第27話 ハルさんの人生
緊張してきた。何しろ、おばあ様の顔がやけに真剣だから。
「ハルさんのことは、どのくらい知っているのかしら?」
「えっと。150年前に、龍神の嫁になることを嫌がって、笹木三郎さんと逃げたってことだけ…」
「そうですか…」
「おばあ様は詳しく知っているんですか?」
ドキドキしながら聞いてみた。
「詳しくと言っても、お姑さんに聞いたくらいで。あとは、ハルさんが日記のように記していたものが残っているんです。もう、黄ばんじゃって、ところどころ、破けてなくなっている個所もあるんだけどね」
「日記?」
「150年も経っているから、言い伝えられているものは、どこか間違ったりするでしょう?でも、その日記は本人が記したものだから…とはいえ、信じがたいことも書いてあったから、どこまで本当かどうか」
「信じがたいこと?」
「……どこから話しましょうか。その日記はめくっただけでも崩れ落ちそうだから、蔵に保管したままなんですよ」
「はい…」
「神門家では、龍神のことはみんな信じているのかしら」
「いいえ。私が龍神の許嫁だってことも、みんな半信半疑です。でも、なんとか祠に行くことを避け、龍神の嫁にならないで済む方法を兄や母が考えています」
はっ!彩音ちゃんを犠牲にしてっていう話は絶対にしないようにしなくっちゃ。そんなことを母や兄が考えているなんて知ったら、おばあ様は怒りだすよね。神門家と笹木家が離縁になっちゃうかもしれない。
「嫁にならない方法なんていうのはあるの?」
「え?」
「ハルさんみたいに逃げるとかかしら?」
「……いえ、えっと。それがまだ、わからないままで…。でも、ひいおばあちゃんは運命に逆らわず、従ってみろって言っています」
「おおおば様が?」
「おおおば様?!」
「あ、そう私は昔から言っているんですよ…。でも、従うってことは、祝言を挙げるってことね」
「はい」
「………。そうなのね。それは辛いわねえ、あなたも」
「…は、はい」
う…。泣きそう。そんなふうに同情されて、なんて答えたらいいの?
いや、同情されに来たんじゃない。私は聞きに来たんだよ。ハルさんが逃げてからどんな人生を送ったのか。幸せだったのかどうか。
「それで、聞きに来たんです。逃げてからのハルさんの一生がどうなったのか」
私は顔を上げ、おばあ様に一気にそう言い切った。
「そう。そうね、気になるわよねえ」
ふうっておばあ様はために気をつき、
「ちゃんと話しましょうね。誤魔化したり嘘をついてもあなたのためにはならないのだから」
と、また真剣な目で私を見た。
ハルさんは、家族にも一族にも龍神の嫁になる娘だからと、すごく大事に育てられた。ほとんど神社の敷地から出ることもなく、ハルさんも龍神の嫁になるものだと覚悟をしていたらしい。
ハルさんの唯一の友達は、敷地内にひょっこりやってくる、野生の動物だけだった。鳥だったり、タヌキだったり、狐だったり。ハルさんは動物たちと会話でもできるかのように、動物たちを可愛がり、動物もハルさんに懐いていた。
ハルさんが17歳の時、若い神主見習いがやってきた。それが笹木三郎だ。笹木三郎は、一目見た時から美しいハルさんに惹かれたらしい。でも、ハルさんは自分は龍神の嫁になるのだからと、特に笹木三郎に対して何も思いは寄せていなかった。最初から諦めていたのだ。
ところが、18の誕生日、境内でハルさんは恐ろしい大きな龍を目撃してしまう。その姿に怯え、部屋に閉じこもったまま出てこなくなってしまうのだ。
家族は心配した。その龍はハルが嫁ぐ龍なのだということも、家族は薄々わかっていた。家族が心配したのは、ちゃんとハルさんが嫁に行くかということだった。
18歳になって、3か月が過ぎた。ハルさんは一歩も部屋から出てこなかった。ご飯は廊下の前に置いておくと、そっとハルさんは食べて、また廊下にお膳を出しているという、そんな毎日だったらしい。
そんなある日、このままでは龍神の怒りをかってしまうと不安になった一族が、無理やりハルさんを部屋から出そうとした。それを見てさすがに両親が止めに入り、娘を説得するから待ってほしいと一族にそう申し出た。
その晩、両親が説得し、ハルさんは祠に行くと二人に告げた。だが、実は食事を運んだりしていた笹木三郎がハルさんに逃げようと言い出し、二人はみんなが寝静まった頃、そっと神社を抜け出したのだ。
ハルさんは体力が落ちていた。だが、三郎が背中に負ぶって、なんとかみんなに気づかれぬ間に、山を降りることができた。
二人は、なるたけ人の目を避け、行けるところまで逃げた。そして、もう三郎の足も動けないほどになった頃、その近くにあった寺に逃げ込んだ。
ハルが逃げたことを知った一族は手分けして探したが、見つからなかった。二人が逃げ込んだ寺は、人里離れた山深いところだったから、まさか、そんなところに逃げたとは誰も予想できなかった。みんな、山のふもとの人家や、宿を探していたから。
「その寺は、何かの事情で逃げてきたものを匿ってくれるようなところだったらしい」
おばあ様はそう話すと、ふうっと一息ついた。
「そこで、衰弱していたハルさんは体力を取り戻した。三郎は寺の近くの畑を手伝ったりして、半年ほどはそこにいた。ハルさんが体力を取り戻し、二人はさらに遠くへと逃げたのよ」
「逃げないとならなかったんですか?」
「住職が、二人を探しているものがいるようだと教えてくれたようね。そして、山を降り、人里を避け、また山を登り、それを繰り返し、やっとこの地に二人はやってきた」
「ここに?」
「今では電車で1時間。だけど、歩いたら、かなりの距離があるでしょう?それも、今は民家が立ち並んでいるけれど、150年前はなんにもない山の中だった。小さな部落があって少しの畑があって、その周りは鬱蒼とした森。そんな中でひっそりと身を隠し、二人は畑の一部をもらい受け、なんとか生活をしていたらしいわ」
「大変だったんでしょうね。ハルさんも三郎さんも、畑仕事なんかしたことなかっただろうし」
「そうね。それも、ハルさんはあまり丈夫じゃなかったから」
「そうなんですね…」
「子どもを授かったけれど、最初の子は死産。二人目はなんとか生まれてきたけれど、病気がち。3人目は赤子の時に病気で死んでしまって、なんとか4人目は元気に生まれたけれど、ハルさんのほうが床に伏せてしまった」
「病気になったんですか?」
「体はもともと丈夫じゃなかったけれど、心の病もあってね」
「心の?」
おばあ様はハルさんの若い頃からの不思議な体験を話してくれた。日記に書いてあったらしいが、とにかくそれは信じがたいことばかりだということだった。
まず、龍の姿を見たのも、ハルさんだけだったらしいし、ハルさんはそれまでも、みんなには見えないものが見えていたらしい。小さな妖精のようなものや、小人や、犬のような姿をしたものは、多分狛犬だったのではないかと日記には書かれていたとか。
「狛犬?」
私も子どもの頃は狛犬が見えていたらしいけど、ハルさんもなんだ。そうか。ハルさんもそういう力があったんだ。
「神社にいる頃は、悪さをされることはなかったみたいだけど、神社から逃げてからは、山や森でいろんなよからぬものに追いかけられたらしいわ。寺にいる時は護られていたようだけど、そこから逃げ出してからは、どうやら憑りつかれることもあったようだわね」
「憑りつかれる?」
「死産になった子も、病気がちな子も、よからぬもののしわざだったと書いてあった」
「それって、悪霊とか、妖とかですか?」
「そう。妖ね。どうやらハルさんは龍神の嫁になるという生まれだから、悪い妖が好む気を持っていたようね」
ああ、琥珀もそんなことを言っていたっけ。
「だから、三郎や周りの人には見えないものが見えて、それらに憑りつかれることもあったし、気を奪われることもあって、どんどん衰弱していった。他の人には見えない怖いものが年中見えて、周りからは気がふれていると思われていた。日記には決して自分の気はふれてなどいないと書いてあったし、唯一三郎だけは、それを信じてくれたらしいけどね」
「でも、床にふせてしまった…」
「それから3年は苦しみながらも永らえて、最後にはほとんど筆を持つ力も尽きたのか、日記の字は読めないほどに震えていてね、日記の最後は三郎が記したんでしょうね、ハル、永遠に眠ると日にちが書いてあったわ」
「……それで、子どもは?」
「これは言い伝えられた話だけど、二人のうち上の子は10にならないうちに病気でなくなり、下の子はなんとか元気に結婚までして子どももできた。三郎は孫を見る前に亡くなったようだけど、その後はここまで子孫が残ったんですよ」
「……」
「ただ、笹木家にはずっと男の子しか生まれなかった。そして、ようやく彩音が生まれた」
「あの、彩音ちゃんが生まれた時って、鈴の音聞こえましたか?」
「鈴の音?」
「はい」
「鈴の音なのかしらねえ。いろんな音が聞こえたのは確か…」
「え?」
「彩音が生まれる時、私も産院に付き添ったんだけど、産声と一緒に、不思議な音と光が見えてね。それは彩音のお母さんも同時に聞いたらしくて。それで、名前を彩音とつけたんですよ」
「音と光?」
ドキ。それもまた、龍神の嫁になる祝福の音だったりするの?
「ねえ、美鈴さん」
「は、はい」
「あなたも、不思議なものが見えたり聞こえたりしているの?」
「私ですか?い、いいえ」
今は琥珀がそういう力を抑えてくれているから、見えていないんだけど。
「そう、そうなの…」
おばあ様は、そう言ったあとに、暗い表情をした。
「あの?なんでですか?」
「あ、いいえ。ハルさんみたいな力があるのかと思ったから。でも、そんな力がないなら、そういう力も昔の人よりどんどん弱まっているのかもね?だったら、神社から出ても…」
そこまで言うと、おばあ様は黙り込んでしまった。
「逃げても、大丈夫ってことですか?」
「逃げたいの?」
また真剣な目でおばあ様は私を見た。
「い、いいえ。聞いただけです。私もどうしたらいいか、わからなくって」
「…そう。そうよね。第一、今の時代に龍神の嫁だの言われてもね?」
「はい」
「私もそう思いますよ。龍の姿だって、本当は幻覚が見えていただけかもしれない。怖いとそんなものを勝手に脳が創り出しちゃうかもしれないでしょう?不思議なものが見える力があるのではなく、本当に心の病が原因かもしれないし」
「…はい」
「話はここまで。聞きたいことは他にもありますか?」
「いいえ。ありがとうございました」
「部屋で休んで。そろそろしたら、お昼ご飯にしましょうね。お昼はおそばでいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、出来たら呼びに行くから、部屋で休んでいて」
「はい」
私は部屋を出て、客間に戻った。そして、おばあ様から聞いた話を、もう一回思い返してみた。
そして、怖くなった。
私も今は、龍神の加護がある。でも、逃げたらもう加護はなくなって、悪い妖に喰われてしまう可能性もあるんだ。
病気になり、変なものに憑りつかれたハルさん。ずっと床に伏せていただけでなく、子どももその悪い何かにやられてしまった。そんな、苦しくて辛い思いをしていたんだ。好きな人と逃げてハッピーエンドとか、勝手に思っていたけれど、そんなことなかった。
ひいおばあちゃんが言っていたことを思い出す。ハルさんが逃げて幸せだったかわからないと。
本当だよ。だいたい、ハルさんが笹木三郎を好きだったかもわからない。ただ、龍神の嫁になることを嫌がって、一緒に逃げてくれる人ならだれでも良かったのかもしれない。
子どもができたって、死んじゃったり病気になったりしたんだ。それも誰も知らない土地で、慣れないことをして、病気になって、どれだけ不安で心細かったかもわからない。
今は昔と違うと言うけれど、私も悪霊や妖が見えたとしたら、精神がやられる可能性はある。それに、何よりもわかっていることがある。龍神の嫁にならない私のことは、もう琥珀は護ってくれないのだ。今は、いつだって、「俺を呼べ」と言ってくれるけれど、もう呼んでも来てくれることはないのだ。
自分でも気づかないうちに涙が溢れていた。ひいおばあちゃん、どうしたらいい?きっと、運命に従えって言うだけかな。琥珀に言ったとしても、嫁になるのが当然だと言うだけだよね。
どうしたらいいの?わからないよ。




