お買い得だよ? 10
最終回ですが、長くなりましたので二つに分けました。続きは19時半投稿予定です。
胸を押さえるようにしてテーブルに突っ伏すレイモンドに、ダイアナは慌てた。
「あああ! すみません! 言い方を間違えました! まだ、恋愛として好きかどうか分からないと言いたかったんです!」
「……ということは、僕に好意は持っている? 僕のことが好きってことだよね?」
「え、っと。そう、ですね」
改めて訊かれると恥ずかしかったが、それはその通りだったので、ダイアナは頷いた。
レイモンドは跳ねるように顔を上げ、突然、ぎゅっとダイアナの手を握った。
「僕にこうやって手を握られるのは嫌? 虫唾が走る?」
「いえ、そんなことは、ない、ですけど」
さっきからずっと握っていたのに、どうしたんだろう急に? とダイアナは不思議に思った。
「じゃあ」
レイモンドは片手を離し、片手でそっとダイアナの頬に触れた。
家族以外の異性から、初めて顔を触られたダイアナは驚いて、ぴくりと身体を揺らしてしまった。
「これは? 嫌?」
触れるか、触れないかという、本当に微かな指先だけの感触だった。けれどもダイアナはドキドキして、口から心臓が飛び出てきそうだった。顔が熱くて、きっと真っ赤になっているだろうと思った。
「い、嫌じゃ、ない、です」
何とか、そう答えても、レイモンドは緊張した表情のままだった。
「じゃあ……」
レイモンドはゆっくりと口を開けた。
次は何を言われるのだ、とダイアナは緊張して、レイモンドの唇をじっと見つめた。
「想像、して、欲しい」
「はい」
「……僕と、君が、キスしたら」
「わたしと、殿下が………………はいぃ?」
「いや、だから、想像! しないから! 想像して、みて、……嫌、かな?」
何だ、何を言っているのだこの人は? とダイアナは混乱した。混乱しながらも、レイモンドの唇から目が離せなくなった。レイモンドは、顔を赤くしながらも不安そうにダイアナを見つめている。
レイモンドの唇は、つやつやとしていた。薄く、形の良い唇からダイアナは目が離せなくなり、自分の唇よりも柔らかそうだと考えて、日頃余り手入れをしてこなかった我が身を呪った。
そうして、我に返った。
「な、何てことを……!」
「ご、ごめ……」
「恋愛初心者に、そんな難しいことを訊かないでくださいよ!」
「え……、あ……」
ダイアナは反射的に身体を反らし、レイモンドの手が頬から離れた。ダイアナはもう、顔も頭も沸騰しそうなほどに熱く、自分の頬を自分の両手で押さえて俯いた。
頭がくらくらとした。
想像しようとしても想像できないのに、先ほど見たレイモンドの唇が目を閉じても消えてくれなかった。
「ふ、ふふふ……」
レイモンドの笑い声に、ダイアナは恐る恐ると顔を上げた。
「嬉しいな。こんなことを言われても、逃げないんだ」
「逃げ……る?」
そんなことは思いつきもしなかった、とダイアナは呟いた。
「最初、君はここから、僕から、逃げたでしょう?」
「あれは、だって……」
だって、あの時は、殿下が意地悪だと思ったから────。
今だって、意地の悪い質問をされている。だけど、指摘されて、確かに逃げようと思わなかった自分にダイアナは気が付いた。
「嫌じゃない、ってことだよね? 嫌いな男からこんなことを言われたら、身の危険を感じて君は逃げ出すでしょう? 君は足がとても速いもの」
それはそうかな、とダイアナは頷いた。
そんなことを言われたことはないが、見ず知らずの男に言われれば、身の危険を感じるだろう。
「手を握っていても、嫌がらなかった。知り合いの男でも、ずっと手を握られたら気持ち悪く思うだろう?」
それはそうかな、とダイアナは頷いた。
どうしたらそんなことになるのか、想像出来なかったが。
「……異性に、頬を触られたら、嫌、だろう?」
それはそうだと、ダイアナは何度も頷いた。
「でも僕は、嫌じゃなかったんだよね?」
上下に揺らしていた首を、ぴたりと止めた。
ここで頷いたら、何だか大変なことになる気がしたのだ。
だけど、逃げることは許さないというようにレイモンドにじっと見つめられて、ダイアナは観念した。
観念して俯き、素直に、こくりと頷いた。
「ああ……」
レイモンドは感嘆のような、安堵のような、そんな声を出した。
「信じられない……。嬉しくてどうにかなりそうだ。君が僕を好きだなんて」
「え?」
そんなこと言った?
ダイアナは驚き、反射的に顔をあげた。
「触れる、触れられる、ということは、とても本能的な意味があると思うんだ。知らない人に触れられると警戒するし、嫌いな人に触れられるとそこから不快感が込み上げてくるしさ」
それは分かるような気がしたけれども、ダイアナには思い浮かぶ経験はあまりなかった。レイモンドは、力を込めて語るほどに不快な経験を多くしてきたのかと、ダイアナは眉を顰めた。
「好きな人には、触れたいと思うし、触れられても不快には思わない。どきどきするけど、安心するような、しっくりくるような、そんな気持ちになった」
レイモンドは自分の手を見つめ、ダイアナの手に視線を移し、そしてダイアナに微笑んだ。
ダイアナは、つられたように今日ずっと握られていた自分の手を見つめた。
今日、ダイアナは、レイモンドに手を繋がれていても何も思わなった。
不快に、思わなかった。
そう、気が付いた。
「君にとっては、今日、初めて僕は『人間』になったんだから、そりゃあ、すぐには恋愛感情を抱くのは、難しいと思う。でも、小説でもよく『一目惚れ』ってあるくらいだし」
「わたし、殿下に一目惚れなんかしてません」
「……うん、分かってるから」
レイモンドは、自分の胸を押さえて俯いた。
「僕みたいな容姿に、一目惚れするなんて」
「だから、殿下は格好良いって言ってるでしょうっ!」
なんて意固地な人なんだ! と声をあげてから、もしかして自分もこうだったのか? とダイアナは気が付き愕然とした。
「ありがとう」
レイモンドは、困ったように微笑した。
「とにかく、僕が言いたいことは、理性では、君が僕に恋愛感情を持っているかどうかは分からない状態だと思う。でも、本能は、恋愛対象になる人物として、認めてくれていると思うんだ。時間を置けば、僕に恋愛感情を持っていると自覚してくれる筈だ」
レイモンドが言っていることが、正しいかどうかはダイアナには分からなかった。ただ、時間が欲しいと、レイモンドの言葉に飛びついた。時間をくれるのかと、期待した。
しかし。
「ごめん。時間はあげられないんだ。実は、僕に縁談の話が持ち上がっていて」
レイモンドの縁談の相手は、未だにヴァイオレットを敵対視して、ダイアナにも色々とあからさまに嫌味や意地悪をしてくるブランドン侯爵家の令嬢だった。
あいつか!
ダイアナは心の中で、レイモンドをとても気の毒に思い、同情した。
「だから、今日、どうしても君を口説き落としたいと僕は頑張った」
そう言って、レイモンドは椅子から降りて、ダイアナの隣に膝を突いた。
「ダイアナ・ブルーム令嬢、どうか僕の手を取って欲しい。僕は、家柄など関係なく、君と手を繋ぎ、笑いながら歩いていきたい」
ダイアナは戸惑った。
椅子に座ったまま、レイモンドが差し出している掌を、じっと凝視した。
「誓おう。僕は毎日、君に『可愛い』『綺麗だ』『愛している』と言うよ。いつか、君が本当に自分は『可愛い』『綺麗だ』『愛されている』と自信を持って欲しいし、持っても言い続けるよ。僕は兄上を手本として頑張るつもりだからね。覚悟して欲しい」
それはちょっと、いや、かなり怖いかもしれない、とダイアナは怯えた。
「君が自分は『可愛い』『綺麗だ』と思えるように、宝飾品やドレスを贈るつもりだけど、僕はそういうのはよく分からないから、これから頑張って勉強するよ」
いや、わたしもよく分からない、とダイアナは心の中で我が身の不勉強を振り返った。
「君が、義姉上を支えようと、傍に居ようと必死で勉強して頑張ってきたことは聞いている。僕と結婚するということは、今までとは別の形で義姉上を支えることにもなるよ」
待って。誰に聞いたの? と思ったがダイアナは口に出せなかった。
「僕も、君が走り回れる庭を造るつもりだ。それに、僕と結婚すれば、義姉上と本当に義姉妹の関係になれるよ? ね? 僕はお買い得だよ?」
ああ、本当にずるい人だ、とダイアナは思った。
王命で結婚を命じてくれれば、「仕方のないことなんだ」と自分に言い訳をして、「承知しました」と頷くだけで済んだのに。「お買い得だよ?」ってわざわざ軽い口調を使って、ダイアナ自らに選び取らせようとしてくる。
ずるい人だ。
けれども。
レイモンドは王子様であるのに少しも偉ぶらず、ヴァイオレットと『義姉妹』になれるよ、とダイアナを釣ろうとしているところも、差し出している手が微かに震えているところにも、ダイアナは胸の奥がきゅうっとなった。
「君に求婚を断られたら、ブランドン侯爵令嬢が、ヴァイオレット義姉上と義理の姉妹になるんだね……」
「それだけは、許せないっ!」
考えたくもない! と、ダイアナは思わずレイモンドの差し出されている手を叩いた。
きつく叩いたわけではない。ぺちりと軽く叩いた手を、レイモンドはぐっと握りしめて、そのダイアナの手を引いた。
ダイアナはバランスを崩し、レイモンドの肩にもう片方の手を置いた。
「嬉しいっ! 僕の手を取ってくれるんだね!」
「はっ?」
レイモンドの顔を覗き込むような体勢になったダイアナは、近距離で破願するレイモンドの顔を見ることになった。
「ありがとう! 絶対に後悔させないように頑張るよ! ああ、早く皆に知らせないと」
「いや、待って。待ってください」
ダイアナが自分の手を取り返そうとしても、レイモンドは決して離さなかった。傍から見れば静かな、しかし必死な二人の攻防が暫く続いたが、ダイアナは諦めた。
「いや、わざとですよね? わざと、わたしが不快に思うことを言いましたね? 狙いましたね?」
「何のことか分からないな? 僕は、事実しか言ってないし。不快って言われても、君が」
ああ、本当に!
ずるくて、腹黒くて────臆病な人だ。
結局は、ダイアナの返事を聞くのが怖かったのだろう。いやもしかしたら、ダイアナが「仕方なかった」と思える言い訳を作ってくれたのかもしれない。
だがしかし。
「レイモンド殿下」
静かに、ダイアナが初めて名前を呼んだ途端に、レイモンドは目を見開き、口を動かすのを止めた。
肩に置いていた手でレイモンドの頬に触れると、レイモンドはびくりと大きく身体を揺らした。
「わたしは毎日あなたに、『格好良い』『素敵だ』と言います。いつかあなたが本当に自分は『格好良い』し『素敵だ』と自信を持って欲しいし、持っても言い続けます。わたしは、男の人の甘やかし方を、ヴァイオレット様を手本にして勉強したいと思います」
ぽかんとした表情のレイモンドに、ダイアナは微笑んだ。
「真面目で、責任感が強くて、ずるくて腹黒い。子供のように笑い、臆病で優しいあなたを支えたいと思いました」
頬に触れていた手を、ダイアナの手を握るレイモンドの手の上に重ねた。
「この気持ちが、恋愛なのかは分かりません。でも、あなたの隣にあいつ──ブランドン侯爵家の令嬢が立つのかと思ったら、許せないと思いました。ヴィオラ様と義姉妹になることよりも、あなたの隣に立つことにめっちゃくちゃ不快になりました。他の誰でも許せないと思いました。だから」
────この求婚を、お受けします。
ダイアナは椅子からずり落ちるようにしゃがみ、跪くレイモンドと顔の高さを合わせるようにして、笑った。
その表情は、悪戯が成功した子供のような表情にレイモンドには思えて、なんだか、してやられたような気持ちになった。
嬉しかった。
信じられなかった。
どうしても手に入れたくて、心はゆっくりでも良いから、せめて────と、騙し討ちのようだという自覚を持ったまま丸め込もうとした彼女から、こんなにきっぱりと、はっきりとした返事を貰えるとは思ってもいなかったのだ。
今朝までは、自分を人間としても見てくれていなかった人なのに。
ああ、やっぱり、彼女は格好良い。
レイモンドは、ダイアナのこの得意気な笑い方が大好きだった。
目の前が滲んできたのを誤魔化すように、レイモンドは俯いた。
だけど、これだけはどうしても訊きたかった。
「……愛してるって、君は言ってくれないの?」
「……言わせるように、頑張ってください」
そんな恋愛上級者が使うような言葉は、今のダイアナに使えるわけがない。
「ま、まあ、ね? わたしはヴィオラ様に『本当に嫌なら、わたしとディーの権限を使って絶対に断ってあげる』って言われていますからね。頑張ってわたしを惚れさせてくださいね!」
「うん、頑張るよ」
あの二人に敵う筈がない。レイモンドは真面目に頷いた。
ヴァイオレットが、何が何でも二人をくっつける! と考えを変えていることを、今の二人はまだ知る由もなかった。
一応こちらにも。続きは19時半投稿予定です。




