16.獅子のごとく
鶴のひと声と言うべきか。実之にしたがい、みなが庭へ出た。実之は、いまだ雑草が茂っていることには目をつむり、慎太郎と向かい合った。
「何故いまさら型を守る」
すると慎太郎はこう答えた。
「道場とは、そういう所だろう?」
実之は沈痛な面持ちになった。
「なるほど。まあ、ほかにも事情があるのは分かっているが、なあ? 慎太郎殿。俺がおぬしを師範として招いたのには、打算がある」
慎太郎は目元をしかめた。面と向かって打算があるなどと打ち明ける者も珍しいが、そんな馬鹿正直でお人好しの人間から言われても、なかなかいい気はしない台詞である。
「なんだ?」
「道場の名を国中に広め、西に人間を集めるためだ」
「集めてどうする」
「人口は年貢の量に比例する。一割を維持するには数が必要だ」
「……それを俺にやれと言うのか? できるとは思えん」
「まさか」
実之は失笑し、慎太郎を見据えた。そして呟いた。
「獅子のごとき眼差しで龍のごとく舞う」
慎太郎は驚いた。実之は凝視されてニヤリと笑った。
「五年前に聞き及んだおぬしの噂だ。噂とは大袈裟に伝わるものだと言ったのは佐兵だが、おぬしが噂以上だと言ったのも佐兵だ」
「なにが言いたい」
「もう一度、その噂を確かなものにして広めてもらいたい」
実之は言うなり、腰に携えていた木刀を抜き、身構えた。慎太郎は反射的に身を低くし、左手に持っている木刀の先を地につけた。空気は一瞬にして張り詰め、静寂が満ちる。それは、門弟らが稽古場で見た慎太郎ではない。型通りにしか動けぬ剣士の面影を消し威嚇している様は、まるで獅子のようだ。
この変わりように最も目を丸めたのは、むろん八神である。
心なしか風も強くなった。荒々しい気に引き寄せられたのであろうかと、八神は目を泳がせた。
実之は八神より速くて強い。少々の相手なら、最初のひと振りで参ったと叫ぶだろう。だが慎太郎はそのひと振りをかわし、地を薙いだ。草が根こそぎ刈り取られ、土と共にまき散る勢いである。実之はこれを寸でのところで避けた。
慎太郎は間髪をいれず地を蹴って宙に舞う。そして近くにあった松を蹴って反転すると、実之に向かって鷹のように滑空した。実之は肝を冷やしながら一撃を受け止めた。が、案の定、互いの木刀は折れ、実之は後方に飛んで尻もちついた。
「いたたたた!」
「大丈夫か?」
腰をさする実之に慎太郎は声をかけたが、かえって怒鳴られてしまった。
「どうして俺には手加減せんのだ!」
「いや、なんとなく」
実之は微妙な気分で立ち上がった。なんとなくでコテンパンにされたのでは、たまらない。よもや、どうでも塔主という肩書きが気に入らないのではなかろうな、と。
「獅子のごとき眼差しは確認したが、やはり鷹だな。龍というのは見たことがない。これはさすがに噂か?」
実之の言葉に、慎太郎は表情を曇らせた。
「さあな」
それを見て実之は、龍と称されるだけの技を持っているが披露する気はないのだと悟った。
そうしてふと門弟らを見やれば、みな腰を抜かしている。実之は渋い顔をした。
「おぬしらの師範はこういう男だ。手合いを申し込むなら指導を受けてからにしろ。それから、ちゃんと草むしりしろ」
***
一日の労働を終えた八神こと八神千吉は、精神的疲労もあいまって困憊していたが、家に帰ると筆を取って手紙をしたためた。書かずにはいられぬ衝動にかられていたのだ。
『このたび、真崎の道場へ師範として迎え入れた慎太郎なる若者は、獅子の魂と鷹の翼を有するごとく凄まじき剣豪である。帝のもとに仕えさせれば、お国の発展につながること間違いなし。木刀でひと振り地表を薙げば草は根こそぎさらわれ、天高く舞える健脚にて縦横無尽に空を斬る。はじめは手合いに本気を出さぬと叱責したが、本気を出されれば骨のひとつも砕けたであろう。小生の間違いを今は悔いるのみである』
半月後。この手紙を受け取ったのは、千吉の親戚にあたる八神重佐衛門という男である。年は三十五。宮にて将官を務めている。彼は手紙を読むと、さっそく宮廷長官である三宅寛造へ話を持っていった。三宅は六十半ばを過ぎて頭髪も灰に染まっているが、ガタイも姿勢も良い老人である。
三宅は手紙に目を通すと、神妙にうなずいた。
「これはひょっとして、あの噂の剣士では」
「噂の剣士?」
「ご存じないか。帝が紫苑様の婿にとお望みの剣士だ」
重佐衛門は驚いて鼻息を荒くした。
「なんと! 紫苑様の!?」
「いや、まだ正式には決まっておらぬが……そうか。そのように強いのか。できれば帝ではなく、私の後釜に据えてほしいのだがなあ」
「ははは。なにをおっしゃいます。三宅様はまだまだ現役でご活躍していただかねば困ります」
「社交辞令など良い。私はもう年だ。なんにしても手紙に書いてあることがまことであれば、紫苑様のお眼鏡にかなわぬとしても帝が捨て置くはずがない。楽しみのいいことだ」
***
その日、遠い目をしてまだ見ぬ剣士の行く末を想像した三宅は今、東の都にあった。宮廷軍師の七伏とともに恒例の抜き打ち調査をするため訪れたのだ。
もう若くはないのに遠方へ赴くのは骨の折れることだが仕方ない。それに派手な出迎えはないが、手厚い接待は受ける。内密に調査をおこない塔の門をくぐれば分相応に歓迎され、観光などして楽しむこともできるのだ。
「さっそく酒などいただきたいですな」
三宅が嬉しそうに言うと、七伏も同意してうなずいた。
「まったくだ。道中は疲れるが、こうしてのんびりできるのも年に一度。ゆっくりしていこう」
塔最上階の客間で二人が談笑していると、襖の向こうから声がかかった。
「七伏様。三宅様。鍵崎羅山です。ご挨拶に参りました。今よろしいでしょうか」
「おう。入って参れ」
七伏が答えると、「失礼いたします」と言って、羅山は正座したまま襖を開けた。傍らには同じく正座し、深く頭を下げたマナの姿もある。
七伏と三宅は眉をひそめた。
「そちらの娘は?」
「手前の妻にございます」
羅山が軽く頭を下げつつ答えると、二人は目を丸めて視線を交わした。
「いつのまに婚姻を結んだのやら。知らせがあれば祝いのひとつも送ったが」
「お気遣い、ありがとうございます。しかし手前の諸事情ごときで、そちらの手をわずらわせるわけには参りませぬゆえ」
「ほっほ、諸事情とはな。人生の一大事ではないのか」
三宅は笑いながら問いかけ、また七伏と目を合わせて苦笑した。彼らは羅山が一癖ある人間だと承知しているのだ。
二十五という若さで塔を引き継いだのは先代が早くに亡くなったからであるが、早くに亡くなったと言えば、その奥方もだ。双方とも病に倒れたというが、一説では羅山が毒を盛ったのではないかと言われている。背景には両親の不仲説や政略結婚説など多々あるが、子供の頃から冷たい微笑を浮かべる不気味な男であった。綺麗な顔をしているだけにゾッとする。真偽はともかく、そのように不穏な噂が立つのは仕方ないと思えるのだった。
そんな男に嫁いだ物好きはどのような女子なのだと、七伏と三宅の視線がマナに移った。マナは羅山からこっそり合図を送られ、ゆっくりと面を上げた。
なかなかの気量よしだ、と七伏も三宅も思った。キリッとした表情の中に女らしさもうかがえる。これが作られたように可愛らしい顔の女であれば、羅山と並んだとき冗談のようにあつらえたみたいだが、普通に見目がよいので似合いである。
「これはまた、美しい方を娶られたな」
「ありがとうございます」
「次に京へ参られる時は、ともに来られるといい。祝いはその時にでも」
「はい。恐れ入ります」
***
客間から引き上げた羅山とマナは、いっとき無言で廊下を突き進んだ。しかし互いの部屋が近づくと、マナが口を開いた。
「京へ参る……というのは?」
「年初めの挨拶に赴かねばならん。京には帝がいらっしゃる。京というのは、この塔と西の塔を結ぶ中間地点にある。我々のあいだだけで呼ばれている名称だ」
「帝様はどのようなお方なのです?」
「どのような、と言われても——得体が知れぬ」
マナは訝しげに羅山の横顔を見た。特にいつもと変わらぬ顔をしているが、言葉の端々に含まれる緊張までは隠せない様子である。
「得体が知れぬとは?」
改めて聞くと、羅山は苦笑した。
「四十も半ばだというのに、いっこうに年を取らぬ。先代がご崩御なされたところを見ると不死というわけではないのだろうが、おおよそ人ではない。髪は雪のように白く、目は漆黒の闇。建造物の知識については塔を見ても分かるように膨大で緻密だ」
マナは息をのんだ。
「なんだかお会いするのが恐ろしゅうございます」
すると羅山は不敵な笑みを浮かべた。
「黙って頭を下げていれば良い。少なくとも機嫌を損なうことはないだろう」
「でも、初めての場所に頼る者もなく行くのは不安です」
一緒に行くという話であるのに頼る者がないと言うマナへ、羅山は目を向けて口元をゆがめた。
「父親も誘えば良い。我が鍵崎家と親戚になったのであれば、帝に対する知識も必要となってくるだろう。いい機会だ」
マナはそれを聞いてやや安心した。最も信頼する父となら心強い、と。
「ではさっそくお話してみます」
会釈して部屋の襖を開け、自分だけ収まると、さっさと閉めて羅山と別れる。そんなマナの様子を、羅山は溜め息まじりに眺めて立ち去った。




