様が……」
紫苑は不意にうつむいた。そして頬を薄紅に染め、やや恥ずかしそうに言葉をつないだ。
「慎太郎様が……好きです。お金も身分もないけどついて来てくれと、おっしゃってくださいました。この家の力に頼るつもりはないようでしたので、お受けしました」
帝はため息をつき、手元の扇子を広げてパチンと閉じた。
「分かった。とりあえずここへ置いて様子を見よう。まだ若いのだから、時間はたっぷりあるだろう」
紫苑はその言葉に喜んだが、帝のほうには含みがあった。
実際に権力を目の当たりにした慎太郎が、変わらずにいられるのか。それを確かめるつもりなのだ。
何も知らないからこそ恐れることなくやって来られたのだ。
帝は、そう確信していた。




