14.虚ろな心
マナが嫁いでから半年が経ったある日。
使用人らが慌ただしく働いているので、不審に思ったマナは、日頃こもりがちな部屋から顔をのぞかせた。するとちょうど前の廊下を女中頭が通りかかったので、呼び止めてみた。
「なにかあるの?」
五十近い年の女中頭はすばやく正座し、頭を下げた。
「恐れながら、わたくしの口からはご説明いたしかねます。いっとき経ちましたらご塔主様がいらっしゃいますので、しばらくお待ちくださいませ」
マナは目元を曇らせた。
初夜以来、さほど通って来ない夫が訪ねてくる理由はどうせ仕事のことだろう。そう思うと萎えた。マナが毎日やることと言えば使用人達への挨拶まわりのみ。あとは部屋にいて書道をしたり、お茶をたてたり、花をいけたりするだけだ。このあいだに羅山の顔を見ることはない。
前に夜の相手をしてからも二週間ほど経ったが、いっさい会ってはいない。おおよそ夫婦とは言いがたい関係である。羅山は求めたい時にだけやって来ては、淡白に事を終わらせ去って行く。マナはまるで情婦だ。相手が互いのみであるのは、せめてもの救いなのだが。
マナが身支度を整えて待っていると、羅山がやって来た。普段の着物も上等なものを召しているが、今日は一段と良い着物である。
「本日は京より帝の使者がお越しになられる。あとで女中頭に着物を持って来させるので着替えなさい」
「みかど?」
羅山はうなずいた。
「帝とは国を総ている方だ。使者は宮廷軍師と宮廷長官。余より上に立つ人間だ」
マナは初めて聞く話に驚いた。
「塔主が一番偉いのではないの?」
「余は三番だ。むろん都では頭だが、都といえば西にもある。当然、塔もある。二つの塔を束ねる存在はあってしかるべきだ。この塔も、帝がなければ建つことはなかっただろう」
「存じませんでした」
「国の重要所を預かる者しか知らぬ。国が攻められた時に我々が盾となるためだ。帝が倒れれば国が滅ぶ。そなたは余の妻であるゆえ、いまから心得ていてもらわねばならぬ」
羅山は言って、懐から紙を取り出した。
「宮廷軍師は国の参謀で、宮廷長官は軍の指揮と統率をする。それぞれ七伏良司、三宅寛造、という方がお務めになられている。七伏様は四十代後半。三宅様は六十代半ばだ。趣味趣向などの詳細はここに書いてあるので熟読するように」
「それで、わたくしは何をすればよろしいのですか」
「余の横で黙って笑っていればよいが、話しかけられれば相応の受け答えをせねばならぬ。とにかく名を呼び間違えぬように。それだけは注意していてもらいたい」
「わかりました。それにしても急ですね」
「抜き打ちなので仕方ない」
「抜き打ち……ですか?」
「都の治安や情勢などを調査される」
「左様ですか」
マナは無表情に言いおいて、視線をそらせた。その様子を見た羅山は薄く笑った。
「なにか不満でもあるのか」
マナはビクリと肩を揺らし、震えそうになる声をおさえながら静かに答えた。
「別に。お分かりにならないのでしたら、よろしいのです」
「ふっ。分からぬな。そなたは金と地位を望んで手に入れた。愛まで欲するのは強欲だ」
マナはきつい目をして羅山を睨んだ。
「なんですって」
しかし羅山は微動だにせず、マナを睨み返した。
「余を見よ。塔主としての地位と金のおかげで愛は近寄らぬ。なにかを得ればどれかを捨てねばならぬのが世の常だ。愛されていないのはお互い様ではないか。それともそなたは、余が塔主という地位にない平凡な男でも選んでくれたと言うのか」
マナが返答できずにうつむくと、羅山は苦笑いして目をそらせた。
「不平をもらすのは贅沢だ。誰かに愛されたければ、すべてを捨ててどこへなりとも行くがいい。代償は大きいが、それも仕方ないだろう」
羅山は立ち上がって背を向け、襖の前に立った。
「余はそれができぬ。東の都に暮らす者すべての生活を預かるがゆえ、どこへも逃げることはならない。だがそなたは自由だ」
襖を開け放って立ち去る羅山を、マナはしばらく茫然と見送った。
マナには捨て去れないものが多くある。一番は父である柴門だ。もしここで自分勝手に好きな道を選べば、お家は取り潰し。都にもいられなくなるだろう。地位や財産を失うどころか親まで不幸にしてしまうのだ。そうしても手に入れねばならない愛などあるのか。言及することは、非常に困難であった。
よしんば慎太郎がマナを許し受け入れてくれたとしても、その先はどうすればよいのか。最初は恋心があるからいいだろう。だがどこまで続くのか保証はない。万が一食うに困る生活をするなら、耐えられるのか。
マナには想像もつかなかった。慎太郎のように貧しさを経験したことがないからだ。よって彼女の結論はやはり「愛だけで生きて行けるわけがない」というところへ行き着いてしまった。実際は「生き抜くだけの力となる愛がない」と表現するほうが正しいのだが、それに気づくほど達観してはいないのだ。
ただ、「慎太郎が許してくれるはずがない」ということだけは重々承知していた。
いまさら引き返せないのだと諦めるしかない。現実を見て、割り切ったものの考え方をして、自分で選んだ道なのだ。大人になるとはそういうことなのだ。
マナは決心しようと、息を止めて目を閉じた。胸のどこかで、これは決心ではなく観念なのだと思ったが、考えないようにした。
***
一方、マナと別れた羅山は廊下を行きながら考えていた。マナという女のことを。きっと今頃、ここを出るか思いとどまるか、揺れているに違いないと。それでも痛くもかゆくもないのは冷めてゆく想いを止められないからだろうと。
マナは自分が愛され、満たされることしか考えていない。夫となった男の淋しさにも気づかず、過去にも触れず、哀れとも思っていない。どうすればより安全に暮らせるか。どうすれば父を泣かさずにすむのか。それだけを案じている。つまりは自己本位なのだ。自分だけが傷つきたくないのだ。
妻となった女の本性を垣間見た羅山は、大きく溜め息ついた。
一途に見えたあの眼差しが偽物だったというだけでも残念であったのに、知れば知るほど粗だけが見えるのだから、どうしようもない。すると分かってくるのは、マナが想いを寄せていた男のことである。あの男も他者にはない利益とつながる部分を持ち合わせていたのだ。現に見てくれは良かったと、羅山は記憶をたどりながらうなずいた。
我ながら女を見る目がないと自嘲しながらも、妻となったのだから夫を愛する努力くらいしてほしいものだと願う。それもまた利己主義な考えなのだと羅山は知っていたが、やめられなかった。精神的なことにひどく飢えていたからだ。
こちらから優しく「愛している」と囁いてやれば喜ぶのだろうが、そんな安易な愛はいらない。愛されなければ愛さないという態度自体が許せない。叶うなら、疎ましいほど強く想われたい。見返りを期待しない愛というものが、どんな味なのか確かめてみたい——と。
羅山は塔の窓から都を見下ろした。
繁栄を極めつつある。その先は衰退だろうか、持続だろうか。あの町に行き交う者はみな、愛を知っているのだろうか。
問うことばかりが増えて、答えが聞こえない虚しさに、彼もまた目を閉じた。




