17.鋼の心で
長屋の戸を開けると、上がり口に正座をし、「おかえりなさいませ」と頭を下げる紫苑がいたので、慎太郎は思わず後ずさりした。紫苑は髪を結わえて三角巾を頭に巻き、袖をたすきで上げている。そのまま真横へ視線を流せば、菊が柄の長い木さじで鍋の中をかき回しながら、「おかえり。早かったねえ?」と当たり前のように言った。
「なんのつもりだ」
慎太郎が尋ねるのは無理もないことだ。前触れもなくそんなことをされれば誰でも眉をひそめる。
「野暮なこと聞くんじゃないよ」
菊は答えたが、慎太郎は何が野暮なのかよく分からなかった。
「さあ、できたよ! さっさと上がりな」
菊は鍋を持って慎太郎を急かした。慎太郎は勢いに押されて言われるがまま座に上がり、勧められるまま飯を食べた。部屋がきれいになっていることについては、なにか聞きそびれて確認せずじまいになった。格好からして、おそらく紫苑の仕事だろうとは思ったが。
慎太郎は椀の飯をかき込みながら、チラと紫苑の様子をうかがった。
紫苑には、目が見えないとは信じられないほど物の位置を把握する力がある。膳などは、だいたいの配置を教えられれば一人で食事もできるのだ。それ以前に堂々と歩く。闇の中で、どうすればそう恐れずにいられるのか。慎太郎は不思議でならなかった。
「厳しい訓練をいたしましたから」
と紫苑は言うが、だとしたら確かにものすごく鍛錬したのであろうと、慎太郎は敬服するばかりだった。むろん己のためではあるが、周囲に迷惑をかけないためにも頑張ったのだ。彼女が人に好かれるのは、そういう健気さである。
これでもっと身近な人間であれば。深窓の佳人ではなく、たとえば幼少期に近所に住んでいたとか、普通の町娘であるとかするなら……
慎太郎は先を思いかけてやめた。
互いに憎からず想ったとしても、きっとまた同じことを繰り返す。彼女も大人になれば見てくれだけいい男は捨て、地位も財産もある安定した男を選ぶだろう、と考えたからだ。すべてをマナに当てはめるのは間違っているが、まだ傷の癒えていない慎太郎にとっては、それが正論であった。
食事が終わり、後片付けなどもすむころ。佐兵が二人を迎えに来た。
「また明日も来てあげるからね」
去り際に菊が言うのを、慎太郎は渋い顔をして受け止めた。すると腕を強く叩かれた。
「そんな顔するんじゃないよ! 失礼だねえ! 男の一人暮らしは細かいことに目が行き届かないだろ? 遠慮しないで任しときな」
遠慮もなにも最初からする隙を与えないつもりだろうが、慎太郎はそんな菊の押し付けがましい親切が嫌いではなかったので、反抗はしなかった。
***
だが案ずる者はいた。
「やっぱりご迷惑だったのではないかしら」
菊や佐兵に連れられて帰途についた紫苑は、そわそわしながら言った。何か役に立ちたいと言い出したのは紫苑だが、まさか勝手に掃除や食事の世話をするとは思わなかったのだ。
「押しかけ女房みたいだと思われないかしら」
「あははっ、馬鹿だねえ。みたいじゃなくて、そうだろ?」
紫苑はとたんに顔を真っ赤にした。
「姉さん!」
「まあね。よっぽど鈍感な男じゃなきゃ、そのうち気付くだろうけど?」
「いやだ。どうしましょう」
うろたえる紫苑を、菊はぎゅっと抱き寄せた。
「落ち着きなよ。あんたが惚れてるってこと相手に分からせなきゃ始まらないじゃないか」
「わ、私から打ち明けるのですか!?」
「そうしなきゃあの男は傾きそうもないよ? 色恋沙汰に男からも女からもないんだ。しっかりおし」
そんなことを言われても困ると言いたげに、紫苑は涙をにじませた。菊はそれをそっと指でぬぐってやった。
「人生ってのは楽じゃないんだ。こんなことくらいで泣いてちゃ身が保たないよ」
菊の優しい声に、紫苑はよけい泣いてしまいそうだった。が、懸命にこらえた。菊の言うとおりだと思うからだ。
慣れない土地で安心して暮らせるのも、妹のようにかわいがってくれる菊らのおかげだ。そのうえ慎太郎との行く末も心配してくれるのだから、こんなに有り難いことはない。それなのに少しくらいのことで泣いていてはいけない、と。
紫苑は精一杯、気持ちを奮い立たせた。だが慎太郎を想うと胸が張り裂けそうに痛んで、せっかくの勇気もすぐに萎縮してしまった。
指で触れた顔を思い出すたび、耳に響く声を感じるたび、心は切なくよじれる。この苦しみが恋だというなら、二度と味わいたくないと思えるほどに。
噂に胸をときめかせたのはいつだったかと、紫苑は記憶を辿った。指でなぞった顔かたちが理想どおりで驚いたことも、ずっと遠い過去の出来事だったように思えるのだ。そして声をかけられるたび鼓動を高鳴らせ、抱き上げられて息を止め、力強く手を引かれて浮かれていたことも、夢の一片だったのだろうかと。
紫苑は自分でも信じられないほど急速に、慎太郎へ惹かれていったのだ。
獅子と形容されるほど雄々しく、鷹と称されるほど鋭く、不死鳥のように天高く舞い上がると周りの者が語って聞かせる。しかし耳に届く慎太郎の声はいつも淋しげで、迷っている。そんな彼の光と影に、胸が震えたのだ。しかし——
紫苑は顔を上げ、凛とした眼差しで言った。
「慎太郎様との仲がうまくいかなくても、真崎家再建の話は私からお父様にお願いしてみますから、気を遣わないでくださいね」
すると菊が突然、怒鳴った。
「なに言ってるんだい! あたいらがそんなことで二人を心配してると思ってるのかい!? みくびらないでおくれよ! 慎太郎はただの男。あんたもただの小娘だ。二人をくっつけたがるのは単なる好奇心とおせっかいさ! そりゃね、最初はあれだったけど……今は関係ないよ!」
紫苑はビックリしたように、大きくまばたいた。
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃなかったの……でも、ありがとう。優しいのね。うれしいわ」
「や、やだねえ。あたいは怒ってんだよ? 妙なこと言うんじゃないよ」
紫苑には菊の顔色をうかがうことはできないが、声の調子で照れているのはよく分かった。本当に姉弟そろって真っ正直でお人好しだと思い、紫苑は笑った。そして心から、彼らの幸福を祈った。
「慎太郎様はきっと、皆様のお力になってくださるわ」
***
行灯の明かりを消して床へついた慎太郎は、天井を見上げ、綺麗になった部屋を見回し、溜め息ついた。強くまぶたを閉じれば、浮かんでくるのは今そばにいる者たちの顔だ。
都は違えども塔へ仕えていることに変わりはない。しかし、慎太郎が身を立てるため尽力してくれる実之のことも、いちいち小言を残してくれる菊のことも、裏切れないと思う。それは親しみを感じていること以外の何ものでもない。
その現実に、焦っていた。
だが、深入りすまいと意地を張っても、一人では生きて行けぬのが世の中だ。慎太郎は、今日の菊らの行動に内心よろこんでいた自分を、客観的に振り返ってみた。
本当は望んでいるのだろう。家族のように気にかけてくれる、あたたかい存在を——
慎太郎は目頭が熱くなって、寝返りを打った。
このまま受け入れるのか。いつか見放されるかもしれないのに。もう必要ないと言われることが恐ろしいくせに。
そんなふうに彼は、どうしようもなく弱い心が許せず身もだえた。
大切なのは、誰かに裏切られないことではない。他人がどうあっても正直に生き、己が誰かを裏切らないことである。誠心誠意尽くして裏切られても、己が誰かを傷つけなかったら良しとすることなのだ。さすればきっと、己も傷つかない。
慎太郎は念ずるように、そうあれと願った。鋼のように生きられたら、打たれるほどに輝けたなら、この世に恐れるものはない、と。
***
それからも菊と紫苑は慎太郎の世話をやき、たまに菜々も手伝った。穏やかながらも賑やかな毎日は、慎太郎の過去を少しずつ削った。
やがて、日々出会う人々が心を占め、よほど意識しないかぎり、マナのことは思い出さなくなっていった。気がつけば、東の都を発ってまもなく一年が過ぎ去ろうとしていた。




