催眠アプリ
――催眠アプリ。
それは催眠術師であれば誰もが知っている強力無比な武器の名だった。
「な、何よこれ、四角くて薄い……カード、なの?」
「違うぞジル、これは武器だ、催眠術師専用のな。この『ディスプレイ』をタッチして、幾つかの『アプリ』の中から使用するアプリを決めると、そのアプリが立ち上がる。――厳密に言うと、この『スマホ』そのものが武器なのではなく、そのアプリの一つが、催眠術師専用の武器なんだ」
「……な、何言ってるのよ???」
「わ、私にもさっぱりですぅ」
活発少女のジルにはちんぷんかんぷんのようだった。
いや、ジルだけでなくオリヴィアや、この場にいる他の人間もだった。
無理もないだろう、これは催眠術師の専用武器なのだ。
低位で不遇職の専用武器なんて、知っている人間の方が稀なのだから。
ブタドスは奪われないようにと、すぐに懐にしまって言った。
「ド、ドゥフフ、話しちゃったぁ。でも、これで理解出来たよね、僕が街を操れた理由が」
「……ああ。催眠アプリは古代人が残した伝説の遺物と言われている。確かに、そんな大層な武器であれば、誰でも街くらい操れるのかもしれない」
俺は、ブタドスを睨んだ。
「溺れたのか、お前は。呪いの装備に」
催眠アプリは呪いの装備だった。
ブタドスは否定する。
「ドゥフっ! 催眠アプリは呪いの装備なんかじゃないよぉ! これは伝説の装備、伝説の武器! 僕は選ばれたんだよぉ、女神様にぃ!」
「知らないのか、古代人の伝承を。古代人はアプリに取り憑かれて、前ではなく下ばかり見て歩くようになり、底のない沼に堕ちていったと。お前は催眠アプリに操られているんだ」
「操られているわけないよぉっ! こんな素晴らしい力、使わないでいるなんてそれこそ愚か者じゃないかぁ!」
ブタドスは、力に魅了されていた。
こうなったらもう止められないだろう、人とは欲深い生き物なのだ。
俺はそうならないように数々の――紳士の主義を掲げていたが。
ブタドスにはそんなものあるわけもなく、邪道に堕ちたのである。
道を外れた催眠術師。ならば――同じ催眠術師の俺が始末しなければならない。
「ドゥフフ、僕は質問に答えたんだから、次はマルク君が答えてよ! ――いや、マルク君じゃなくて、フリーダちゃんに答えてもらおうかなぁ!」
「わ、私に、か」
この情報交換の間、フリーダはずっと黙っていた。
自分の父を殺した者がこの中にいるかもしれないと考えていたのだろう。
そんな状況の中で、ブタドスはフリーダにこう質問した。
「フリーダちゃんは、マルク君のこと……〝好き〟なのぉ?」
「なっ……わ、私は、そのっ」
本当にどうでもいい話しか聞いてこないな、こいつは。
マルクのことが――俺のことが好きなのか。
フリーダは答えに困り、うつむいて「その、えっとっ」を繰り返すばかり。
だが、彼女の耳はみるみる赤く染まっていって。
そして、言った。
「わ、私は、マルクのことが、す――」
「ブタドス、そういえば一つ前の質問に答えてなかったな。とっておきの話だ」
「な、なんだよぉマルク君、今いいところだったのにぃ! ……で、でもとっておきかぁ、気になるなぁ、教えてよ」
フリーダが胸の内を語ろうとした時、俺がそこに割って入った。
ブタドスは嫌そうな顔をしたが、とっておきと聞いてすぐに表情を戻した。
俺は期待する目の前の男に、とっておきの話を披露した。
「四人で海へ行った」
「ドゥフっ!? 水着イベント! ……で?」
「みんなでイカを食った」
「うんうん! ……それから?」
「それだけだが?」
「……は?」
これが俺のとっておきの話だ。いい話だろう?
必要な情報はあらかた聞き出せたため、俺はとっておきのどうでもいい話をしてやったのだ。
それまで一度も怒ることのなかったブタドスが、怒った。
「ふざけないでよぉマルク君! フリーダちゃんの話を良いところで切ってさぁ! 僕こんなの納得いかないよぉ、フリーダちゃん、さぁ続きを早くぅ!」
「えっ! そ、その、私はマルクのこと――」
「おっとダメだぞフリーダその先は。こっちはもう一つ答えた、対価は支払った後なんだからな」
「なっ……僕をコケにして、怒ったぞぉマルク君!」
俺が止めに入ると、フリーダは言葉を止めるのだった。
ブタドスは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、空気が一変した。
操られた冒険者達は戦闘態勢に入り、終末女神教の信者達も身構えた。
交渉は終わりだ。
俺自身も戦闘態勢に入りながら、最後に聞く。
「最後に聞かせろブタドス! ――お前が、フリーダの父を殺した犯人か!」
「フン、そうだよぉ! 僕がフリーダちゃんのお父さんを、罠にはめて殺した張本人だよぉ!」
「な――お、お前がっ」
頭に血が上っていたからか、ブタドスは簡単に口を割った。
フリーダは激高したが――瞬時に青ざめた。
突然目の前に仇が現れて、動揺の方が勝ったのだ。
ブタドスは下卑た様子でさらに続けた。
「フリーダちゃんのキリリとしたお尻をパコパコしたかったんだよぉ! 女騎士は前の穴より後ろの穴の方が弱いって聞くから本当かなって思ってねぇ! でも結局、フリーダちゃんには思い人がいなかったから、断念したんだぁ! ――僕は、人の女じゃないと勃たない寛大な男だからねぇ!」
「女性に向かって言う言葉じゃないな」
俺はブタドスを睨む。
「お前はやはり紳士の敵だ、ブタドス」
「ドゥフ。君も教えに反する僕の敵だよ、マルク君」
二人の催眠術師が視線を交える。
ブタドスはニタっと笑うと、最後にこう続けた。
「ドゥフ、今のフリーダちゃんには思い人がいるみたいだから、前と違ってすごく興味が湧いているんだぁ。他のロリロリジルちゃんや、ぷるんぷるんオリヴィアちゃんもねぇ。もちろん、その中心のマルク君、君にもねぇ。だからここで――旅を終えてもらうよぉ!」
「フリーダ、来るわよ! ギルマスと騎士団長はあたし達で抑えるしかないわよ、戦える!?」
「ジ、ジルちゃんっ、私はっ……く、苦しいよっ」
「フリーダさんっ! ――神よ、どうかフリーダさんにお告げを!」
彼女の信念が揺れるほどに、親の仇との邂逅は大きなショックだった。
ブタドスの口を割らせたのは悪手ではないだろう。どちらにしてもフリーダは気になって戦いどころではなかったからな。
いずれにしても、今は一度退くべきだろう。
俺が方法を模索していると――
「催眠スキルTier3――『混乱』! こっちだ、来いマルク!」
ブタドスの信者が操られて場が混乱した。
今の催眠術は――俺ではない。
俺ではない誰かが、敵に催眠術をかけたのだ。
「ドゥフフっ!? 何やってるんだよぉ信者君達ぃ! 捧げ物が逃げちゃうよぉ!」
「い、今の、マルク様の催眠術ではないですっ!?」
「チャンスだ、一旦退くぞ! ――こんなところにいたとはな、〝女好き〟め」
俺は、心当たりのあった人物を思い出しながら、仲間と共に冒険者ギルドから逃げ出すのだった。




