1-4 家出と夕焼けと
どこまでも見渡しても、夕日に焼け始めた空と森が続いている。
森で一番の大きな木に登って上から眺めてみても、どの方向にクベラがあるのかわからない。
どうやって行くのか、どのくらい日数がかかるのかなど、サヴィトリは何も考えずに出てきてしまった。もちろん路銀も持っていない。財布の中には、二食分の食料がぎりぎり買えるだろうといった金額があるだけだ。
(今更戻れないしなあ……)
木の股にだらりと身体を預け、サヴィトリはため息をつく。
いくらか時間がたち、多少冷静になった頭で改めて考えてみると、あの時どうしてあんなにも強くクベラに行きたい、と思ったのかよくわからなくなった。
かといって、家に戻ってクリシュナに、「やっぱり行かないごめんなさい」と頭をさげるのはプライドが許さない。
(考えてもどうしようもないか。きっとなるようになる、はず)
サヴィトリは左手中指の指輪を撫でる。
『そうだな……その指輪がちゃんと似合うようになるくらい。だいたい、十年かな。十年たって君のもらい手が誰もいなかったら、公共の福祉のために僕が尊い犠牲者となって、仕方なく君をもらってやってもいい』
ふと、ナーレの別れ際の言葉がよぎった。
そろそろ約束の十年になる。ナーレにはきっちりギセイシャになってもらわなければ。
(……でもギセイシャってなんだろう?)
サヴィトリは首をひねり、指輪にはまった空色の石を見つめる。
空色の石は、もちろん答えなど返してはくれなかった。
「家出したんだって、サヴィトリ?」
木の下から、面白がるような声がかけられた。
サヴィトリが声のした方に目をむけると、ジェイの姿があった。目や頬のあたりがうっすらと腫れているように見える。
サヴィトリと目が合うと、ジェイはへらへらと笑い、大きく手を振った。
「この顔見て見て。小屋に行ったらお師匠さんに殴られちゃった。『全部てめえのせいだ!』だって。八つ当たりもいいとこだよね。俺ってば今日は厄日かな~?」
ジェイは頭のうしろで両手を組み、軽い調子で話す。
「ねえジェイ。クベラって、どうやって行くの?」
木の上から、サヴィトリは尋ねた。
ジェイは困ったように笑い、頬を指先でぽりぽりとかく。
「普通、俺の怪我の心配をまずいの一番にしない?」
「しない」
「本当に素っ気ないよね~。っていうかいっそ冷酷? はぁ……なんで俺、サヴィトリとお友達だったんだろ」
ジェイは泣きまねをし、流れていない涙を指で大げさにぬぐった。
「ちなみにさ、なんで急にクベラに行きたくなったのか聞いてもいい?」
「……いいよ。けど、ジェイには申し訳ないんだけど――」
サヴィトリは枝から飛びおりた。軽やかに片足ずつ着地し、言を継ぐ。
「後継者とか、そういうので行くわけじゃない。この森から出てみたくて。外を見てみたくて。それと、会わなきゃいけない人がクベラにいるんだ」
サヴィトリは無意識のうちに左手を握りしめた。
「ふーん」
「何かおかしい?」
「いや、サヴィトリってあんまり人に執着しなそうなのにさ。会いたい人ってどんな人なのかなーって思って」
「? ごく普通の人間だけど」
「ううん、気にしないで。まっとうな答えは最初から期待してないから」
「……ジェイ、もしかしなくても人のこと馬鹿にしてる?」
「うん」
ジェイが大きくうなずいた次の瞬間、サヴィトリの拳がえぐるようにジェイの鳩尾にめりこんだ。たまらずジェイは地面に膝をつく。
「ね、前から思ってたんだけど、ちょっと暴力的すぎな――くないですよねー、全然。俺が全部悪いんですよねー。ほんとすいませーん」
剣呑な笑顔と高々と振りかざされた拳とを見て、ジェイは慌てて軌道修正する。が、結局拳は振りおろされた。
「昔よりジェイは人のことをイライラさせる」
気がすむまでジェイを滅多打ちにしたサヴィトリは、腕組みをして頬を膨らませる。
(サヴィトリが短気になっただけだと思うけど。ああ、でもこんなこと絶対に言えやしない。暴力に屈するなんて、ほんと俺ダメダメヘタレ)
ジェイはさめざめと泣きながら、両手で口元を押さえた。
「――ま、おふざけはこれくらいにして、と」
不意に、ジェイが真面目な表情になる。
「一応確認するけど、サヴィトリはクベラに行きたいんだよね?一個人として、外の世界を見に。人を探しに。タイクーンの後継者として登城するよう近衛兵に請われて、じゃなくって」
ジェイはずいとサヴィトリに近寄り、鼻先に人差し指を突きつけた。
指を見つめていたせいでやや寄り目になったサヴィトリは、二度首を縦に振る。
「それじゃあ一緒に行こう、サヴィトリ」
サヴィトリの表情が面白かったのか、ジェイは小さく噴き出し、握手を求めるように手を差し出した。
「いいの?」
「もし後継者として連れてったらさ、俺、お師匠さんに殺されちゃいそうじゃない? それに、手ぶらで行くにはクベラはちょっと遠いよ」
ジェイは肩をすくめ、もはや真顔よりも見慣れたへらへら笑いを浮かべた。
サヴィトリもつられて笑い、ジェイの手を取る。記憶よりも大きく冷たい手だった。




