49新世代の活躍
49 新世代の活躍
天文20年1551年 10月 後藤壱岐守
久政が用兵を間違って損害を出している頃、亀松丸直下の軍はせっせと砦を築いていた。国友村は元々六角寄りというのもあった上に六角の方が豊かになっているし商いも盛んで民に優しいという評判が広まっておりすんなりと受け入れられていた。資材の提供も数多くあり、適正な値段で買っている事で更に評判が良くなっている。買った資材は運輸兵に運ばせている。亀松丸様が軽く試験導入している兵站という制度のお陰で補給などはあまり気にせずとも戦い続けられるようになっている。
また、余った米を坂田郡で炊き出しを行う事で民の不安や不満を解消していると小谷城側の農民などもちらほらと逃散してくる。それらを取りまとめるために新たに内政官を派兵してもらい既に六角領地として農地改革が行われている。
砦建設の進捗度としては8割方終わっていた。浅井勢力は小谷城へ引き返し籠城の構えを見せている。何度かちょっかいをかけて来たが全て難なく叩き返した。これによって高島戦線が落ち着き和睦の手続きが進んでいるそうだ。
亀松丸様の命令は和睦が成ったとしても今作っている砦は利用する予定なので建設を続けるとの事だ。あと少し、和睦までに建設が終わればいいが。
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天文20年1551年 11月 六角亀松丸
浅井が降伏する形での和睦が纏まった。領土としては海津までの北西地域と坂田郡の完全領有を認める事、久政が隠居して跡目を浅井夜叉丸賢政に譲る事だ。今回の件をキッカケに賢政を傀儡として浅井を扱き使う予定なのだろう。実際史実でも伊勢への侵攻の際に兵を出させている。
和睦が纏まると同時期に砦も完成したため農兵を使い黒鍬と共に農地改革を進めながら屯田兵のような形で防衛に当たらせている。責任者として目付であった蒲生定秀と蒲生賢秀、青地茂綱の蒲生親子が坂田郡に残っている。
後藤壱岐守と入れ替わるように平井定武が高島の方に出張りそこにいた農兵達と半分に割った黒鍬の残りを率いて高島の内政に精を出している。今回の出兵で小浜から今津まで、今津から大津まで、大津から坂本までのルートを陸海問わずに利用できるようになり一気に銭の収入が増えた。ここで父は更に畳み掛けるつもりで更なる準備をしている。俺としても前々からやりたかった事なので楽しみだ。




