22.天高く舞う鳥
外から見てもそれは明らかだったが、剪定された庭を通り、稽古場を見上げると、いっそうよく分かる。真崎道場は西で屈指の道場へと生まれ変わりつつあった。
青みを帯びた灰色の屋根瓦は陽を受けて輝き、白い漆喰は真新しく美しい。木造部分も年期の入った艶があり、これまで放置されていた面影はない。
七伏と三宅は感心しながら、若者らの声が響く稽古場の入口へ立った。
「お頼み申す!」
三宅の声は低いながらも、よく通って響く。稽古にいそしんでいた者たちは、いっせいに手を止め、顔を向けた。
「修行の旅をしている途中に、この道場の噂を拾った。お師範との手合いを申し込みたい」
すると一番手前にいた若者が進み出た。
「師範でしたら、外の稽古場に。ご案内いたしましょうか」
三宅は七伏と視線を交わした。
「はて。外の稽古場とはなんだろうか」
七伏は三宅に小声で問われたが、答えられるわけはない。ただ、にがい笑みを浮かべた。
「行けば分かるだろう」
そうして二人が案内されたのは、平らにならされ、草一本生えぬように踏み固められてある長方形の広場だ。面積は普通の稽古場の三倍あり、松や竹や飾り岩などは囲うようにして点在している。
なるほど外の稽古場である、と二人はうなずきあった。
「ここでは練達している組が練習しております」
若者は説明し、稽古をしている数名の者に向かって声をかけた。
「慎太郎様!」
集団の中で一人、三宅らに背を向け立っていた、ひときわ背の高い男が振り返った。七伏と三宅が目を見張ったのは言うまでもない。精悍にして美しい面差しをした慎太郎の存在感は、聞きしに勝るものがあった。
「どうした?」
「はい。この方々が、お手合わせ願いたいと」
慎太郎は七伏と三宅を見て、足を向けた。その際、三宅からは視線を外さなかった。齢は六十半ばであるが、姿勢がよく筋肉質な体つきで、いかにも腕が立ちそうな様子に注意がいったのだ。背も慎太郎よりわずかに低いだけである。
警戒心もあらわな慎太郎を見て、三宅と七伏は「ほう」と感心した。見ただけで強い相手が分かるのは、天賦の才だ。
慎太郎は二人の手前で一礼した。
「慎太郎と申します」
三宅と七伏も、ならうように会釈した。
「私は三宅。こちらは七伏と申す」
この挨拶を慎太郎の後ろのほうで聞いていた八神千吉が、息をのんだ。しかしすぐに七伏の視線で射られ、動揺を押し殺した。
「ぜひともお手合わせ願いたいのだが?」
三宅が申し出ると、慎太郎は一拍置いて答えた。
「構いませんが、負けても看板は譲れません」
「ほっほっほ。道場破りではないのでご安心なされよ」
慎太郎の言葉に笑ったのは三宅と七伏だけだった。門弟らは驚いたように互いの顔を見やって沈黙している。慎太郎の弱気な発言が信じられなかったのだ。だがやがて、これはもしかすると良い勝負が見られるかもしれないと期待した。
慎太郎が型の鎧を脱ぎ捨てるのは、実之の強さが境界線である。それ以上の者に型通りで戦っていては勝てないと、本能が知るためだ。以前、なぜ手加減せんのだと聞かれたときは言葉をにごした慎太郎だが、明確な理由はあったのだ。
「手加減はできませんが、よろしいですか?」
慎太郎が念のために言うと、三宅は笑って、
「望むところだ」
と答えた。
門弟らは広場の隅に寄り、三宅と慎太郎だけが中央に立った。双方一礼し、木刀を構える。三宅の構えは一般的なものだが隙はない。一方、慎太郎は右手に持った木刀を右側へ払い、水平に構えた。てっぺんから爪先までガラ空きである。
三宅は眉をひそめた。外野で門弟らと見物を決め込んだ七伏も同じだ。が、門弟らが囁き合う声に耳を傾けていた七伏は、慎太郎の構えが何を意味するのか瞬時に解した。慎太郎は相手によって戦い方を変えるのだ。さらに、無視できない会話も聞いた。
「いきなりか。型を守ってもあの強さだ。勝てると思うが違うのか?」
「慎太郎様のご指導は分かりやすいが、お考えは分かりにくい。まあ、たいてい外から手合わせに来る者は、あれが見たくてやって来るのだから、期待に応えてやろうというところなのかもしれん」
「別に外の者だけではなかろう? あれが見たいのは」
「ははは。違いない」
あれとはつまり、鷹のように跳ぶという噂の妙技だ。それほど周囲に期待させるものならば、どうでも六尺、いや七尺か八尺跳ぶのではなかろうかと、七伏は密かに唸った。しかし、神懸かりと言われる頭脳をもって国の参謀を担い、多くの人材を京へ招集した彼の経験から見ても、そのような跳躍は非常識な話でしかない。まさか、と失笑するのがオチであった。
辺りを見回しても、踏み台となりそうなものはない。飾り岩は小さいものでも五尺(約一五〇センチメートル)ある。やはり最低でも六尺跳ばねば、一間の距離は超えられないのだ。
その妙技をいかように披露するのか。見ものと言えば見ものだが……
七伏が思ったとき、いよいよ三宅が踏み込んだ。年を重ねても衰えを知らぬ踏み込みである。あっという間に相手の懐へ飛び込む三宅は矢のごとく俊足だ。慎太郎はハッとして後方へ飛び退いた。間合いは一気に広がり、三宅は舌打ちした。
このとき七伏は、飛び退いた距離を目で測った。二間だ。前後の動きでその距離をたたき出したことは賞賛に値する。誇れる健脚であることは噂通りだ。が、上には通用せぬと七伏は思った。地を水平に移動するのと、垂直に移動するのでは大違いである。
慎太郎が間合いを取ったのも束の間、三宅は自慢の脚力でまた一気に距離を縮めた。慎太郎は身を低くして一撃をかわし、三宅の足下を薙ぐ。ひと振りは、風を生んだ。三宅はよけたが、袴の裾がちぎれて少し肝を冷やした。木刀に刃をしこんであるのかと疑ったほどである。しかし刃物のきらめきは見えない。純然たる木刀だ。
うかうかしていてはやられると、三宅は本気で慎太郎の頭部に向かい、木刀を振り下ろした。だが次の瞬間にはもう、慎太郎の姿はない。三宅は慌てて視線を巡らせたが、見つけることはできなかった。
門弟らが見物しているほうを見やれば、みな顎を上げて天を見ている。その中で驚愕の表情を浮かべているのは七伏だけだ。三宅は嫌な予感がして、顔を上げた。
六尺、十尺どころではない。佐兵の話が嘘ではないと証明する、とんでもない跳躍である。そして今まさに上空を飛んでいた鳥が滑空するかのごとく、鋭敏な軌跡を描いているのだ。
三宅は木刀を構えた。攻撃を受けるつもりである。慎太郎はそれに応えようと、三宅の木刀めがけて腕を振った。
すさまじき衝撃であった。木刀は折れて弾け、大きな風が起こり、土埃が舞った。しかし双方は一歩も譲らぬ体で、なおも鍔迫り合いをした。
「驚いた。噂以上だ」
三宅が慎太郎を見据えて言うと、慎太郎は苦笑いした。
「このまま勝負をつけますか?」
「あ、いやいや。これまで。連れの期待に応えてやる必要はないのでな」
「連れの期待?」
「私が伸されるのを見てみたいそうだ」
慎太郎は目を点にしたあと満面の笑みをたたえた。
「では、引き分けということで」
***
「なかなか良い青年ではないか。欲のない目をしておる」
真崎道場を後にした三宅はそう言い、しばらく歩くと、青ざめた顔で沈黙している七伏に問いかけた。
「どうした。おぬしは気に入らないか」
すると七伏はグッと拳を握り、足下の道に視線を落とした。
「この目が正確な距離を計れることは知っているな?」
「うむ」
「五間(約九メートル)跳びおったわ」
三宅は目を大きく見開き、七伏の横顔を凝視した。
「なんだと?」
鳥のように高く跳んだことは、三宅も見ている。だが顔を上げた時機と角度の事情で、どこまで跳んだのか定かではなかった。ゆえに、三宅は七伏の言葉でいまさら嫌な汗をかいた。
「まことか」
「間違いない。助走もなく、踏み台もなく、ただその場で地を蹴って跳んだ」
七伏は言いながら空を見上げた。その目には天高く舞った慎太郎の姿が、まだ鮮明に映っているようであった。




