12.西の都
道場の修繕を段取りするためには実之が動かねばならないので、一行はしばらく西の都に滞在することになった。
「西の都も良いものだぞ? ゆっくり見物して回るといい」
実之は満面の笑みで告げたが、都暮らしに慣れていた慎太郎が観るものなどは、ほとんどなかった。その代わりと言ってはなんだが、噂話はよく耳に届いた。というのも、道行く者の七割が慎太郎に声をかけたからだ。
噂話とは、反物屋の息子が賭博で身を持ち崩したとか、近所の猫が七匹も子を産んだとか、乾物の値段が上がったとか、そんなことだ。
いまも齢四〜五十の男が寄って来て、慎太郎に尋ねた。
「見ねえ顔だな。どっから来た。オレはそこで棟梁やってる。よかったら、うちで働いてみないか」
「申し訳ないが、間に合っている」
「おおそうかい。どこで?」
「その先の道場で」
「なんだ、そんなことか。じゃあしょうがねえなあ」
居酒屋らしい店の前で打ち水をしている女将にも声をかけられた。
「旦那、寄ってかないかい? どこから来たのか知らないけど、いい顔してるねえ。なんなら、うちで板前修業でもするといいよ」
「……どうして」
「板場に立ってりゃ千客万来って感じなんだけどねえ。ダメかねえ」
「すまないが、その先の道場で務めることになっている」
「ああ、そうなの。悪かったねえ。それじゃあしょうがないねえ」
その後も似たような会話が続いたので、慎太郎は嫌気が差してきた。声をかけられたら、いっそ無視するか、逆に質問してみるといいだろうと思った。そこへ早速、人力車を引く男から声をかけられた。
「よお兄さん、どっから来なすった」
「もうさんざんこの辺りの者に聞かれて言い飽きた。知りたいなら誰でも捕まえて聞け」
「わっはっはっ。そりゃすまねえ。ここの連中はよそ者に敏感でねえ。おまけにそんな目立つんじゃあしょうがねえ」
慎太郎は怪訝そうに男を見やった。
「目立つ?」
「おうよ。目立つ目立つ。女にモテるだろ。うらやましいねえ」
慎太郎はどんな顔をして何を答えればいいのか迷ったあげく、苦笑いした。
***
慎太郎がそうしている時、菊は道場の修繕箇所を調べている実之の背を叩いた。
「ちょいと! 慎太郎はどうしたんだい」
「おっ……と。なんだ急に。驚くじゃないか」
「なんだじゃないよ。一人にしといて大丈夫なのかい!?」
「子供じゃあるまいし」
「あたいが言ってるのはそんなことじゃないよ。子供じゃないから心配してるんだろう?」
「どういう意味だ?」
「一人で町へ放り出したら、どこであたいらのこと知られるか分からないじゃないか」
菊の指摘で、実之はハッとして真っ青になった。
「い、いまから連れ戻して間に合うだろうか」
菊は実之の頭をポカッと殴った。
「馬鹿だねえ! 間に合ったら奇跡だよ!」
***
残念ながら、菊の心配は的中した。それは慎太郎が茶屋に寄り、緋毛氈を敷いた店先の長椅子に腰かけて一服している時だった。
「兄さん、いい男ねえ」
店で働く娘が寄って来て言い、水ようかんを置いて横に座った。
「これ奢り。この辺じゃ見かけないわよね。どこから来たの?」
「東の都から」
「あら遠い。どんな用事で? 観光かしら」
「それもあるが、しばらくここに腰を落ち着けようかと」
「ほんと!? 仕事でも見つけたの?」
娘は飛び上がって喜び、身を乗り出した。慎太郎はややたじろぎながら、首を縦に振った。
「その先の道場で雇ってくれるというので来てみた。しかし修理が必要なので、実際には来年あたりからになる」
「そう! 楽しみね! で、それまではどうしてるの?」
「一度また戻って北を旅行する」
「ふうん。……この先の道場って若旦那のところよね?」
「若旦那?」
「そう。実之さん」
「ああ——そんなふうに呼ばれているのか」
「え? ああうん、大抵は。親しみやすくていい人よね。暮らすなら断然こっちよ? 東なんて住みにくいでしょ?」
慎太郎は眉をしかめた。東が住みにくいなどと思ったことは一度もないからだ。
「別に」
軽く否定すると、娘は意外そうに目を丸めた。
「東は年貢が高いって聞いたけど、違うの?」
「え?」
「商人は売り上げの三割、百姓は収穫の四割って言うけど」
「そのとおりだが」
「ほらやっぱり! こっちは売り上げも収穫も一割よ!」
娘は慎太郎の腕を叩いて言った。
「おまけに不作の年や長く臥せった年は免除されるんだから、有り難いじゃない?」
今度は慎太郎が目を丸める番だった。
「そうなのか? しかし、どうしてそんなに違うんだ?」
「塔主が偉いからよ。東とは違うの!」
塔主と聞いて、慎太郎がドキッとしたのは言うまでもない。
「……塔主?」
「そう。真崎実継様。貧乏だけどね。そのぶん民が潤ってるってわけよ」
娘は続けて遠くを指差した。
「あそこに見えるでしょ? 黒い塔」
指の先には東の都にある塔とよく似た黒い塔が、確かに見えた。
「東がしろがねの塔って呼ばれてるように、西はくろがねの塔って呼ばれてるのよ?」
「くろがねの……塔」
慎太郎は立ち上がって遠くの塔を見つめた。無学だったわけではないが、この国に二つも塔があるとは知らなかったのだ。
空を突き刺すように建っている黒い牙。物静かにどっしりと根を張っている姿は東にあるものと変わらない。
こんな所でやっていけるのか。
慎太郎は不安になった。色合いが異なるのはせめてもの救いだが、それでも。
「とにかく、若旦那の世話になるんなら一度は挨拶に行ったほうがいいんじゃない? それとも、もう済ませた?」
慎太郎はギクリとして娘を振り返った。
「どういうことだ?」
「え……? どういうって、そういうことだけど」
「つまり?」
「若旦那は塔主の跡取り息子でしょ? だから」
慎太郎は、足をつけている地がぐらりと揺れたような気がした。それから慌てて懐から銭を出し、長椅子の上に置いた。
「馳走になった。ありがとう」
「え、あ、ちょっと! ようかんは奢りだってば!」
娘は、駆け足で立ち去る慎太郎を一生懸命呼び止めたが、風のように速い彼はあっというまに見えなくなってしまった。
***
慎太郎は道場の門前に立っていた。何をすると決めたわけではなく、衝動的に来てしまったのだ。動揺するばかりで、冷静ではない。彼は溜め息をつき、うつむきながら踵を返した。
町の中を当てもなく歩き、ときおり行き交う者に声をかけ、塔の噂話を拾う。答えはどれも同じだった。塔主も若旦那もいい人で、塔の財政は芳しくないが町人はそこそこ豊かに暮らしている。有り難いことだ、と。
もうひとつ分かったのは、彼らがいやに親しまれているということだ。東では考えられない。塔主の顔を知る者すら限られているあの都では。
真崎実之は鍵崎羅山とは違う。
慎太郎は思ったが、やはりどこかに大きな抵抗を感じた。マナへの未練を完全に断ち切れていない証拠である。ゆえに、早足で町を突っ切りながら己を笑った。けじめをつけたつもりで、少しも吹っ切れていないではないか、と。
見上げれば太陽が傾き、道に長い影を描いている。にじり寄ってくるのは前方にそびえる塔の影だ。それを見れば、互いの塔が似ているのではなく同じだということが分かる。
慎太郎は震えた。思いあまって止めた足はもう、凍りついたように動かなかった。影は一歩踏み出せば届く。恐怖を感じずにはいられない切羽詰まった状況に、心が乱れた。
そばを行き交う人々のように、何も感じることなくこの影を踏めたなら。
慎太郎は切に願って目を閉じた。
何も感じることなくこの影を踏めたなら、俺はマナに永遠の別れを告げられる。今生に悔いを残さず飛び立てる。
慎太郎が強い想いを胸に立ち尽くしていると、夕闇にまぎれて艶かしい様子の女が寄って来た。
「お兄さん、ちょっと遊んで行かない?」
慎太郎はいきなり何だと言いたげに顔をしかめた。
「いい男だから特別に安くしておくよ? ううん、こっちが払ってやってもいいくらいね。どう? 高く買うよ?」
「……何を?」
「あらいやだ。何をって、ナニに決まってるじゃないの」
「は?」
慎太郎が困惑していると、いきなり誰かが袖を引っ張った。
「なにやってるんだい!? あんたみたいな男がこんな時間に一人でウロウロしてんじゃないよ!」
菊である。相手の女はとたんにむくれた。
「いやだ。菊姉さんのお手つき?」
「違うよ! 馬鹿だね!」
「じゃあ邪魔しないでよ」
「そんなわけにいかないんだよ! ほかを当たんな!」
女は肩をすくめ、しぶしぶ背を向けた。
「ざーんねん。久しく見ない上等な男だったのに」
女が去ると、菊は慎太郎の腕を引きながら帰宅をうながした。
「まったく世話が焼けるねえ! とっとと歩いておくれ」
「す、すまん。で、さっきのあれはなんだ?」
「娼婦だよ。見りゃ分かんだろ?」
慎太郎は目を見開き、次の瞬間には顔を真っ赤に染めた。それを見た菊こそ驚いた。
「純情だねえ。もしかして経験ないのかい?」
慎太郎はますます赤くなって黙ってしまった。菊は呆れた。
「ずいぶんモテただろうに……婚約者もいたんだろ? 佐兵に聞いたよ。なんにもしないから捨てられんだよ。馬鹿だねえ」
ずけずけと言われ、慎太郎はおおいに傷ついた。だが本当にまったく何もしなかったわけではない。接吻はしょっちゅうだったし、契りに近い行為もやっている。最後までしなかったというだけだ。
「純血を守りたいと言われれば、それ以上はできないだろう」
やっと反論してみたが、菊は軽く笑い飛ばした。
「それじゃあ一生なんにもできないねえ」
痛烈な批判を込めた言葉に、慎太郎は今度こそ黙った。




