123 改元と若狭鳴動
123改元と若狭鳴動
永禄1年1558年 4月 六角治頼
三好と朝廷が独自にやり取りをして決めた次の元号は永禄となった。切り替わるタイミングは微妙に差があるが永禄という名前は変わらずに決められた。
元号は、国家の節目であり、秩序の象徴。六角が朝廷の要請に応じて永禄を採用したことで、文書・儀礼・外交において六角が“国政の標準”となった。
これに対して公方が何かを騒ぎ出すのは分かっていたが実際に高島では天文を使い続けているのには笑ってしまった。
六角家では朝廷からの要請があったという形で永禄を使い続けている。今の六角は近江 北伊勢と重要な箇所を持っている。そこの文書が他と違うのは問題が大きいとのことで公家達から連盟の署名でもらっていた。
史実のように朽木で兵を起こそうとしても全て六角家配下の兵となっており、朽木も傘下に組み込んでいるため義輝の思うように動けるわけでもなかった。
義輝は、形式上の将軍でありながら、実務も兵も持たぬ存在となっていた。朽木の兵が六角の配下であることは、幕府の空洞化を象徴していた。
それに、過去から何度も三好を倒すために今は耐える時と言い聞かせている甲斐もあった。
「殿、そろそろ船の準備ができまする。乗船して頂けまするか?」
「ああ、分かった。直ぐに行く。」
伴を務める治虎 治光 治益 治政達と観音寺城から出て琵琶湖の港へと向かう。今日は総仕上げとして高島へと向かうのであった。
高島は、若狭制圧の前線基地であり、六角の水陸両用作戦の要。治頼は、政治・軍事・外交の全てを整えた上で、いよいよ実行段階へと踏み出す覚悟を固めていた。
永禄1年1558年 4月 六角治頼
今津の港へ着きそのまま今津城へと入る。
「皆のもの待たせたな。半蔵、現状の報告を頼む。」
評定の間にて配下達を集めて軍議を始める。
今津城の評定の間には、地図と兵糧表が広げられていた。諸将の顔には緊張と期待が入り混じり、治頼の一言を待つ空気が張り詰めていた。
「現状と致しまして、若狭では武田親子の対立が激化しております。息子である武田義統が父親である武田信豊殿を追放しました。現在武田信豊殿を保護してこちらにお連れてしておりまする。」
半蔵が頭を下げながら報告する。重く響き渡る声は影のものにふさわしい雰囲気を作り出している。
信豊が六角の保護下に入ったことで、若狭国内の信豊派が一気に動き始めていた。逸見・粟谷らは、六角の後ろ盾を得たことで、義統への反抗を公然化していた。
「なんと!既にこちらで確保しているのですか!」
諸将のうちの一人が声を上げる。




