6-3 悪夢のあと
頬に冷たいものが触れる。同時に、染みるような痛みもあった。
サヴィトリはぴくっと眉間に皺を寄せ、押しあげるようにして目蓋を開く。
まず、鮮やかな菫色が目に入った。ざわざわと何か雑音のようなものが耳に入ってくるが上手く聞き取れない。
次第に、鮮やかな菫色に細部が描きこまれていく。秀でた額、通った鼻梁、朱を刷いた弓型の唇。男女問わず、見た者をぞっとさせるような切れ長の赤い瞳――美人は三日で飽きるというが、この美人は外見も中身もなかなかに飽きさせてくれない。
「……カイ?」
サヴィトリがのろのろと名前を紡ぐと、返事の代わりに額を爪で弾かれた。地味に痛く、じんじんと疼きが残る。
「おはようございます、サヴィトリ様。大した寝相の悪さですね」
カイラシュは慇懃に微笑んだ。目はまったく笑っていない。それどころか怒気を孕んでいるようにすら見える。
カイラシュに構うのは後まわしにし、サヴィトリはあたりを見まわす。
日が昇って明るいため雰囲気は違うが、昨日と同じ場所のようだった。サヴィトリが地面を引きずられた跡や、分銅によって表皮が削り取られ、中がむき出しになった木もある。
サヴィトリの視界の端に、何かきらめくものが映りこんだ。ほとんど反射的に跳ね起き、その光源に飛びつく。
トンボ玉のついた房飾りだった。指輪ではない。
(ジェイが腰につけてたやつかな……)
サヴィトリは房飾りを陽の光にかざすようにして眺める。
『来てくれなかったら、あなたの大事なお兄さんをばらばらにしちゃうかも』
唐突に、サヴィトリの頭の中でシロップのような甘くねばついた声が再生された。
あれからどれくらい時間がたっているのかはわからない。空で輝いていたはずの月は、すべてを照らす太陽に取って代わられている。
「サヴィトリ様。昨晩、わたくしの後頭部を鈍器のようなもので殴打し、昏倒させようとしたこと。勝手に部屋を抜け出したこと。それから、お顔やその他に負った怪我と、ここに倒れていた理由について弁明をいただきたいのですが」
今にも走り出そうとしていたサヴィトリの肩を、カイラシュは有無を言わさぬ力でぐっとつかんだ。
(そんなこともしたっけ……)
サヴィトリは昨晩の記憶のもやは取り払わないことにした。
「もっとも、わたくしが遅れを取ったのはあの雑用あがりがケーキ――より正確に言えばそれに添えられていた生クリーム――に一服盛ったせいですが。サヴィトリ様のほうはなかなかに愛のある連撃でしたが、わたくしを昏倒せしめるにはまだまだ」
カイラシュの証言から、ジェイの行動が計画的なものであったことが窺える。
一部、おかしな発言があったが、サヴィトリは必要な情報以外はすべてノイズとして処理した。
「じゃあ、あの、ジェイが暗殺者だっていうのも、知ってるんだ」
「あれには他に二件の嫌疑がかかっていますからね」
「二件?」
サヴィトリが聞き返すと、カイラシュは急に声のトーンを落とした。
「二人の王子の暗殺です。表向きは事故と病気として処理されはいますが」
サヴィトリにはまるで実感のわかない話だった。
確かにジェイには襲われ、彼自身、自分は暗殺者だと言っていたが、どこかで信じていない自分がいた。
「本当に?」
「確証がないため泳がせていました。わたくしが近衛兵の一人に成り代わっていたのも彼の監視のためです」
カイラシュはサヴィトリの心をなだめるように頭を撫でた。
サヴィトリは、唇を真一文字に引き結ぶ。
「戻りましょう、サヴィトリ様」
カイラシュはサヴィトリの肩をそっと抱き、歩くようにうながす。
だが、サヴィトリの足は地面に縫いつけられたように動かない。
「サヴィトリ様?」
「……私、行かないと」
サヴィトリはまっすぐにカイラシュの瞳を見つめ、はっきりとした言葉で伝えた。
「ごめん、カイ。私は、研究塔に行かなければならないんだ」
カイラシュの顔がみるみるうちに険しくなる。
「本当のことを申しあげます。サヴィトリ様を研究塔に行かせられないのには、暗殺者の他にも理由があります。昨日、研究塔がリュミドラという魔性の者に占拠されました。ヴィクラム殿が途中で護衛から離れたのも、鎮圧にむかったためです。ですからどうか、事態が収束するまでは――」
「知ってる」
「はい?」
「昨日会ったんだ。そのリュミドラっていうのに。ずっと私と遊びたかったそうだ。来てくれなかったら、あなたの大事なお兄さんをばらばらにしちゃうかも、とも言われた。あと、多分ジェイも連れていかれてる。あいつから、指輪を取り戻さないと」
サヴィトリは房飾りをぎゅっと握りしめた。
「わがままだし、無茶なこと言って散々迷惑かけてるのもわかってる。でもお願いだから、今だけは行かせてほしい」
サヴィトリは深く頭をさげる。
しばらくして、これみよがしなため息が聞こえてきた。
顔をそっとあげると、カイラシュは頬に手を当て眉根を寄せていた。
「ならばサヴィトリ様、交換条件ということにしましょう。こちらが提示する条件は次の三つです」
一方的に宣言し、カイラシュは親指と人差し指と中指の三本をぴっと立てた手をサヴィトリの鼻先に突きつけた。
「一つ、これからは勝手な行動を控えるという署名をする。二つ、研究塔へはわたくしも同行させる。三つ、将来的にタイクーンの座に就くということを約束する」
「……前から思っていたんだけれど、こんな無鉄砲なのをタイクーンにしてどうするんだ? 下手したら三日でクベラが滅びるかもしれない」
「上に立つ者はちょっぴりお馬鹿で愛嬌があるほうがいいんですよ。そうすれば自然とまわりが支えなきゃって気になりますからね」
(遠まわしにものすごくけなされた気がする)
「それに、生まれながらに王たる資質を持っている者などほとんどいません。今のタイクーンだとてそうです。時間や周囲の助けなどを得て、タイクーンとなられたのです」
『お前なんかおだてられて体よく祭りあげられるに決まってる。女の後継者なんてお世継ぎとやらを生むための道具として扱われるだけだ!』
カイラシュの言葉が耳に入ったのとほとんど同時に、サヴィトリの頭の中にクリシュナに言われた台詞が響いた。クベラに行く行かないということで喧嘩をした時のことだ。
確かに、クリシュナの言ったことは半分が現実になりそうだった。一度流されないと心に決めたはずなのに、懐柔されてしまいそうな自分がいる。
サヴィトリが返答を迷っていると、カイラシュは力を抜いてやるようにサヴィトリの肩を軽く叩いた。
「もっとも、三つ目は約束だけしてくださればいいんです。わたくしの心の安寧のためにね」
カイラシュは自分の胸に手を当て、悪戯っぽくウインクをしてみせる。
「……前向きな方向に検討するよう努力する、じゃあダメかな?」
サヴィトリは譲歩を求めるように顔の前で両手を合わせ、小首をかしげた。
「まぁ……いいでしょう」
カイラシュは諦めたように息を吐くと、どこからか紙とペンを取り出した。それらを押しつけるようにしてサヴィトリに渡す。
「本文を読んだうえで下に署名をお願いいたします」
サヴィトリは紙に書かれた文章をざっと目で追っていく。
『誓約書
この度、カイラシュを(以下、甲という)隷属せしめるにあたり、私(以下、乙という)は下記の事項を遵守履行することを、ここに謹んで誓約いたします。
一.いついかなる時であっても、乙は心の赴くまま甲に肉体的・精神的苦痛を与えます。
一.乙は甲の主としての責任と自覚に基づいて行動し、調教技術の向上に努めます。
一.乙はいかなる理由があっても甲以外の奴隷を所有しません。
一.故意または重大な過失によって、放置プレイの範囲内から逸脱するほど甲を放置した場合、乙はその責任を負います。
×××年△月◇日』
誓約書を読み終えたサヴィトリは、すぐさまそれをびりびりに引き裂いた。口の端を凶悪に吊りあげ、カイラシュの胸倉をつかみあげる。
「これは一体なんの誓約書なのかな?」
「わたくしとサヴィトリ様の専属主従関係誓約書です」
カイラシュの言葉を聞き終えるよりも早く、サヴィトリの拳はカイラシュの左側頭部を正確にとらえていた。
殴ってしまってから、サヴィトリはその行為が失敗だったことに気付く。これではカイラシュの望みどおりのことをしてやってしまっただけだ。
「申し訳ありません、サヴィトリ様。サヴィトリ様がお怒りになるのも無理はありません。わたくしとサヴィトリ様との間にある絆はこんな紙切れなどなくとも強く結ばれていますよね。わたくしが浅はかでございました」
先ほどの一撃により完全におかしなスイッチの入ってしまったカイラシュは目をきらきらと輝かせ、胸倉をつかんでいるサヴィトリの手に自分のそれを重ねる。
色々早まった、と思えど、サヴィトリにはどうすることもできなかった。




