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十一月に入り、やや気温も下がり、秋の終わりを感じさせる季節。
遠くにバス停が見える。そこにはあまねの姿も。今日はどっちだろう。
近付くに連れ、哀愁を帯びた微笑。最近ではひと目見ただけでどっちなのか、分かるようになっていた。
家を出た時にはまだ雨は降っていなかったが、そこで小雨がぱらついて来た。直陽はリュックのドリンクホルダーのところに差している折りたたみ傘を器用に抜いて差した。空気もしっとりしていて、ちょっと冷えてくる。
「おはよう、あまねさん」
「おはよう、直陽くん。今日は寒いね」
あまねはニコッと笑う。直陽も笑い返す。それほど長い時間を一緒に過ごしたわけでもないが、ずっと昔から一緒にいたような錯覚に陥ることがある。
本当にそうであったら、もっと昔からあまねと知り合いであったなら、もっと彼女を理解することができていたのだろうか、と少し寂しい気持ちになることもある。
バスに乗ると、あまねが先に座り、何も言わずとも直陽がその隣に座る。
そこで気付く。何だろう、この違和感は。
ちらっとあまねを見る。あまねも直陽を見ている。
「直陽くんってさ、英語は得意?この前少しだけ――夏目漱石の話の時、英語の話が出たけど」
「どうだろう。苦手ではないと思う。受験でも長文読解とか文法は嫌いじゃなかった」
「じゃあさ、発音は?」
違和感の正体に気付く。
これは天真爛漫のあまねだ。さっきの直感は勘違いだったらしい。
「うーん、正直かなり感覚」
「だよね!この前ね、一念発起して、発音だけの本を買ったの」
「だけの?」
「だけの!」
やはりこのあまねは元気で楽しそうだ。
「英語にもふりがながあったらいいと思わない?」
「発音記号のこと?」
「そうそう。あれを一個一個練習したの、その本で。そしたらね、自分の口から、アメリカ人が出てきたの」
直陽はたまらず笑ってしまった。
「これはね、笑い事じゃないの。革命だよ、革命!」
「大袈裟だなあ」
「例えば、『硬い』のhardと、『聞く』のhearの過去形heardなんだけど――」
バスのエンジン音が高鳴り、あまねの声がほとんど聞こえなくなる。
あまねは直陽に顔を近づける。
「大きめに口を開けて、『あー』って言ってみて」
「あー」言われるままに真似をする。
「うんうん。そして、そのまま、舌を上に――」
「下を上に?」
あまねは小さく笑って続ける。
「舌。ベロね。ベロをひょいって上げてみて。ただし、上にはくっつけないでね。巻く感じで」
「アーr⋯あ」
「ね!」
「これは確かにアメリカ人だ」
直陽が素直に驚嘆すると、あまねは、
「だよね!」
と言って誇らしげな顔をした。
「あまねさん、話が上手だね。次が気になったよ」
「ふふ、ありがとう。じゃあ、次は、口を一・二センチだけ開けて、何か適当な母音を出して。『あ』とも『お』とも取れないような」
「ぁぉー」
あまねによく聞こえるよに言おうとすると、自然と距離が近くなる。
「そんな感じ。それでまたベロをひょいって上げてみて」
「ぁぉr⋯これでいいのかな」
「そうそう、その最初の音を出す時、少し唇とベロに力を入れて、ちょっとだけアヒル口になるようにしてみて。それからベロをひょい」
「ぁぉーr⋯こん感じ?」
「そうそう!直陽くん上手だね」
思わず笑顔になってしまう。
「あまねさん、褒めるの上手だね。つい嬉しくなっちゃうよ」
「へへへ」それを聞いてあまねも嬉しそうな顔をする。「そして、頭に『h』、最後に『d』を付けると、『硬い』のハード、『聞いた』のハードになるよ」
直陽は何度か小さな声で練習をしてみる。
「じゃあ、ちょっと聞いてみて」
と言って、あまねに近付いて発音してみる。
するとあまねは本当に驚いた顔をして、
「アメリカ人がいるよ!」
と言って、親指を立てた。
なるほど。今日はまた、あまねさんに新しい世界を見せてもらう番だったわけか。
**次回予告(4-10)**
「デートしよう」と言ったあまね。その先で、あまねは直腸にあることを伝える。
第四章 「秋」編 完結




