滑落停止訓練をしてみよう 1
森を抜けると風が少し強くなってきた。
そろそろ雪山の本番が近いというところに避難小屋があるのは助かる。
足を止めると体が冷えるので、皆に上着を着るよう指示してから話を切り出した。
「では、ここをキャンプ地とする」
「テント泊じゃなくて小屋泊だけどね」
ニッコウキスゲが当たり前じゃんとばかりに突っ込む。
「小屋の中で休憩する前に、明日に備えてちょっとやっておきたいことがある」
「なんだい?」
「滑落停止訓練。あと他にも色々と実地訓練をやっときたいかな」
「滑落停止訓練?」
私の言葉に、みんなが微妙な表情を浮かべた。
ああ、なんかまた変なことをやろうとしているという顔だ。
「けっこう楽しい」
「その言葉のどこに『楽しい』があるの!?」
「大丈夫大丈夫。いってみよう」
私はそう言って、やや強引に皆を誘った。
なんとなく必要そうだというのを察して、皆とりあえずついてきてくれる。
山小屋から少し歩いたあたりに適度にゆるい斜面があり、そこで私は皆にピッケルを握らせた。
「滑落停止訓練っていうと大仰に聞こえるけど、ピッケルの使い方かな」
「なんだ。てっきり斜面に突き落とされるかと思ったわ」
カピバラが、ほっとしたように言った。
「え? やるけど?」
「え?」
「まあ突き落としはしないけど、安全なところでおしりから滑るくらいのことはやってもらう」
と言って、私はザックに固定したピッケルを外して皆に見せる。
「これは杖として使う用途が一つ。そしてもう一つの用途は、滑っちゃったときに雪に突き刺してブレーキを掛けるために使う」
ピッケルとは、雪山で使われるつるはしのことだ。
これで何かを掘り出したりするわけではなく、雪に突き刺して安全に歩くために使うものだ。
とはいえ今回持ってきているものは、普通に採掘や工事で使われるつるはしを取り回しが利くようにカスタマイズしたものだが。
「ピッケルを持つときは、つるはしとして土を掘るのとは違って頭の方を持つ。このまま石突きのところで雪面を突いて杖やポールみたいに使う。このときピッケルは落としても無くさないよう、紐で体のどこかに繋いでおくといい」
私は紐、というかピッケルリーシュをたすき掛けにしてつける派だ。
手首につける人もいるが左右持ち替えるのが面倒でこうしている。
だが「ピッケルリーシュがあると転倒時に刃が体に突き刺さったり首にピッケルリーシュが絡まる恐れがあるからない方がいい」という人も少なくない。迷ってる人は色んな雪山講習にいって指導を受けたり、指導者に質問して自分の納得できる方法を模索するといいと思う。
「持ち歩くときは刃の先端は常に雪に近い方にする。登り坂なら先端が前。下り坂なら先端は後ろ。転んだときに雪の斜面をずるずる滑ったり落ちたりしないよう、雪面にピッケルの刃が突き刺さるようにする」
これも「登りでも下りでも刃先は常に後ろ側の方が持ち替えなくて済む」派の人も居て、それはそれで個人的には納得できる。ただ私としては癖として「刃先は常に雪面に近い方にしておく」になっているので変えるつもりはあんまりない。
あくまで私見だが、優劣をつけるのが難しい問題においてはどっちの良し悪しを論じるよりも、どちらかに決めて体に叩き込んでおくのが大事と思う。特にこういうイザというときこそ必要な技術は、反射的に体が動くのがベストだからだ。
「つまるところ、なんかあったときにピッケルを使える状態にしておくことと、手放さないことが大事。……で、次は滑っちゃったときの使い方。ちょっと見てて」
私が見下ろした斜面は、ちょうど山の風が当たるところで雪面が適度に硬い。
ガチガチに硬い氷ではないがパウダースノーよりは踏みごたえがある。
「それっ」
私は斜面に腰を下ろし、そのまま滑り台から落ちるように滑った。
途中、ピッケルを握ったまま途中でくるっと身を捻り、体の重さを乗せるようにしてピッケルの先端を雪面に突き刺す。
雪の斜面を滑っていた体がピッケルによってスピードが落ち、やがて完全に止まった。
「こんな感じ」
「けっこう下まで行くな……大丈夫か?」
ツキノワの言葉には、「やりたくない」という感情が隠されていない。
「ここの斜度としては三十度くらいあるっぽいからね。でも下に行けば緩やかになるし、森もあるからどこまでも滑りっぱなしにはならない。いけるいける」
「俺、山で転んだり滑ったりはちょっとトラウマあるんだよな」
「そうなの?」
ちょっと意外だ。
トレイルランしたときもそういう様子はなかったのだが。
「大鬼山から逃げ帰るときに滑って骨を折った。麓に降りてから折れたことに気付いて動けなくてなぁ……。普通の山道ならともかく、斜度が急すぎる下り坂ってちょっと苦手なんだよ」
しみじみ語るが、ゴブリンに追われて駆け下りたのだから怪我もするだろう。
むしろその経験をしても今なお冒険者をやっているツキノワが凄い。
「大丈夫。雪山は色々と大変だけどいいこともある」
「景色が良いとか言うなよ?」
「景色は最高。でもそれはそれとして、転倒時の負傷とか膝とかに優しい」
岩や石がゴロゴロした不整地を歩くよりも、雪の上を歩く方が足にかかる衝撃は少ない。夏山に比べて寒さや雪崩などのリスクがあり、荷物の重量も増えるので雪山は基本的に夏山に慣れてから入門するものではある。だが、骨や関節に掛かる負荷という観点で考えると、雪上の方がその負荷が小さい。
長年の登山の果てに膝に爆弾を抱える登山者など、夏山より冬山を好んで登ったりすることもある。
「あー……疲れるし熱は奪われるしで体力は持っていかれるが、体に響くダメージは少ねえってことか」
ツキノワがなるほどと頷く。
「ただ滑落はやっぱり怖いし訓練は必要」
「おう。とりあえずやるだけやってみるか」
「まず普通に滑る前に、滑らない状態で姿勢の確認だけやってみよう。順番に寝転んで」
「仕方ないわねぇ」
カピバラはそんなこと言いながらもちょっと楽しそうだ。
尻餅ついたままという不格好なスタイルであっても、雪を滑るというのは楽しい。
巡礼が終わったらスキーもやってみようかな。
「そうそう、そんな感じ。あ、足は空に上げるようにして膝を曲げてね。足をピンと伸ばしてると、爪先を中心にして体がぐるっと回転してヤバいことになる」
◆
滑落停止訓練、途中からやたら楽しくなってしまった。
聖地であるためか雪の状態が凄くいい。滑り放題だ。
「そりでも持ってくれば良かったんじゃないかしら」
「うん。これはここまで登ってきた人だけの楽しみ」
カピバラが汗を拭いながらそんなことを言った。
私もつい笑って頷いた。
だが、残念なお知らせをしなければならない。
「みんな聞いてほしい。何度か滑ってもらったけど、滑落停止訓練でもっとも大事なことがある」
私の言葉に、三人とも緊張が走った。
「滑落しないこと。今回覚えた技術は、使わないのが一番」
「ここまで教えておいてその結論はどうなのよ!」
カピバラがちょっと怒った。
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