01.人生の始まり
慎太郎は農家に生まれた。田の中を駆け回っては近所の子らとチャンバラごっこをし、丈夫に育った。別段変わったところもなく、大人になれば親の跡を継ぐものと思われていた。
ところが年頃になるとやたら背が伸び、精悍な面差しもあいまって、近所の娘らが噂するようになった。良家の娘まで里におりて来て品定めをするという色男ぶりだ。
見目が良いだけではない。腕が立つ。荒削りだが剣も強い。見込まれて道場から勧誘を受けることもしばしばあった。
だが慎太郎はどれも断ってきた。自分以外に田畑を継ぐ者はいないし、百姓の子は百姓で良いという堅実で控えめな一面があったのだ。
しかし親は息子の立身出世を願った。説得につぐ説得で、とうとう重い腰を上げたのは齢十七の春である。決め手となったのは、道場主・保倉柴門のひとり娘だ。
保倉マナ。長い黒髪をひとつに結った化粧気のない娘は美しかった。年の頃も慎太郎に似合いだ。道場の娘だけあって軽く剣もたしなむ。キリリとした眼差しと清楚さをあわせ持つ少女に慎太郎が惚れるのは造作もなかった。
マナが慎太郎に恋をしたのも、すぐだった。道場に通う男たちは皆たくましいが、その者たちより頭ひとつ分も背が高い慎太郎は、よく目立った。面構えも良いし、剣の基本を教えただけで師範と渡り合うだけの技術を身につける奇才である。
柴門も娘婿にちょうど良いと、すんなり交際を認めた。
マナとの時間は慎太郎にとって夢のようなひとときだった。美しく穢れない少女の傍らに立つ自分が誇らしかった。良い家庭を築き、良い子をもうけ、義父の道場を受け継ぐ……そんな未来を疑いもしなかった。
彼もまた、穢れなき少年だったのだ。
***
時は流れ、マナとの交際も三年を数える頃。いよいよ祝言を挙げるという話が持ち上がってくると、柴門は慎太郎へ告げた。
「うちは代々、塔に仕えてきた由緒正しい家柄だ」
「存じ上げております」
二十歳の慎太郎は堂々と答えた。師範代となり、すでに右に並ぶ者なしと評判の彼は、年より幾分大人びて見える。そんな頼もしい慎太郎の顔を見て、柴門は満足げにうなずいた。
塔というのは、都の中心に立っている円筒状の建物のことだ。空に向かって高くそびえる様は皎白の牙のようである。およそ一町(約一〇九メートル)もあると言われるそれを、どのようにして建造したのかは謎だ。噂では、根底により強大で得体の知れぬ力が存在しているのだと囁かれているが、真偽のほどは定かではない。
ちなみに、この塔を統べるのは、塔主と呼ばれる鍵崎羅山・十四代目である。お国の行事はすべて取り仕切り、年貢なども預かる重要所だ。
保倉柴門は塔に出入りしている剣士——いわゆる用心棒であった。つまり、マナを嫁にもらい道場を継ぐということは、塔の用心棒としても務めねばならないということが、柴門は言いたかったのである。
慎太郎は若いが心得ていた。剣の腕が達者なだけの小生意気な若造ではないのだ。柴門はそのことにご満悦であり、はやく塔主に目通り願い、娘婿だと紹介したい気持ちでいっぱいだった。
自慢の娘に自慢の婿。
彼もまた、幸福の絶頂で明るい未来を疑うことのない、どこにでもいる父親だった。
***
結納が滞りなくすむと、慎太郎は正式に道場の運営を任されるようになり、門弟たちはそれまで以上に深く頭を下げるようになった。マナとの交際が始まった時点でみな一目置いてはいたのだが、いよいよ確定となると様子も変わるのである。
「おめでとうございます、慎太郎様」
誰もが祝いの言葉を投げかけ、うやうやしく礼をする。中にはわざわざ正座して挨拶する者もあった。慎太郎はそのたびに感謝の言葉を述べた。
「皆様のおかげです」
きっと良い道場主になるだろう、とみなが噂した。
そんな矢先。
柴門が顔を真っ青にして、慎太郎とマナを呼んだ。二人は何事かと視線を交わし合ったが、その答えはほかならぬ柴門の口から聞かされるはずだと、また柴門に目を戻した。
柴門は大量の汗をかきつつ、うろたえた様子で驚くべき言葉を吐いた。
「慎太郎、誠に申し訳ない。マナとの話はなかったことにしてくれ。このとおりだ」
柴門は土下座して額を畳にこすりつけた。慎太郎は仰天して身体を震わせた。
「な、なぜです!?」
「塔主がマナを……もらいたいと」
慎太郎は衝撃を受けたが、慎太郎以上にマナも衝撃を受けた。
「父上!」
そう叫んでみたものの、あとの台詞が続かないマナを、慎太郎は不安な気持ちで見つめた。その横顔は横顔のままで、いっこうに慎太郎を見ない。
美しい横顔だ。キリッとした表情と、女らしい柔らかさが共存している。見初める男はいくらでもあるだろう。しかしそれがよりによって塔主とは、青天の霹靂である。
断れるはずのない相手だ。父を責めようにも責められないマナの苦悩は眼差しから読み取れた。
慎太郎が身じろぎせず凝視していると、マナがやっと顔を向けた。
「お話だけでもしてみます」
「話が通じる相手なら良いのだが」
「仮にもご塔主です。ものの道理も倫理もわきまえておりましょう」
慎太郎はマナの言葉を信じるよりほかなかった。
***
「マナ殿。おもてを上げられよ」
想像していたより若い声で言葉をかけられ、マナは緊張しつつ顔を上げた。
部屋は百二十畳もあるのに、縦二畳並べたほどしか離れていない近距離での謁見である。一段高い場所で片膝を立て、厚めの座布団に腰を下ろしている塔主の姿や表情は、ハッキリとうかがえた。
マナはいっそう緊張し、肩を強張らせた。
塔主は綺麗な男だ。年の頃は二十代半ばであり、マナと釣り合いも取れる。慎太郎のように野性味がないぶん精悍さは欠けるが、知的で威厳のある風貌だ。
見たこともない種類の男に見惚れ、マナは何を話すべきだったのか忘れてしまった。
塔主と言えば雲の上の人。どのような男であれ手の届く相手ではない……とマナは思っていた。今も思わないことはない。塔主であるうえに美男子だからだ。本当にこの男が自分を見初めたのだろうかと疑うばかりだ。
しかし門番はうやうやしくマナを迎え、塔で働く者たちも頭を下げていた。塔主に目通り願いたいと言えば、あっさり通った。そして今、こうして向かい合っている。信じられないが、塔主がマナをもらいたいと言ったことは事実のようだった。
それでも唖然としたまま口を開こうとしないマナ。どこかで「これはやはり何かの間違いだ」と思う心が、彼女から言葉を奪っていたのだ。
そんなマナを見て塔主は小首をかしげ、やむなく自ら口火を切った。
「近くで見ると、いっそう美しいな、マナ殿。そなたがここへ参られた理由は先刻承知であるぞ。しかし約束だけでまだ婚姻は結んでおらぬはず。その若さと美しさで早々に一人の男に決めてしまうのはもったいない。悩んでみてはいかがかな?」
塔主の言葉で我に返ったマナは、再び深く頭を下げた。
「お……恐れながら申し上げます。もしわたくしが婚約者を選びましたら、どのようにご処分なされるおつもりでしょうか」
「処分などするつもりはない。余はそなたの幸福を望んでいる」
マナは驚いて顔を上げた。塔主は優しく微笑んでいた。
「相手がいることを承知で惚れた余が悪い。しかしこの気持ちはどうしても伝えておきたかったのだ」
帰宅途中、マナは迷いの中にあった。足元もどこかおぼつかない。
慎太郎は「好きだ」と言う。飾らない言葉にある、不器用だがまっすぐな愛がマナは好きだった。だが塔主のような男はどうだろうと考えた。中性的な面差しというだけでも、周囲にはいない男だ。それが愛と思いやりに満ちた美しい言葉を綴る。素直でありながらも、より繊細に想いの丈を告げる。ゆえに、
「私が塔主へ嫁げば父上も……」
そんな想いが、あっというまにマナの心を支配した。
名誉職とは言いながら、生傷の絶えない父を見るのが辛かった。慎太郎と結婚すれば、今度は慎太郎のことを心配するに違いない。気苦労ばかりで病に倒れた母を知っている。その人生をたどることが本当にいいことなのか——マナには分からなくなっていた。




