93 繋がる先に待つ者
そこは不思議な島だった。
いつのまにか気絶していたらしいリカルドが爽やかな風を感じて目を覚ますと、柔らかな下草が生える地面に横たわっていた。あれだけの衝撃だったにもかかわらず、細々とついていた傷が全て塞がっており、じくじくと痛んでいた右目はもう痛くもない。視力こそ戻らなかったが、満身創痍の状態から奇跡のように回復した身体には今までにないくらいに魔力が溢れている。
島の周りには虹色の海がたゆたい、空には太陽はないが柔らかな光が注いでいた。
「ここは……『涯』か? 」
光を放っているのは太陽ではなく、一本の巨大な樹木だ。
神々しいほど虹色に輝く樹の幹はまるで宝石のようで、風に揺れる葉はシャラシャラと心地よい音を奏でている。舞い落ちてきた葉はキラキラと輝く光の粒となって大地に降り注ぎ、おおよそ現実のものとは思えないほど、幻想的で美しい風景だった。
文献にあった挿絵よりもさらに夢のようで、圧倒されたリカルドはフラフラと導かれるようにして大樹の根元に腰を落とした。寄りかかった樹肌は仄かに温かく、木肌に耳をくっつけると、中を水が流れているような音が聞こえる。常に感じていた空腹や喉の渇きは一切なくなっており、まるで大きな揺かごの中で守られているような感覚に、世界の涯の古代樹は本当にあったのだと実感した。
「華子、華子……ようやくたどり着き、ましたぞ」
旅に出てから張り詰めさせていた気を一気に緩めたリカルドは、華子を想って涙する。己の腕の中から突然失われてしまった温もりを、あの笑顔を取り戻すことができるのであれば、何でもする、何でもできる。
そもそも、世界の涯で華子と出逢えるという確証はなかった。自分から異世界に行く術がないので、神であれば願いを叶えてくれるかもしれない、という一縷の望みだったのだ。コンパネーロ・デル・アルマを造ったのが神であるならば、魂の安寧を得ることができないでいるリカルドを救ってくれるのではないか、という儚い希望。神が地上より去ってから一千七百年の間に、神の威光は薄れて、伝承は廃れ、最早書物の中の出来事と化してしまった夢物語に、リカルドは全てを賭けたのだ。
リカルドは祈るように目を瞑り、全神経全魔力を使って華子を呼び続ける。
「神よ……どうか、もう一度、私の魂の伴侶に逢わせてくれまいか。貴方が何のために魂を二つに分けたのか、矮小な人の身である俺には分かりようもない。だが、何よりも大切なんだ……逢いたい、抱き締めたい、残されたときを共に過ごしたい」
命ある限り、きっと自分は追い求めるのだろう。全てが神の手の内にあるとしても ――
「華子を、愛しているんだ」
どこに行っていたのか、気がつけば寄り添っていたヴィクトルの鼻頭を撫でてやりながら、リカルドは静かに華子を想い、そしてそのときを待った。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それは何の前触れもなく訪れた。
華子の指先から垂れている虹色の魔力の糸もあと十数本になってしまったある日のこと。初めは聞こえていたはずのリカルドの声が途絶えて久しい頃。
急に一本の糸が強烈な光を放ち、部屋中を虹色に染めた。
「何が起こった?! 」
「わからない……わかりません、でも、これは……」
光を放つ糸がだんだんと太くなってやがて紐になり、縄になり、ついには綱のように太い魔力が華子と何かを繋いでいく。その綱がオレンジ色に染まり始めたところで華子は大きく叫んだ。
「リカルド様、今行きます! ええ、ええ、私は無事です!」
「リカルドなのか?! 」
「はい、リカルド様です。ああ、やっと逢えます、やっと逢えます」
ナートラヤルガが歓喜に震える華子の手から溢れ出した縁の魔力に触れると、確かに華子を呼ぶ男の声を聞いた。泣き出しそうにも聞こえるその声がリカルドのものなのだろう。
それはまさに奇跡だった。いくら縁の糸といえど、幾つあるかすら分からない世界の中から、たった一人と繋がる確率など、計算するのが恐ろしいくらいだ。これぞ神の所業なのか、とナートラヤルガは考え……それをすぐに否定した。これは、華子とリカルドがお互いを想う心が起こした奇跡であり、それ以上でもそれ以下でもない。
「待っていてくださいリカルド様、すぐにそっちに行きます! 」
滂沱しながら歓喜に満ちた声でリカルドを呼ぶ華子は、導かれるようにして窓から外へと飛び出していく。いつもなら戻れなくなるからと引き留めていたナートラヤルガも、もう止めなかった。
「ナートラヤルガさん……お世話になりました。貴方は」
「いや、ここでお別れだ」
出て行く直前、華子は振り返ってナートラヤルガに手を伸ばすも、ナートラヤルガは首を横に振り別れを告げる。華子が何故、と口に出すより早く、ナートラヤルガは困ったような顔になり、続ける。
「私は世界から弾かれているのでね」
「そんなの、分からないじゃありませんか」
「ありがとう、お前は優しい子だ。私は行かぬよ。もし、伝えてくれるならば、あの子たちに……いや、早く行きなさい。ここは不安定で、何があってもおかしくはない」
ナートラヤルガは閉口し、それから縁の糸の先を指差した。
「ありがとう。さようなら、ナートラヤルガさん」
「ああ、さよなら……華子」
虹色に輝く長い髪をなびかせ、華子はナートラヤルガの元を去っていく。真っ暗な狭間を虹色に染めながら遠く旅立っていく華子に、ナートラヤルガはこれで漸く永き眠りにつける、と微笑んだ。
華子は歓喜に震えていた。
リカルドが呼んでいる、それもすぐ近くで。
華子は縁の魔力に導かれるがままに長い間をすごした部屋を出て、リカルドへと繋がる不可視の道を飛んでいた。今までの不調が嘘のように身体が軽く、魔力が満ち溢れているのが分かる。縁の糸から伝わる、華子を守るように包み込んでいるリカルドの魔力がとても温かく心地よい。
「もう少しで着きます、ああ、目の前に世界が! 」
胸元のヴィクトルの鱗を通して響いてくるリカルドの声がどうにも懐かしくて、華子は泣きながら笑った。眼前に迫る世界は今までのものとは違い、はっきりとした風景が見えている。どこだろう、知らない場所だがとても美しい。眩しさに目を細めた華子が見たものは、神々しくも輝いていた。
それは巨大な一本の樹木だった。
虹色に輝くオパールのような幹から天に向かって幾重にも枝葉を伸ばしており、シャラシャラと鳴る不思議な葉は水晶のように透き通り涼しげな音を奏でている。世界の狭間でナートラヤルガの知識に触れた華子には、これが光溢れる大地に根を下ろす、世界の涯の古代樹だとはっきりと分かった。
そしてその宝石のような古代樹の根元には ―― 太く畝るような根の上に、赤銅色のドラゴンが四枚羽を広げており、その横には華子が求めていた人物が待っていた。
記憶よりも精悍な顔つきになり、深藍色の旅装束に身を包んだリカルドは、全身をオレンジ色に、右目を虹色に輝かせて華子に向かって大きく腕を広げる。
「華子っ! 」
「リカルド様っ! 」
華子は迷わずその広い胸に飛び込み、リカルドは二度と離すまいとばかりに抱きとめる。虹色に輝く長い髪がふわりと舞い、まるで翼のように華子を彩った。
お互いに逢いたくて逢いたくて、片時も忘れたりなどできなかった魂の伴侶 ―― コンパネーロ・デル・アルマが、虹色の魔力を共鳴させて、再び出逢った。
(もう、探さなくていいのね。リカルド様はここにいるのね)
触れ合った場所から体温が伝わり、痛いくらいに抱き締められた華子はそれでも幸せだった。痛いということは現実のことなのだから。もう、あの真っ暗な狭間で絶望に襲われることもないのだから。
華子はリカルドの胸に耳を押し付け、その鼓動を確かめる。
リカルドは華子のこめかみに唇をつけ、目を閉じて搔き抱く。
無言の二人はいつまでも抱き合い、そして少しだけ離れて見つめ合うと、長い長い口付けを交わした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「華子?! 華子、そこはどこだっ? 無事なのか?!」
―――― リカルド様、今行きます! ええ、ええ、私は無事です!
キラキラと輝く大地に根を下ろす、世界の涯にある古代樹の根元で、リカルドは突然はっきりと聞こえてきた華子の声にその場に立ち上がった。リカルドのただならぬ様子に、ヴィクトルも伏せていた首をもたげてその動向を見つめている。
「華子! 」
リカルドを呼ぶその声に、右眼がカッと熱くなり虹色の魔力が溢れ出た。久しぶりのアルマ同士が呼び合う感覚に、リカルドの神経が研ぎ澄まされていく。
聖アルマの日にこの場所に入ってから九十二日目。
それまで遥か遠くに聞こえていた華子の声は、一本の細い虹色の糸によってもたらされた。何もないはずの空間から伸びてきた虹色の糸は、視力を失ってしまったはずのリカルドの右目と繋がり、見えないはずのものを見せてくれる。
最初は深い暗闇を、それから幻のように消えては現れるどこかの風景を。
虹色に輝く左目見ても華子の姿は見えないのに、右目だけに見えているということは、この糸だけで華子に繋がっているというのか。不思議な糸は魔力でできており、切らしてはなるものかとリカルドも自分の魔力を送り補強する。華子の声が聞こえてからは、虹色の羽を広げて飛んでくる華子の姿が遠くに見え始めた。
―――― 待っていてくださいリカルド様、すぐにそっちに行きます!
華子の隣にいた老人はバヤーシュ・ナートラヤルガだったろうか。リカルドの記憶の片隅にある通りの魔術師の姿に懐かしさと複雑な感情が込み上げるも、だんだんと近づいて来ている華子の声と姿が全てを打ち消した。華子の手から伸びている虹色の糸は力強く太いものになり、リカルドから伝わっていったらしい橙色の魔力に染まっている。
「華子、俺はこの魔力の先にいるっ! 」
待つしかできないリカルドは、もどかしい思いをしながらも、せめて自分の魔力で華子を守ろうとありったけの魔力を放出させた。何が何でも、無事に華子をこの腕の中に取り戻さねばならない。例え魔力が尽き果てたとしても、成し遂げなければならない。
―――― もう少しで着きます、ああ、目の前に世界が!
その瞬間はついにやってきた。
何もなかったはずの空間が突如開き、そこに暗闇が広がったかと思うと、虹色の光の塊が飛び出してくる。随分と長くなった髪を虹色に染めあげ、それを翼のようにはためかせて飛んでくる華子に向かって、リカルドは大きく腕を広げた。
「華子っ!」
「リカルド様っ!」
華子は迷わずその広い胸に飛び込み、リカルドは二度と離すまいとばかりに抱きとめる。虹色に輝く長い髪がふわりと舞い、まるで翼ある人のようにも見える華子は古の天女のようだ。
お互いに逢いたくて逢いたくて、片時も忘れたりなどできなかった二人が、虹色の魔力を共鳴させて、再び出逢った。
(ようやくこの腕の中に抱くことができた。俺のアルマ、愛しい華子! )
リカルドの眦に、薄っすらと涙が滲む。細い腕を回してしがみつく華子が消えてしまわぬように搔き抱き、そのこめかみに唇をつけて目を閉じる。
華子を探してここまでたどり着くために、たくさんのものを捨ててきた。地位も名誉も名前さえも。
そう、リカルドは全てを賭けてここまできたのだ。
リカルドはすがりつく華子を抱き締めていた腕を緩めると、顔をよく見ようと涙に濡れる華子の虹色の髪をすくい、その頬に触れた。お互いに多少容姿が変わってしまったものの、リカルドを見つめてくる焦げ茶色の瞳は吸い込まれそうな程澄んでいる。黒髪も似合っていたが、まるで古代樹の幹のように虹色に輝く長い髪も神秘的でよく似合う。
お互い無言で、しかし溢れんばかりの激情を身の内に宿した二人は身を寄せ合い、深く深く口付ける。
「はな、こ……もっと」
「……んっ……はぁ、リ、カルドさま」
(もっと近くに)
(もっと深くに)
いっそのこと、このまま融けあえたらいいのに、とリカルドは思った。この分かたれた魂が一つになれば、焦燥を感じることはないだろう。
でも、それでは駄目だ。『華子』という存在が傍にいてこそ、魂の安寧を真に得られるのだ。リカルドが求めて、華子に求められてこそ。
「華子、愛してる……愛してる、私の華子……愛してる、もうどこにも行かないでくれ! 」
「リカルド様……私のリコ様、私だけのリコ様、ずっと愛しています、愛しています! 」
リカルドの左目が虹色に輝くと、華子の髪も呼応するように虹色に輝く。触れ合い、確かめ合い、その瞳にはそれぞれ相手しか映すことなく。囁かれるような愛の言葉は途切れることなくやがて甘やかな吐息が漏れるころ、二人はようやく、魂の安寧を得た。




