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塔の陰  作者: 礎衣 織姫
第一部
13/47

13.ツツジの庭

 宿に戻ってからも、慎太郎は終始無言であった。菊に言われたことが応えているのではない。実之が実家を目の前にしながら、わざわざ一緒に寝泊まりしている理由を考えているのだ。

 身分を明かさない訳は想像がつく。たとえば慎太郎を勧誘するのに肩書きを利用して相手の意思を束縛しないためであろうとか。純粋な志に邪心を抱かせないためであろうとか。だがもう利害は一致し、道場を見ておもな取り決めもした。これ以上隠し通す意味はなさそうに思えるが、ほかに何かあるのだろうか、と。

 以前、佐兵にした身の上話をチラと思わなかったこともない。だが恋情と仕事は別物だ。これから雇おうという剣士の個人的な感傷など彼らには関係ない。慎太郎としても生活があるので、私情を持ち込む気はさらさらないのだ。

 膳を囲む席で、慎太郎は斜め向かいにいる実之の様子をうかがった。そして、「単に打ち明ける時機が前後しただけだろうか。このまま知らぬふりをしていれば二〜三日のうちに話をするかもしれない」と考慮した。


 次に紫苑を見た。塔の財政が良くないことは町の噂で聞いた。しかし一行の旅は優雅である。金の出所は十中八九、彼女だろうと推測できた。大変な資産家の娘なのは間違いない。加えて次期塔主たる人物が頭を下げるからには、彼女に多額の借金をしているか、将来の寄付金を約束されているかのどちらかだろう、とも。

 慎太郎は目を伏せた。

 まだ少女と呼べる年頃なうえに華奢である肩には荷が重かろうと案じた。おまけに目が見えぬとなれば、ますます。だが差し出がましいことをする立場にはないと、慎太郎がその目線を上げることはなかった。


***


 慎太郎が食事を終えて先に部屋を出ると、見計らっていた菊が実之の腕を肘でつついた。

「どうだい?」

「え? なにが?」

 菊は実之の背を思い切り叩いた。

「間抜けな顔してんじゃないよ! バレてないと思うかい?」

「い、いや……それはなんとも」

「うんもう、しょうがないねえ。そのくらいのこと見抜けなきゃおしまいだよ、あんた」

「そういう姉上こそ、どうなのだ」

「あたいはいいんだよ。別に跡取りじゃないんだしさあ」

 実之は沈痛な面持ちでうつむいた。

「なんにしても、近いうちに打ち明けねばならんな。隠し通すわけにはいかんし、不可能だろう」

「大事にいたらねば良いが」

 横やりをいれる佐兵の顔を、実之は笑って見た。

「案ずるより産むが易しかもしれぬ。これで参るような精神なら、いくら強くても……」

 実之は言いよどんで口を閉じたが、佐兵は考えを理解してうなずいた。


***


 翌朝。

 宿の玄関口が騒々しいので、佐兵が様子をうかがいついでに宿主に事情を尋ねると、町の娘らが押しかけているというので驚いた。

「若旦那様がお連れになったあの青年に会わせてくれと言って聞かないんですが、なんとかしてもらえませんか」

 少し町をぶらついただけで、慎太郎はすでに噂となってしまったようだ。十数人の娘らが期待を込めた眼差しで宿の中をのぞいている。

 佐兵は、溜め息つきながら歩み出た。

「大切な客人なので面会は許可できぬ。お引き取り願おう」

 案の定、娘らは不平をもらし合ったが、佐兵は聞く耳をもたなかった。そこへ茶屋の娘が進み出た。

「私はちゃんとした用事があるのよ? ほらこれ。もらいすぎた勘定を返そうと思ってね」

 しかし佐兵はひるむことなく、茶屋の娘の手にある銭をすばやく奪った。

「こちらからお返しいたす」

「あん! ひどい!」

「しのごの言っても無駄だ。宿に迷惑だ。早々に立ち去れ」

「融通きかせてよ」

「ダメだ」

「そんなんだから独り身なのよ、佐兵さん!」

「黙れ!」

 憎まれ口を叩かれながらも、佐兵はどうにか娘らを追い払った。


 この様子を、玄関先に差しかかっていた慎太郎がたまたま目にした。彼も騒がしいのが気になって出て来たのだが、自分が原因と分かると慌てて壁に背をつけ、身を潜めたのだった。

 玄関先がすっかり静かになると、慎太郎はそろりと姿を現した。

「申し訳ない」

 謝る慎太郎を、佐兵はどうしたものかと思いながら渋い顔を作った。

「そちらが悪いわけではありますまい」

「いや、ようかんは奢りだと言うのを聞かないで勝手に勘定したのが悪かった」

「……そういうことではないと思うが」

「町の者と仲がいいな」

 佐兵は目を丸めた。急に話が飛んだからだ。自分がモテるという事実に自覚がないのか、故意に目をそらしているのか計りかねるところである。だがまあ、どうでもよいことだ。佐兵はさっさと質問に答えることにした。

「ここはそういう風潮でして。同じ町に暮らすものはみな家族なのです」

 慎太郎は軽く目を伏せた。そして、

「その家族は——」

 と、なにか問いかけてやめた。佐兵は訝しげに見やった。

「なにか?」

「いや」

 慎太郎は踵を返し、足早に宿の奥へと消えた。


 その家族は裏切らないのか。


 と問うつもりだった。慎太郎はぶり返す痛みに耐えかねて胸を押さえた。実の父のように慕った男と、将来の妻と信じた女の裏切りは、少々月日を重ねたくらいで消えるものではない。あの日の柴門の冷酷な表情は、目を閉じるだけで鮮明に浮かんでくるのだ。

 忘れてやりたい。

 最大の復讐はそれに尽きるのだが、たった今、憎しみに勝る想いのない慎太郎にはどだい無理な話である。

 そうして苦しんでいると、ふと誰かがやって来た。慎太郎は身構えたが、すぐに緊張を解いた。ゆっくりと廊下を進んでいたのは紫苑だ。彼女は慎太郎に気づいたようにして立ち止まった。

「そこにいらっしゃるのは、どなたかしら?」

 気配に問う紫苑の瞳は揺れていた。多くの者が出入りする宿である。不安も多いのだろう。

「菜々殿はどうした。一人では危ないだろう」

 言ってやると、紫苑は慎太郎だと分かって顔をほころばせた。

「たまには実之さんと二人きりにしてあげませんと、かわいそうですわ」

「は?」

「あら、ご存知なかった? いやだ、すっかり話しているものだとばかり……ごめんなさい。二人は結婚の約束を交わしているのよ。実之さんの一目惚れで始まった恋なの。素敵でしょ?」

 紫苑は夢見るような眼差しで話して聞かせるが、慎太郎は驚いた。どうみてもひと回りほど年の差があるからだ。しかし菜々を選んだ実之の気持ちが、慎太郎にはよく分かった。菜々は気配り上手であるし、サバサバとした性格の割に控えめなところもある。なにより一途そうだ。きっといい女房になるだろう。

「実之殿は目が高いな」

 何の気ない感想をもらすと、紫苑はパッと目元をゆるめた。

「あら、ええ、そうね。菜々を見初めるなんて確かに目が高いわ」

 ほろっと笑う紫苑を見て、慎太郎は不思議な気分がした。紫苑は菜々を褒めると本当に嬉しそうにする。

「菜々殿が好きか」

 思わず問えば、紫苑は素直にうなずいた。

「ええ、大好き。……どうして?」

 どうしてそんなことを聞くのかと小首をかしげる紫苑へ、慎太郎はそっと手を伸ばした。白くてやわらかい小さな手は、慎太郎の手にすっぽり収まってしまう。慎太郎は戸惑う紫苑を見ないようにして、その手を引いた。

「裏にツツジの庭があった。行こう」


***


 実之と菜々の恋路を邪魔せぬように、暇つぶしにと誘った裏庭だった。白と紅のツツジが満開であり、明け方軽く降った雨露に濡れている。様子を伝えながら庭の中程まで進み、慎太郎は歩みを止めて紫苑の手を放した。

 紫苑は残念に思ったが、すぐにまた手を引かれた。なにかと驚いていると、指先に冷たい雫がついた。

「この一輪だけ紫だ。不思議だな」

「まあ! 摘んではいない?」

「摘んでない」

「よかった」

 紫苑は花を傷つけないよう、慎重に触れた。その横顔を、慎太郎は美しいと思って眺めた。心の根まで澄んでいる少女は限りなく透明で、紫のツツジによく映える。

 慎太郎は紫苑から視線を外した。

 菜々や実之や、菊や佐兵が慕うわけを悟りかけ、急に怖くなったのだ。


 そうして二人は半時ほど庭を歩き、部屋へ帰った。またいつものように菜々と他愛もない会話を始める紫苑は変わらなかったが、慎太郎は身の置き所がないような雰囲気で、窓の外を見ていた。

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