ジークハルトの遠征と失踪(7)
『身を挺して庇うような危険なことはするな』
『いつまでも加護があるわけじゃないだろ』
ああ、エルヴィンに怒られるなあ……と思いながらジークは崖を落ちていった。
騎士団の騎士服は衝撃や刃物から身を守るように薄い鋼が入れられているがジークは騎士服を着ていない。尾に撥ねられた身体は全身打撲で落ちる途中で痛みに気を失った。
イグナーツはジークが撥ね飛ばされると同時に飛び立ち上手く落下するジークの下に身体を滑り込ませた。
ドンとジークがイグナーツの背に落ちる。既に気絶していたジークが受け身など取れる筈も無く衝撃で右足にひびが入った。
おまけにイグナーツの背でも安定の悪い尾に近いところでジークを受け止める形になってしまっていた。イグナーツはジークを落とさぬよう慎重に低空飛行していたがズル……ズル……とジークは背から滑っていった。
ついにイグナーツの背からジークが落ちた。
ボッチャン!
落ちた先は川だった。流れが速くジークの身体は流されていく。
それでもイグナーツはジークを追って低空飛行し続けた。
途中川幅が狭く木がせり出して生えている場所は高く飛んで木を避けながらもイグナーツは追い続けた。
人のような手のないイグナーツにはジークを引っ張り上げることなど出来ない。
それでも咥えて飛べる場所がないかとジークを追い続けた。
やがて流れは緩やかになり浅瀬に引っ掛かりジークの身体は止まった。
イグナーツは慎重にジークの衣服を咥え岸まで引っ張り上げた。
人の身体は脆く竜の口は大きい。一歩間違えれば容易にジークの身体を噛み潰してしまう。
イグナーツは慎重に慎重にジークの身体を岸まで引っ張り上げた。
顔を嘗めるがジークが目を覚ます気配はない。
イグナーツはジークの顔を嘗め続けた。
一晩経った翌朝の事だった。
草を食みにイグナーツがジークの傍を離れ河原に戻ってくるとジークが消えていた。
イグナーツはうろうろとその辺を飛び回ったがジークの魔力は感じなかった。
ジークが呼んでくれればイグナーツはジークの元に行くことができる。でもその気配は無かった。
イグナーツはジークを見失ったこの場所でただじっとジークを待っていた。
「ん……うう……」
気が付くと同時に全身の痛みが襲ってきた。
ジークは自分が清潔なベッドに寝ていることに気が付いた。
(僕はどうしたんだ……?どうしてここに……?)
朦朧とする頭で考える。部屋の隅に人の気配があった。
「あんれ、気が付きましただか」
ひょいと目の前に顔が現れた。人のよさそうな中年の女性、メイド服を着ている。
彼女はドアを開けて外にいる人物に何か告げた後ジークの傍に戻って来た。
「ここは?僕はどうしてここに?」
喋ったつもりだった。でも喉が酷くかすれ実際にはうめき声のようなものが出ただけだった。
「無理に喋らない方がいいですだ」
中年の女性はしゃべりながらもかいがいしく世話を焼いてくれる。
ベッドの傍にカップに入った飲み物を持ってくるとジークの身体を少し起こし背中に枕を入れた。そうして少しづつカップの中の飲み物をスプーンでジークに与えた。
飲んでみると蜂蜜の入った薬湯のようなもので常温に冷まされたそれはジークの身体に染み渡った。
カップ一杯を呑み切るころにはジークの頭も正常に働き出し最後の記憶を思い出していた。
といっても最後の記憶は崖から落ちる自分だ。どうやら助かったらしいがどうして助かったのか、ここがどこなのか、あれからどのくらい時間が経ってどうして自分がここにいるのか……わからないことのオンパレードだった。
とりあえず自分は手当てをされているようだ。ということはここの主人……誰かはわからないが、は自分をすぐに害する意思は無いということだろう。
しかし目の前の女性は僕が目覚めてすぐにドアの外の人物に知らせていた。
ということはドアの外に常に人がいるということだ。監視が付けられているということだろう。
次に自分の身体をチェックする。全身が痛い。魔獣の尾に撥ねられた時の打撲だろう。
特に右足はひびが入っているか骨折しているか……これでは立って歩くこともましてや逃げることなど出来そうもない。それに全身が酷く怠い。少し頭がボーっとして発熱しているようだ。
これでは逃げ出すことはおろかこの部屋から出ることも難しいな、と心の中で苦笑した。
部屋はとりわけ豪華なわけでもないが粗末なわけでもない。華美な装飾などは無いが居心地のいいベッドと清潔なシーツ。ふかふかの掛布団と枕。ジークが着ている夜着も余分な装飾などないが着心地はよかった。
少なくとも平民の家ではないな、とジークは考えた。
薬湯を飲み切ったころ部屋にノックの音がした。
メイドの女性がドアを開ける。
入ってきたのは穏やかそうな顔つきの壮年の男だった。
壮年の男はジークのベッドの傍らにある椅子に腰かけジークの顔を覗き込んだ。
顔つきは穏やかそうだが目つきは鋭かった。口元に笑みを湛えながら鋭い目つきでジークを観察していた。
「やあ、目が覚めたようだね。君は高熱を出して三日も意識が無かったんだよ。おまけに全身打撲に右足にはひびが入っている。どこで何をしたらそんな怪我をするんだろう」
少しも笑っていない目で、口調だけは快活にその男は言った。
「あ……う……」喉の調子を確かめながらジークは思案していた。何をどこまで話せばこの男は納得するだろう?少なくとも自分の身分は伏せておかなくてはならない。
コホンと小さく咳をしてジークは口を開いた。
「それが……僕にもよくわからなくて……記憶が混濁してて思い出せないのです。あの……どうして僕はここにいるのでしょうか?ここはどこですか?」
「そうか、記憶が……ね」
全く信じていない口調で男は言った後少し目を瞑った。
再び目を開いた後、男は話し始めた。
「私の名はラーシュ・シュトレーム。身分的には子爵だがトシュタイン王国の北東部、旧ゲレオン王国の東部を治める豪族といったところだな」
ジークは驚いた。この男はこの地域の領主だ。領主ともなればこの地域に起こったことの情報は入っているだろう。トシュタイン王国の王宮での出来事も耳に入っているはずだ。いかにも怪しいジークに対してあっさりとこの男は自分の身分を明かした。
これは何を意味するのだろう……考えろ。自分の目的は無事にヴェルヴァルム王国に帰ることだ。こっちの身分を明かさずどうにかしてここを抜け出しイグナーツを呼ぶ。または自分を捜索しているであろう竜騎士隊と連絡をとる。
その手段を得られるまで何とかして目の前の男を欺かなければならない。
表情は変えないままジークは気を引き締めた。




