第百九話 異国に咲いた花
「雅先生、さすがに全員は……」
「あら~? 黒衣衆の子たちは、全員天津くんを命の恩人だってすでに忠誠と献身を誓っているのよ? 家族も身寄りもないし、記憶や名前も奪われて、生きる意味すら見失っている彼女たちを救えるのは誰かさんしかいないわよね~? チラッチラッ」
くっ……なんてこった。そんなことを言われたら放っておけないじゃないですか……
「それにね、ここにいるスパイの中にも似たような境遇の人間は多いわ。一度失敗したスパイは処分されるだけだし、仮にそのことが組織にバレなかったとしても、スパイに待っているのは幸せとは無縁の残酷な未来だけ……まあ、命くんの責任じゃないし、気にする必要なんかないんだけどね?」
確かに楓さんの言う通り、気にしていたらキリがないのかもしれない。
でも……彼女たちは、俺が見捨てたら殺されてしまうかもしれないんだ。それなら彼女たちが安心して生きられる環境を提供することぐらい……たとえ傲慢でエゴにまみれていようが構わないよな。
幸いなことに俺にはそれが出来るだけの力がある。
手が届く範囲くらい救えなくて、どうやってこの国を救うんだよ。
全部まとめて俺が面倒見てやるさ。
それが俺の……天津命の覚悟だ。
◇◇◇
くっ……まさかこの私があっさり捕まるとは……。
油断していたわけではない。たしかにあんな化け物じみた奴らが二人もいるなんて情報はなかったが、そんなことは言い訳にもならない。その最新情報を探るのが我々の任務なのだから。
組織ナンバーワンの諜報員として名を馳せてきたこの私が、こんな極東の島国で終わりを迎えることになろうとは……
失敗はすなわち死を意味する。例外は存在しない。
だが、その手段すら奪われて拘束されている以上、自害すら出来ない。
おそらくは……拷問されるのだろうな。
特殊な訓練を受けた私が口を割ることはない。時間の無駄だと伝えたいところだが、伝えたところで結果が変わるとも思えない。
「あら~? この子、ソフィア=エリストラートヴァじゃない。ずいぶんな大物を捕まえたのね~」
なっ!? 何者だこの女? 私の正体を知っている……だと!?
「へえ……ソフィア=エリストラートヴァって言えば、ロシア最強の諜報員じゃなかったっけ?」
「さすが楓ね。そうよ~、日本に潜入しているのは知っていたけれど、まさかこんなところで会えるなんてね~」
この赤目女……あの死神と恐れられる紅葉楓か。そして私の潜入が筒抜けだったとは……どうやらアマツの情報網を甘く見過ぎていたようだ。
だが私を舐めるなよ。祖国の情報は一切渡さない。何をしようともお前たちに得るものはないのだ。
「天津くーん、ちょっと良いかしら~?」
「何ですか雅先生」
こいつがミコトか。世界の影の支配者になり得る唯一の存在。どんな恐ろしい男なのかと思えば、ただの青年ではないか。
一体何をするつもりだ……?
「この子ね、とっても有能で可哀そうな子なの。出来れば仮じゃなくて、許嫁にしてあげたいんだけど駄目かしら~?」
なっ!? 何を言っているんだこの女は? 頭がおかしいんじゃないのか? 私が可哀そう? 許嫁? 意味がわからない。
「雅先生がそうおっしゃるのなら……俺は構いませんが」
ちょっと待て、ミコト、お前もおかしいぞ!? さあ早く殺せ!!
「良かった~。じゃあ王子さま、目覚めのキスをしてあげてね」
ふん……笑わせる。何かと思えばただのキスだと?
む……なんだこれは……記憶? や、やめろ……見たくない、やめてくれ……!!
うわあああああああああ……
……すべて思い出した。優しかった両親、美しい思い出、そして血塗られた人生……
そうか……もうあの頃には戻れないんだな……私は……
「ごめん……ソフィア。辛いことを思い出させてしまって」
そうか私は……泣いているのか。ミコトがそっとハンカチで涙を拭いてくれた。
まだ私の中に人間らしい感情が残っていたことが嬉しい。そんなことを考える自分自身に戸惑ってしまうが、決して悪い気分ではないのだ。
「……気にするなミコト。それよりも……もう一度、さっきはその……よくわからなかったから」
私は何を口走っているのだろう? まるで感情をコントロール出来ていない。これでは思春期の乙女ではないか。
「もう一度? ああ、ちょっと待ってろ」
ミコトの手が私の頬に触れる。大きくて温かい掌。久しく感じていなかった人の温もり。そうか……安心するってこんな感じだったな。
え……? いつの間にプリンセス抱っこをされて?
気付けばミコトの腕の中にすっぽりと収まっていた。
地中に埋まっていた身体を一体どうやって……?
そんなことは今はどうでもいいか……。愛しい感情が溢れて止まらない。
激情に任せて今度は私から唇を重ねる。
失われた空白を埋めるように……むさぼるように必死で求め手を伸ばす。
甘い……蕩けるようなキス。
私の傷だらけの心が癒されてゆくような感覚。心の底で蠢くどす黒いものが浄化されてゆくような……
『ソフィア、良くお聞き、私たちは世界の安定と平和のために戦う誇り高き一族の末裔だ。その名はアマツ。決して忘れてはいけないよ』
『……アマツ? うん、わかった。ソフィア絶対に忘れない』
『いい子だねソフィアは。お前はこれから日本へ行くんだ。とても平和で美しい国だぞ』
『父さまたちは? 私、一人で行くのは嫌』
『心配するな。私たちも仕事を片付けたらすぐに迎えに行くから……いい子にしているんだよ』
『……わかった。早く迎えに来てね?』
『ああ、約束だ、かわいいソフィア、お前は私たちの宝物だよ』
父さま……遅くなってしまいましたが、ちゃんと日本に辿り着きましたよ。
だから……いい子で待ってますから、いつか迎えに来てくださいね。
私はソフィア=エリストラートヴァ=アマツ。遠い異国の地に咲いたアマツの花。
ここに誓おう。世界の安定と平和を乱すものから生涯ミコトを守り抜くと。




