エピローグ1 カイラシュ
「本当にこれでよかったのですか、サヴィトリ様」
タイクーンの部屋を出てからずっと、何か言いたげな表情をしていたカイラシュが口を開いたのは、補佐官執務室に戻ってからだった。
「おかしなことを言う。私をタイクーンに、と望んでいたのは他ならぬお前だろう、カイラシュ」
サヴィトリはカイラシュを一瞥だけし、ソファに腰をおろした。
目の前にあるテーブルの上には地図が広げられており、いくつもの押しピンがランダムに突き刺さっていた。それらは、ここ数ヵ月のリュミドラの出現場所を示している。
まずはリュミドラを見つけ、棘の呪いを解かないことには前にもうしろにも進めない。
「ですが、サヴィトリ様――」
「権力に目がくらんだ――タイクーンに言ったことがすべてだ。これ以上うだうだ言うようならば、金輪際カイとは口をきかない」
サヴィトリがぴしゃりと言い切ると、カイラシュは仕方なさそうに口をつぐんだ。
ここ数日でわかったことだが、カイラシュは意外に小心で、なかなか腹が据わらない。突飛な事態には弱いタイプだ。
「自身の信念を曲げてまで救おうとするなど、そんなにあの男が大事ですか?」
「信念というほど大それたものじゃない。ただの子供の意地。それに、ジェイだから助けたわけじゃない。あれがカイでもヴィクラムでも、ニルニラだったとしても、私は同じことをしていた。知り合いが知り合いに殺されるのも、知り合いが知り合いを殺すのも、見たくなかっただけだ」
「知り合いだなんて、ずいぶん他人行儀なことを仰るんですね」
カイラシュの声音に艶っぽさが帯びる。
首筋を撫でる手の冷たさに、サヴィトリは思わずびくりと身体をすくませてしまう。
「わたくしはサヴィトリ様の従順なしもべですよ。心の契約書を交わした仲じゃありませんか」
「交・わ・し・て・な・い!」
サヴィトリは鋭くカイラシュの手を打ち払う。
冗談だか本気だかはわからないが、カイラシュのこういう所がうっとうしい。これから毎日のようにこれに付き合わされると思うと、自分の決断に対して後悔を禁じ得ない。
「では、今度は忘れないように交わし直しましょうか」
何か含みのある、嫌な言い方だった。
いらない結構だ全力で遠慮する――サヴィトリが拒否の言葉を並べたてる前に、首のあたりに生温かいものが触れた。皮膚の薄い部分を吸われ、軽い痛みが走る。
「――っ!? このっ、馬鹿っ! 馬鹿ばかバカ!!」
わけがわからないまま、サヴィトリはひたすらにカイラシュをぽかぽか殴りつける。
「サヴィトリ様でもさすがに動揺するんですね、これは」
「いきなり何するんだ馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!!」
サヴィトリは喉元を手で押さえ、カイラシュから距離を取る。
「言ったじゃありませんか。忘れないように契約を交わし直すと。これなら、鏡を見た時などにも思い出していただけるでしょう」
「っ、ほんっとに馬鹿!!」
サヴィトリは近くにあった高そうな壺をカイラシュ目がけて投げつけた。
いっそ見事顔面に壺を食らったカイラシュはうっとりと仰向けに倒れる。
キスマークの意味くらい、色恋に縁遠いサヴィトリにでもわかる。
「申し訳ありません。サヴィトリ様のお怒りも至極ごもっとも。わたくしだけが付けるなんて不公平の極みでございました。さ、サヴィトリ様。お好きな所にお気のすむまで愛の印を深く刻みつけてください! わたくしは痛いほうが好きです!!」
「ああわかった今すぐ殉職させてやるぞカイラシュ!!」
※※※しばらくお待ち下さい※※※
「さて、そろそろ真面目に解呪の方法について考えましょうか」
死の淵から奇跡の生還を果たしたカイラシュは、神妙な顔をしてテーブルの上の地図を眺めた。
(どうしてもこのテンションの落差についていけないなぁ……)
「具体的な解決策は、今思いつく限りは三つあります。一つは、術をかけたリュミドラ自身に解かせる。二つ目は、リュミドラと同等ないしはより高位の術士に解いてもらう。そして最後は、呪いを解くのを諦めてわたくしと様々なプレ――なんでもありません間違えました。改めまして、最後の一つは、ランクァより西方の地にある、解呪の泉の力を頼る」
「最初の二つについてはわかるけど、解呪の泉って? 怪しさと適当さ大爆発なんだけど」
「これについては、わたくしにも真偽のほどはわかりかねます。ただ、幼い頃に聞いたことがあるのです。ラトリ様から、故郷のヴァルナに不思議な泉がある、と」
「……ヴァルナ。そこが、故郷なのか。母の」
呪いを解くことが最優先であるはずなのに、サヴィトリはつい反応してしまった。
「ええ。その地にある泉で呪いが解けるかはわかりませんが、一度訪れてみるのもよいかと……いえ、すでにお心は決まっているようですね。ただちに諸事の手配をしてまいります」
サヴィトリの表情を読み取ったカイラシュはたおやかに微笑み、腰を折る。
(そんなに顔に出てたかな)
サヴィトリは眉間に皺を寄せ、自分の顔をぺたぺた触る。
確かに母の故郷に行ってみたい、とは思ったが口に出すつもりはなかった。ただでさえ迷惑をかけているのに、更に寄り道をさせるのは気が引ける。
「主の思いや考えを察するのは補佐官の必須技能です」
(その割に人の神経を逆なでするようなことをするような……)
「虐げられたいからわざとやっているんですよ」
(変態だ)
「最上級の賛辞、ありがとうございます」
サヴィトリはこれ以上何かを考えることをやめた。
「ですがサヴィトリ様、何かご要望がある時はなるべく御下命ください。厳しく言われたほうがモチベーションがあがりますので」
「それなら今すぐ、カイの性格をどうにかしてほしいんだけど」
「サヴィトリ様があれこれ悩む必要がなくなるよう、脊髄反射的に虐げてくださる受け答えができるように善処いたします」
サヴィトリは抑えるように、ぐっと拳を握りしめる。ここで殴り飛ばしたら負けだ。
「サヴィトリ様、最後に一つ、よろしいですか?」
「わざわざもったいぶったことを言うな。何かあるのか?」
「これから数日の間、どこかへお出かけになられる際は、首まわりが隠れるような衣服をお召しになってください」
「言われなくてもわかっている! 誰のせいだと思っているんだ!」
「そんなに怒らないでください。あれは第三者に対して誇示するためのものではなく、ふとした時に、サヴィトリ様自身に羞恥を覚えていただくためのものですから」
「~~~~~~!! さっさと手配なりなんなりして来いカイラシュ!!」
「ご下命賜りました、サヴィトリ様」
優雅に頭を垂れると、扉の隙間にすべりこむようにカイラシュは部屋を出て行った。
サヴィトリは微かに痛みの残っている喉元を押さえ、深くため息をついた。




