第四十五話 流血の準備室
「天津さま」
「ひいっ!?」
突然背後から声をかけられて変な声が出る。
後ろに立っているのは葵。音も気配もなかったけど、いつの間に準備室に入って来たんだよ?
っていうか、もし葵が敵の暗殺者だったら俺死んでいたんじゃないの?
「な、なんだ葵か。話は終わったから、絵を描こうか」
「じーっ……」
努めて平静を装うが、葵にはバレバレな気がする……っていうか、なんで口に出して言うんだろうね?
「……お待ちください」
「ひいっ!?」
唐突にゼロ距離に詰めてくる葵。こ、これが、世に言う壁ドン……なのか?
「じーっ……」
「あの……葵?」
じーっと口に出しながら無表情で見つめられると居心地が悪い。
「先程はお楽しみでしたね」
うわああ!? な、何でそれを……生徒会室のこともあるし、もしや葵の能力は聴覚系なのか?
「い、いや、別にお楽しみというわけじゃ……」
我ながら歯切れが悪いけど、お楽しみというのはちょっと違うというか……。
「私とも同じことをしてください」
ふえっ!? 同じ事って言われても……
「……私が相手では嫌ですか?」
馬鹿を言ってはいけない。嫌なわけはないだろう?
ただ、俺はなすがままにされていただけで、何かをしたわけじゃない。
「葵の好きにすれば良いんじゃないか?」
ちょっとずるい言い方かもしれないが、他にどうすれば良いのかわからない。
「ゆり先輩は何をしたんですか?」
うっ……それを聞いてくるのか?
「えっと、抱き着いて頬にキスをしただけだよ」
「き、キスっ!?」
予想外だったのか、無表情ながらほんのり頬が赤く染まる。
「いや、別に無理に同じことしなくても……」
「いいえ、許嫁メイドとして負けるわけにはまいりません」
……許嫁メイドって何?
「天津さま……失礼します」
葵がゆり姉と同じように抱き着いてくる。
ぎりぎりぎり……
万力のような力で。
「あ、葵……く、苦し……」
「あ……申し訳ございません、初めてなので加減がわからず……良かったら教えていただけませんか?」
うえっ!? 俺が教えるの? ま、まあ他にいないから仕方ないのか。
俺も経験は多くは無いが、ここ数日撫子さんたちで鍛えられているからな。
「よし、手本を見せよう」
「よろしくお願いします」
両手を広げた葵の背中に手を回し、優しく抱きしめる。
あれほどの力があるなんて信じられないぐらい、葵の身体は細くやわらかい。
「苦しくない?」
「……抱きしめられるというのは良いものですね。とても安心します」
どうやら大丈夫みたいだ。
「さあ、気が済んだろ? 部室に戻ろう」
いい加減戻らないとさすがに怪しまれてしまう。
「駄目です。あと、き、きききキスが残っています」
顔が真っ赤で目がぐるぐる泳いでいるんだけど大丈夫なのか?
「葵、別に今じゃなくたって良いんじゃないのか?」
「だ、駄目でしゅ……負けるわけにはいかにゃいのれす……」
おいおい……本格的にテンパッているじゃないか。
「にゃ、にゃあああ!!」
ゴツンッ!!
「痛ってええええ!!」
葵の石頭が的確に俺の頭を撃ち抜く。
「め、目を開けるんだ、葵」
「も、申し訳ございません~、こ、今度こそ~」
両目をかっと見開いて俺の頬に狙いを定める葵。捕食者に狙われたうさぎの気持ちがわかる気がする。はっきりいって怖い。
「にゃ、にゃあああ!!」
ガブッ!!
「痛ってええええ!!」
葵の歯が深々とくい込む。
「も、もも申し訳ございません~!!」
慌てて離れる葵だが、これは血が出ているかもしれん。はっ!? もしやこれが世に言うキスマーク?
「こ、今度こそ成功させますから、どうかもう一度チャンスを……」
「ぐはっ!?」
土下座する勢いで下げた葵の頭が、再び俺の顔面を強打する。
駄目だ……流血の未来しか見えない。っていうか俺の体が持たない。
「……駄目だ、これで我慢しろ」
「ふえっ!?」
不意打ち気味に葵の頬にキスをする。そっと触れるだけのキスともいえない軽い接触だが、葵の動きを止めるには十分すぎるほど効果的だった。
「……ほう、何やら楽しそうなことをしているじゃないか、みこちん」
「ひいっ!?」
いつの間にやら仁王立ちしている撫子さん。
「な、なんで撫子さんがここに?」
「会長の件が気になってな。ゆり先輩に聞いたらここに居るって」
撫子さん……心配してくれていたのか。あ……やばい、この状況……どうすれば。
「ち、違うんだ、これはその……色々あって」
うむ、我ながら何の言い訳にもなっていない。
「ん? なんだみこちん、顔に怪我をしているじゃないか!!」
だが撫子さんはそんな俺の慌てぶりなど気に留める様子もない。
……わかってはいたけど、撫子さんに嫉妬とかそういう反応を期待してはいけないんだな。いや、その方が有難いんだけどね。あと、それ怪我というか、単なるキスマーク……。
「お、奥さま、申し訳ありません、私が付いていながらこの体たらく……」
「お、奥さまっ!? ふ、ふふふ、葵、気にするな、こんなのかすり傷だからな!!」
……葵、他人事だけど、傷を負わせたの君だからね? あと撫子さん、そのセリフ俺の。
とはいえ、場所が場所だけに目立つ。保健室で絆創膏でも貼ってもらってこようかな……。
「待てみこちん……いいか動くなよ?」
「ひいっ!?」
壁ドンパート2.今度は撫子さんに押さえつけられる。
「な、何をするつもり……?」
柔らかいものが頬に触れる。
「にゃああああ……」
突然の撫子さんのキスに目を回す葵。
「ふえっ!?」
傷口をぺろぺろ舐められているのか? くすぐったくて気持ちが良い。
「……うむ、こんなところだな。みこちん、もう痛くないはずだぞ」
撫子さんが傷口から唇を離すと満足そうに頷く。
「あれ……本当だ……痛くない?」
葵に噛まれた痕を触ってみると、痛みどころか傷痕すらわからなくなっている。
一体、何の魔法だ?
「す、すごい……これが稀人の力なのですね」
「うむ、母上の言った通りだな。まさかこれほどとは」
あの……二人とも何の話? 会話に付いていけないんだが。
稀人って……俺のこと……だよな? 何にもしていないんだけど。




