3-25
「今日のバス、あまねさんの隣に座ってもいいかな?」
「うん、いいけど」
バス停で隣同士に立ち、バスが来るのを待つ。二人は無言だ。
やがてバスがやってくる。ちろん実際に見えるわけではないのだが、ここまで演じてきた二人には、その姿がイメージできた。
大型車特有のエンジン音を立てながら近付いてくる。停車しやすいように、バス停はその付近だけ歩道がやや削られて造られており、そこに向かって勢いよくバスが入ってくる。
二人はバスに乗る。
バス座席に見立てた椅子にまた隣同士に座る。
確かあの時は、前に並んでいた直陽の方が奥の方に座った。そして、あまねは「私、先に行くね」と言って、逃げるように降りていった。それを思い出すだけで、胸が締め付けられる思いがする。
あの時のように、直陽は隣に座るあまねに顔を向けた。あまねは俯いたままで、視線を合わせようとしない。まさにあの時の姿を再現している。
そうだった。この時に、あまねによって、自分は変わることができたと気付いたのだった。その時の苦しみがフラッシュバックしそうになる。
確かここでバスは一旦信号で停まる。エンジンがストップし、静寂が訪れたのだ。いたたまれなくなって、また直陽は前を向く。
「直陽くん」
え?
「直陽くん」
こんなセリフはなかったはずだ。
恐る恐るあまねの方を見ると、あの時とは違って、今は直陽の顔を、目を、じっと見つめている。
「私は今、過去を変える。ずっと後悔してたの」
「え?何を言って――」
「あのね⋯⋯私」
バン!
突然劇場全体が明るくなり、客席の向こう、入口に付近に警備員がいるのが見えた。
「誰かいるんですか?!」
「直陽くん、こっち!」
そう言ってあまねは直陽の手を摑み、ステージの下手に向かって走り出した。
そこからはどこをどう通ったのか覚えていない。ほとんど真っ暗だったし、ステージ裏の道なんて通ったこともない。
どこだか分からないが、階段下の小さなスペースに二人しゃがんで隠れた。
「なんで逃げるの?鍵あいてたから、入ってもいいんじゃないの?」
「まあそうなんだけど、なんか反射的に、ね」
「シッ!」直陽が身ぶりで廊下の方を指し示す。いつの間にか、直陽も隠れることを受け入れていた。
光がチラチラしているのが見える。警備員が懐中電灯を持ちながら巡回しているのだろう。
「なんかさ、悪いことしてるみたいで、ドキドキするね」あまねがニヤッと笑う。
「悪いことなのか、悪いことしてるみたいなのか」
「してるみたい、の方。ほら私、真面目だから」
「真面目な人はこんなことしないぞ」
「じゃあ直陽くんも真面目じゃないね」
と言ってふふっと笑う。
「そうなるね」
以前の自分なら、こんなこと思いもしなかっただろう。今はどこか後ろめたさも覚えながらも、心が躍っている。
「鍵、閉められちゃうかもしれないね」
「急ごうか」
なぜ見つかってはいけないのか、なんて野暮なことはお互いもう言わなかった。懐中電灯のチラチラする光を避けて物陰に隠れながら、何となく通路を進む。
「手」
あまねがぼそっと呟く。
直陽は自分の左手を見た。ずっとあまねと手をつないでいたことに気付く。
「あ、ご、ごめん!」
直陽が慌てて離そうとすると、
「ううん。つないでて。迷子になっちゃうから」
と言って、少し俯いた。でもこの俯きは、夏のバスとは違った。それは直陽にも分かった。「過去を変える」あの言葉の続きが気になったが今は訊くべき時じゃない気がした。
やがて見たことがある場所に出た。間違いない。最初にプロジェクターを使った会議室の前だった。
*
旅館側へ戻り、自販機の前まで戻ってきた。
あまねが、
「喉渇いたね。何か飲む?」
と訊く。
直陽は、
「おごってくれるの?」と冗談で言ったが、
「いいよ!探検付き合ってもらっちゃったし。楽しかったし」
「あ、いや、冗談だったんだけど」
直陽が慌てると、
「いいからいいから」となおも勧めてくるので、緑茶を指差した。
「ありがとう」
「一応、お姉さんだしね!――あれ?」
「あ、気付いた?夏休み中に俺も二十歳になった」
それを聞いてあまねは少し残念そうな顔をする。
「じゃあ、今度お祝いしなくちゃね。ちょっと遅くなっちゃったけど」
「うん。ありがとう」
「うん、必ずね」と言って、あまねは親指を立てる。
と、その時、近付いてくる足音が聞こえた。
現れたのは汐里だった。
「話に花を咲かせるのもいいけど、心配かけさせないでよね。どこ行ってたの?」
汐里が少しムッとしてあまねに言った。
「も、もしかして、探してた?」
あまねが肩をすくめる。
「外はあんな雨だし、どこ探してもいないから心配してたの」
「す、すいません」直陽も謝る。
「まあいいや。とにかく明日も早いし、そろそろ戻ってね」
「うん、ごめん」
そう言ってあまねは直陽に手を振り、おやすみと言った。
そして、汐里が前を向いたタイミングで直陽に向き直り、人差し指を口元に当てて見せた。
口元は「ナイショだよ」と言っているように見えた。
**次回予告(3-26)**
最終日の品評会。直陽の成長に、皆驚きを隠せない。
第三章 「夏合宿」編 完結




