お買い得だよ? 7
レイモンドは幼い頃から賢い子供であった。
琥珀色の瞳を持ち、「流石は名君の色を持つだけはある」と周囲に褒め称えられて育った。
けれども。
「兄のようになろうとは、思ってはいけません」
「お兄さまのように、なってはいけません」
両親や、家庭教師からずっとそう言われてきた。
幼くても、兄が英雄と同じ髪と瞳の色を持つとか、天才だとか、武にも優れているとか、とにかく兄が凄い人だと言う話は、自然と聞こえてきた。
なのに、その凄い兄を目指してはいけないと言われることが不思議だった。兄が凄すぎるので、無理をするなと慰めてくれているのかなとぼんやりと思っていた。
しかし、兄は弟のレイモンドに、挨拶すら話しかけてくれることはなかった。廊下ですれ違う時も、視線が合うことはなかった。こちらから話しかけようとしても、足を止めてくれることもない。ちらりとも目を向けてくれない。
「殿下、レイモンド様が」
嘗て一度だけ、ディルニアス付きのジェフリーがレイモンドの前を通り過ぎたディルニアスに注意を促した。
「レイモンド?」
振り向いたディルニアスの目には、何の感情も浮かんではいなかった。もしかしたら嫌われているのだろうかと考えていたことが恥ずかしくなる程に、何の興味もない、示された先に視線を向けただけ、という表情だった。
兄は、自分に興味はないのだ。
レイモンドは、幼くして理解した。それからは、兄に自分から関わらないように気を付けた。
そのままであれば、レイモンドは国の全てを兄のディルニアスに委ね、静かに、目立たず、ひっそりと生きていくことを選んでいただろう。
だが、ディルニアスが壊れた。
何だかおかしいな、変だなと思っていたが、ヴァイオレットが生まれてからディルニアスは完全に壊れた。
これは誰だ? と思ったが、レイモンドは壊れた兄が、楽しそうで、嬉しそうで、幸福そうだから良いか、と思った。
ただ、今までのディルニアスは淡々と政務を執り行っていたが、ヴァイオレットが生まれてからは、笑顔を貼り付けながら果断に物事を進めていくようになっていた。
父親である王も決して無能ではなかったので、大きな火種は存在していなかったが、ディルニアスと娘を結婚させて、王族に入り込もうと考える家が国内にも国外にも多く存在した。「完璧な王太子」と呼ばれるディルニアスに憧れる年頃の娘が多く、家と娘個人の野望が合致するからこそしつこくディルニアスに取り入ろうとする家が多かった。
ディルニアスは「自分にはヴァイオレットという婚約者がいるのに」と機嫌を悪くし、ヴァイオレットを排除して自分の娘を送り込もうとする家には、遠慮会釈もない報復を行っていった。
そこまでの強硬策を取ろうとする家は多くはないとはいえ、ディルニアスのその苛烈さに反感を覚えて苦言を呈する者にも、ディルニアスは敵意を向けた。
このままでは不味いということで、レイモンドは自らが貴族と王族との間の緩衝材になることにした。いつもにこにこと微笑みを浮かべていれば、周囲が勝手にレイモンドを評価して、愚痴を言って、称賛して、訳知り顔に忠告をして、噂話を置いていくようになった。ディルニアスのように神がかった美貌ではないが、レイモンドも整った容姿であるし第二王子であるので、女性たちも寄ってきた。ディルニアスは難しいがこちらなら、と言う考えが見え見えであった。
レイモンドは、常に笑顔が貼り付いているのが標準の顔となってしまった。
だが、本当に笑えるようなことは何もない。
そんな或る日。
「愛する人が、今日は何時に起きてどんな服装で何をして何時に眠ったのかを知ることは当たり前だろう?」
「殿下はその上、何を食べて、何処のお茶を飲み、どの食器を使ったかまでお調べになりますからね」
「…………気持ち悪」
「ぐふっ……」
心底嫌そうな顔をして呟くライアンを目にして、レイモンドは吹き出してしまった。眉を寄せて、顔を顰めて害虫を見るような目をしているライアンの表情が、レイモンドのツボに嵌ってしまったのだ。
偶々通りかかっただけのレイモンドは、必死で笑いを堪えてその場を後にした。そうして、部屋で一人思い出してげらげらと声を出して笑った。
王族を「害虫を見るような目」で見る者などいない。レイモンドが生まれて初めて見る表情だった。しかも相手は「完璧な王太子」と呼ばれるディルニアスだ。
レイモンドは、ライアンに興味を持つようになった。
ライアンはずけずけと物を言い、本当に嫌そうに文句を言いながらも甲斐甲斐しくディルアスの世話を焼いていた。
「いいなあ、ライアンさん……」
「あげないよ」
何気なく呟いた言葉に、ヴァイオレット以外の人にも物にも執着しないディルニアスがそう返答したので、レイモンドはとても驚いた。そして、歯に衣着せぬ物言いをするライアンとディルニアスの関係をとても羨ましく思った。
自分も学園に行けばそんな関係を築ける人と出会えるだろうかと希望を持ちながら、レイモンドは十五歳になった。学友や婚約者候補を探す為のガーデンパーティーを、面倒くさいと思いながらもレイモンドは少し楽しみにしていた。
だが、結論から言ってしまえば、いつもと同じ、「兄が無理だから弟の方に」という考えが透けて見える人物ばかりだった。
「ライアンの妹のダイアナを紹介したいわ」
ライアンとディルニアスの関係を羨ましく思っていることを知っているヴァイオレットが、そう言って真っ先にダイアナの元へと歩き出した。
ヴァイオレットに言われるがままに場所を移動すると、少し癖毛の焦げ茶色の髪に焦げ茶色の瞳の少女が、他の少女から意地悪をされている場面であった。きょとんとした表情が、段々と怒った顔になっていくその表情を見て、レイモンドは可愛らしい少女だな、と思った。
「嘘ですね」
ダイアナを初めて見た時のレイモンドの感想に、当の本人は冷静に突っ込みを入れた。
「どうして嘘だと思うんだい? 君は僕じゃないのに」
ガゼボに到着をして、改めてお茶をしながらレイモンドはにこにこと訊き返した。
「隣にヴァイオレット様が居て、わたしを可愛いと思える筈がありません!」
何故か自信満々に胸を反らして断言するダイアナであった。
「義姉上は可愛いと言うより、子供の頃から綺麗、だよね」
「確かに……!」
そこで納得するダイアナを、レイモンドは面白いと思った。普通の令嬢なら、自分だって可愛いよりも綺麗と言われたいと複雑になるだろう。
「何て言うのかな。素朴な可愛らしさって感じかな」
「ああ、殿下の周囲は着飾ったきらきらしたご令嬢が多いでしょうしね」
素朴な可愛らしさ、と言われて、つまりは物珍しさだったのだろうとダイアナは理解した。
「その時は、怒っていく君の表情と、義姉上が珍しく腹を立てていることに驚いて、二人の関係が兄とライアンさんみたいで羨ましいな、と思ったんだ」
「……え? そうですか? そう思われましたか? えへへへ……照れますね」
淑女としてどうなのだという笑い声を出しながらも、ダイアナは嬉しそうにはにかみながら微笑んだ。
「その時は、それだけだったんだけど、君という人間は印象に残った」
「まあ、そうですね。殿下が初めて見るタイプでしたでしょうしね」
学園にもまだ行っていない時だから、下位貴族とは殆ど接したことがない時期だろう。今まで薔薇や百合しか見たことのない人間が、白詰草や菫を見れば珍しくて記憶に残るだろう、とダイアナは思った。
「そうだね。初めて見るタイプだったよ。今まで僕の周囲にはいないタイプだった。君は全く僕を見ようとせず、気を引こうともせずに義姉上だけを見ていた」
ダイアナは首を傾げた。あの時のお茶会のことはよく憶えている。何しろ、ヴァイオレットの癒しになれるように生きていこう、と決意したきっかけなのだから。
「……え? あの時、特に殿下は関係なかったですよね?」
レイモンドを見る意味とは? とダイアナは首を傾げた。
「まあ、関係なかったんだけどね。でも、多くの人間は、強引な屁理屈をつけて、『せっかくのご縁』だとか言って、僕に近づいてくるんだよ。兄には近づけないからね」
「はー。そういうものですか」
他人事のように返事をしながら、確かにディルニアスには近づく隙がないな、とダイアナは納得した。そりゃあ、いつもにこにこと笑っているレイモンドの方に寄って行くだろう。
「大変ですね」
しみじみと思ったことを言ったら、レイモンドは目を丸くした後に、声を出して笑った。
「っははは。そうなんだ、凄く気苦労が溜まって大変なんだよ。でも、王子が二人とも貴族の言うことに耳を貸さないってなったら、色々と不味いだろう? だけど、兄は絶対に妥協は出来ない人だし、となると僕しかいないしさ」
はあっ、と溜息を吐くレイモンドに、ダイアナは同情した。
政治的バランスを考えれば、貴族の我儘であっても聞くだけは聞いてご機嫌を取っておかないと不味いということは、ダイアナにもよく分かることであった。
思っていたよりも、気苦労の多い真面目な人なのだな、とダイアナは思った。
「兄よりは篭絡しやすいだろう、という打算が見えるし、媚び諂いや貼り付いた笑顔、見え透いたお世辞に、謎の上から目線の忠告、とかねえ。あわよくば僕を足掛かりにして兄を狙おうとか、分かりやすすぎるんだよねえ」
「王太子殿下を狙う? 何を見ているんですかね? 節穴の目と空っぽの頭しかないんですか?」
「いや、全く。まあ、お陰様で、誰がどういった人物かということは、凄く分かりやすいけどね!」
ああ、なるほど。にこにこと笑い、黙って相手の言うことを聞き、冷静に観察をして相手を判断しているのだろう、とダイアナは容易に想像できてしまった。
自分も今まで観察されていたのだろうか、とそっとレイモンドを窺えば、ダイアナの視線の意味に気が付いているだろうに、レイモンドはにっこりと王子様の笑顔を向けてきた。
「いや、怖い! その笑顔が怖いです! まさか、わたしのことも観察していたって言いませんよね?」
「まあ、そんな日々が続いていてさ」
「否定してくれない!」
「笑顔を貼り付けていると、本気で笑うことが出来なくなってきてさ」
「それは……、まあ、そうでしょうね」
うん、とレイモンドは困ったように微笑んだ。
ああ、この人は、こんな時も笑うのかとダイアナは胸が苦しくなった。
そんなことは止めてしまえばいいのに、とは言えなかった。レイモンドは第二王子で王位継承権を持っていて、ディルニアスには絶対に出来ない技であって、そして政治的には必要なことだということが、ヴァイオレットの為に勉強してきたダイアナには痛い程に理解出来た。
「やっぱり、君はこの必要性を理解できるんだね」
何も言えないダイアナに、レイモンドは微笑んだ。
「でも或る時、君が兄上の庭で走っているのを偶々見かけてさ」
「えっ」
「何かに躓いて転びかけていた」
「うわ」
「のに、そのまま片手を地面に着けて側転をするように見事に着地をして、拳を空に振り上げて得意気に笑っていた」
「あああああああっ!」
憶えはあった。いや、具体的にあの時だ! ということは分からなかったが、そういうことは沢山してきたから心当たりが有りすぎる! とダイアナは叫ぶしかなかった。
敢えて言い訳をするならば、そういう時にはヴァイオレットが尊敬の眼差しで拍手をしてくれたから、得意気になるようになってしまったのだ。
「いや、本当に、君の運動神経は見事だよね」
「……ははは」
ダイアナはもう、力なく笑うしかなかった。
「え? 褒めたのに喜んでくれないの?」
「……淑女への誉め言葉ではないと思いますが?」
「淑女……?」
そこで何故首を傾げる? という思いと、そうだよね! 傾げるよね! という思いで、ダイアナは何も言えなかった。
「僕はその、淑女とはとても言えない、得意気な、自慢気な、満面の笑みで君を好きになったんだ」
目元をうっすらと赤く染めながら、レイモンドはダイアナの目を見つめて告白した。
ダイアナはじっとレイモンドを見つめた。
レイモンドの背後には、やはり色とりどりの小さな花が咲き乱れている。そんな美しい花を背景にして、金色の髪に琥珀の瞳の美しい王子様が、年頃の女が走り回って転びかけた所を側転して無事に着地して拳を突き上げて笑っている場面を見て好きになりました、と告白している。
「…………趣味悪」
思わず呟いたダイアナに、レイモンドは我慢できずにげらげらと笑った。
いつも誤字脱字の報告ありがとうございます!よく言い忘れるので先に言いました!
レイモンドさん、「本気で笑えなくなった」と言ってますが、「吹き出すことはある」ことを言っていません。上手ですね(笑)
ここまで来ました。あと少しです!あと少しで終わります!何でこんなに長くなってるのか自分で分かりません。レイモンドさんが思ったよりもヘタレでしたし、ダイアナさんが元気すぎました。すみません。




