エピローグ2 ジェイ
厨房のテーブルの上に白色の器が並べられていく。器からは薄い湯気と微かに甘い香りが立ち昇っている。
サヴィトリが指で器をつつくと、中のクリーム色のもの――プリンがぷるぷると震えた。ただそれだけで、サヴィトリの顔はほころんでしまう。
「本当につかめないよね、サヴィトリって」
蒸し器からプリンを出し終えたジェイは苦笑し、サヴィトリにスプーンを差し出した。
「ちょっと柔らかいけど、できたてのプリンも美味しいよ。あ、器まだ熱いから気を付けてね」
サヴィトリはスプーンを受け取ると、早速プリンをすくって食べる。ほわほわと温かいプリンは口の中に入れた瞬間にとろけだし甘さが広がった。心地の良いなめらかさと幸せを感じさせてくれる。
美味しい、という言葉は必要なかった。それを口にするよりも先に、ふにゃふにゃと顔がとろけてしまう。
カスタード単体でここまで美味しいのなら、カラメルと一緒に食べた時の衝撃はいかほどのものか。
「そんなに美味しい? そこそこうまくできたかなー、とは思うけど」
「一生の私のご飯を作ってくれ、ジェイ」
「サヴィトリ、それって一歩間違うとプロポーズ」
「ジェイと結婚する気は毛頭ないが、ジェイの作る料理は愛してる。材料費は出すから一生作り続けてくれ」
「もういいです……」
ジェイは頭を抱え、これみよがしに大きなため息をついた。
「でもやっぱり、こうやって話してると普通のサヴィトリだなぁ」
「普通とはどういう意味だ? 特別なサヴィトリや下級のサヴィトリ、あるいは痛んだサヴィトリでもいるのか?」
「食べ物じゃないんだから……。そういうことじゃなくて、俺を助けるためにカイラシュさんとむかい合ってくれた時、なんか見えたんだよね。サヴィトリがタイクーンになる画が」
ジェイは両手の指で長方形の枠を作り、その中にサヴィトリを収める。
「私が逃げるか死ぬかしない限り、そういうことになるだろうな。誰かさんのせいで」
嫌味をたっぷりと含ませ、サヴィトリは微笑んだ。
「タイクーンでもタイクーンでなくても、一生涯お守りしますよ、サヴィトリ様。人生を捧げてもいいくらいの借りがありますし」
嫌味に対する返礼か、ジェイはわざと慇懃な態度を取る。
「そういえば、ジェイはちゃんと足を洗えたのか? ややこしい手続きはカイに任せてしまったから、詳しいことを知らないんだ。あと、お兄さんはどうなった?」
尋ねながら、サヴィトリは二つ目のプリンに手を伸ばす。
このプリンが食べられただけでも、ジェイを助けた意味は十二分にある。
「依頼未達成の違約金はちゃんと払ってきたよ。ニラが口添えしてくれたおかげでそんなにはかからなかった。組合には、一応まだ籍は残してある。情報網として利用価値があると思って。サヴィトリがタイクーンになるんだったら、なおさらね」
ここまで言うと、ジェイは紅茶を用意し始めた。ちょうどサヴィトリも何か飲み物が欲しいと思っていた時だった。
「兄ちゃんは、駄目だった。『弟に情けかけられるほど落ちぶれてない』って殴られたよ。予想はしてたけど。お互いに大人だし、もう放っておくことにした」
二つのカップに紅茶が注がれる。心を落ち着かせるような良い香りがした。
「つまり、ジェイは暗殺者のままってこと?」
「サヴィトリに危害を加えるようなことは絶対にしないけどね」
ジェイは先にカップに口をつけた。
サヴィトリも紅茶を一口飲む。
「……わかった。ジェイが自分が決めたことならそれでいいと思う。私がどうこう口をはさむ問題ではないな」
ジェイに人殺しは似合わないと心底思うが、彼には彼なりの考えがあるのだろう。
サヴィトリはまたプリンを食べ始めた。カラメルと一緒に食べると甘さの中に香ばしさとほろ苦さが加わり、カスタードの良い部分を一層引き立てる。
「サヴィトリって、気分の切り替え速度が尋常じゃないよね。殺伐とした話した直後にプリン食べてにこにこしてるし、タイクーンの件だって、あっさり受け入れちゃうし」
「今日のジェイは特にうだうだうるさいな。意味のないことは引きずらない、私はそう行動するよう心がけているだけだ」
「……サヴィトリが引きずってるのは、その指輪くらい?」
ジェイが急に声のトーンを落とした。
一度盗まれたことがあるせいか、サヴィトリは反射的に指輪を手で覆い隠す。
「やだなぁ、もう盗らないよ。それに、呪いのせいではずれないんでしょ、指輪」
ジェイ自身、今の自分の発言が怪しいものだと思ったのか、場を和らげるためにぱたぱたと手を振る。
「ちょっとナーレンダさんが羨ましいなって思っただけ」
「ナーレの何が羨ましいんだ?」
「え、サヴィトリそれを聞いちゃうの? 普通は、『もしかして、ジェイ君って私のこと……』って、こっそりドキドキするところだと思うよ」
「? 今のジェイの発言で、もっとわからなくなった。全部ひっくるめてどういうことなんだ?」
「もしかして俺、なんか試されてる? それともサヴィトリが鈍すぎるだけ?」
「いや、ジェイの説明能力が低いだけだと思う」
「もう……」
ジェイは大袈裟に頭を抱え、諦めたように息をついた。
「十年近くサヴィトリに思われ続けてるなんて羨ましい、って思ったんだよ」
「思われ続ける? ……ああ、ギセイシャの話ね。でも正直なところ、ギセイシャってどういう意味かよくわからないんだ」
「……ちょっと待って。それって婚約指輪的なものじゃないの?」
眉間に皺を寄せ、ジェイが詰め寄ってきた。
サヴィトリは首をかしげる。
「婚約指輪? まさか。だいたい、私とナーレは十歳前後離れている。それにこれを渡されたのは私が七、八歳の時だ。もし婚約指輪として渡したのなら、まごうことなきロリコンじゃないか」
「うわー……俺、ちょっと同情を禁じ得ないかも」
「?」
「なんでもないなんでもない!」
ジェイは首と手を振って全力で否定する。
「今日のジェイは輪をかけておかしいな。さっきから言っていることがよくわからない」
サヴィトリは顔をしかめ、紅茶を呷った。
「あはは、ごめんね。今日は確かにそうかも。そうだ、あまった卵白で作ったフィナンシェもあるけど食べない?」
空いたサヴィトリのカップに紅茶を注いでから、ジェイはフィナンシェを持ってきた。
プリンを二つ食べた後だが、サヴィトリはすぐにフィナンシェに手をつける。
「サヴィトリがそういう認識なら、俺にもちょっとは勝機があるかな」
ジェイはいつものへらへら笑顔を浮かべ、自分のカップにも紅茶を注いだ。
またジェイがわけのわからないことを言っているので、サヴィトリは取り合わずにフィナンシェを食べることに集中する。
噛んだ瞬間にバターとアーモンドの香りが鼻を抜け、追ってしっとりとした食感とほどよい蜂蜜の甘さ、バターの旨味で口腔が満たされる。紅茶との相性が最高に良いフィナンシェだった。
「俺の思わせぶり発言を綺麗に無視したね、サヴィトリ」
「え、何が?」
「……はぁ。そろそろド直球投げちゃおうかなー、俺」
「だから、ジェイはさっきからなんなんだ? オチも中身もないぐだぐだ話が多すぎる」
いい加減いらいらしてきたサヴィトリは、ジェイの眼前に食べかけのフィナンシェを突きつける。
「ほんとにほんとにごめん。今日の俺、おかしいみたい。だからさ、ちょっとだけあっちむいててくれない?」
ジェイが窓の方を指差す。
言われるままに、サヴィトリはその方向へ顔をむけた。特筆すべきようなものは何もない。
「これ、俺からの宿題ね。どういう意味かは自分で考えて」
耳元で囁かれた。普段よりも吐息を孕んだ低い声。
やわく温かいものが頬に触れる。
「……はい?」
サヴィトリの頭の中で疑問符がラインダンスを踊る。
ジェイの作ったお菓子を食べていたら、ジェイにほっぺたにキスされた。
さて、その意味はなんでしょう?
「――うわああああああっ!! なんか俺すっげー恥ずかしくなってきた!!」
サヴィトリが答えを出す前に、ジェイが頭を抱えて絶叫した。
「ごめんサヴィトリ! やっぱ忘れて本当にごめん! ああもうっ、何してんだ俺は!?」
毛が抜ける勢いで頭をかきむしると、ジェイは半狂乱のまま
部屋から飛び出して行ってしまった。
取り残されたサヴィトリは、もう何も食べられないくらいにいっぱいになってしまった胸に手を当てる。
(……ちょっとどきどきしてる? まさか、ね)
サヴィトリは胸のつかえを流すように、少しぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。




