6-1 月下の攻防
サヴィトリは走った。木々の多い方へと逃げこむ。ここならば思うように棒を振るえないはずだと踏んだ。
うしろを振り返らず木々の間を縫うようにして進む。森育ちの甲斐あって、ほとんど速度を落とすことなく遮蔽物をかわしながら走ることができる。
林の中はところどころで月の光が帯状に差しこみ幻想的であったが、サヴィトリにはそれを楽しんでいる余裕はなかった。
「ひどいよね。最初はサヴィトリをあの森から連れ出すだけの、誰にでもできる簡単なお仕事だったはずなのにさ。今じゃ息の根を止めない限り金は払えない、って言うんだ」
すぐ近くで囁かれたような気がした。サヴィトリは力を振り絞り、更に速度をあげる。
「私を殺してまで、金がいるのか」
尋ねるように、呟くように、サヴィトリは言った。
「たとえばさ、不幸な事故で半身が使えなくなった兄のために金がいるって言ったら、サヴィトリはおとなしく殺されてくれる? それとも、そんな汚い金で助けてもお兄さんは喜ばないとかって正義感丸出しの青い台詞でも言っちゃう?」
ジェイの口調は普段と変わらず軽い。
「……私はそんなことなど言わないし、殺されもしない。ジェイ、お前がどの程度の心構えで私に刃をむけたのか知りたかっただけだ!」
サヴィトリは吠え、振りむきざまに両手を突き出した。
両手が青白く発光し、またたく間に、何もなかった空間に青く透き通ったナイフのようなものが何本も現れる。それらは自ら意思を持っているかのように、ジェイにむかって殺到した。
同時に、サヴィトリ自身もジェイにむかって駆ける。
棒を回転させて氷のナイフを弾いたジェイは、直進してくるサヴィトリに棒を突き出した。八角の面がサヴィトリの喉元に迫る。
サヴィトリは左方に飛んでそれを避けたが、棒は遅滞なく追いかけてきた。かわしきれず上体をのけぞらせると、身体の上すれすれを棒は薙いでいった。身体を戻せなくなったサヴィトリは仕方なく地面に手をつき、側転の要領で転回し体勢を立て直す。
だが、じゃらんっ、という奇妙な音が聞こえ、サヴィトリは無意識のうちにしゃがみこんだ。サヴィトリの頭があった部分を何かが通りすぎていく。
速やかに身体を起こすと、髪の毛がぱらぱらと落ちた。軽く後頭部に手をやると、寒気がするほどの量の髪が手のひらに付着した。
「術具ってさ、便利だよね」
ジェイの手に八角棒はなく、代わりに鎖のついた分銅が握られていた。鎖を引き寄せ、その先についている鎌を回収する。サヴィトリの頭上を通って行ったのはあの鎌だろう。
「どういう原理なのかはまったくわかんないけどさ、小さくしてこっそり武器を持ち運べるし。俺のは武器自体の形も変わっちゃうし。ああ、賊を撃退したのってね、本当は菜箸じゃなくってこれなんだ。ちょっとだけ形状は似てるでしょ」
こんな状況下でもジェイはいたって気軽に話す。しいて言うならば、いつもより少しだけ口数が多かった。
「いつからこんな物騒なバイトをやるようになったんだ、ジェイ?」
サヴィトリは手を払い、嫌味っぽく唇を吊りあげた。
「バイトじゃなくてこっちが本業。っていうか家業? 少なくともひいひいひい爺さんの代から、肉屋と暗殺、両方やってる。ご先祖さんが作った莫大な借金とやらを完済するまでやめさせてくれないんだって。母さんと一番上の兄ちゃんは多分知らないけどね。動物も人間も、ばらすのに違いはないから重く考えるなって親父から教わったよ」
いつもどおりのへらへら顔からはその真意は読み取れない。
「半身がどうのこうのっていうのは、その何も知らないお兄さんのことか?」
「いや、大兄ちゃんじゃなくて小兄ちゃん。ちょっとヘマしちゃったんだ。自業自得とはいえ、兄弟だからね。これを機に、こんなアコギな仕事からも足を洗ってほしいし」
「アコギだという自覚はあるんだな」
「俺は別に人格が破綻してるわけじゃないからね」
「でも、金のためなら人を殺すんだろう」
「結果的にはそうなるかな。最初は本当にただの護送だったんだけど、世の中そんなに甘くないみたい」
「楽して儲けられる話なんて、今時子供だって騙されない」
「あはは、ですよねー」
サヴィトリとジェイは白々しく笑い合う。
それを合図に、攻防が再開された。
先に動いたのはジェイだった。まわして勢いをつけた分銅を投げつける。鎖は獲物に飛びかかる蛇のように素早く伸びた。
サヴィトリは近くにある木の幹に身を隠してそれをやり過ごす。分銅は木の表面をこそぎ取り、内側の白い部分を露出させた。
幹から顔だけを出してジェイの位置を窺うと、すでに鎌の間合いにまで迫っていた。サヴィトリは慌てて首をひっこめる。両手を口元のあたりに添え、綿毛を吹くように息を吹きかける。息は白く具現化・増殖し、まばたきの間に周囲にきらめく霧が立ちこめた。
攻撃は氷の弓にばかり頼っていたため、サヴィトリにはあまり術のレパートリーがない。氷術の才は人並みならぬものがあるとクリシュナに評されたが、それにあぐらをかいて大した努力をしてこなかった。できることなら今すぐ過去に戻って、だらけていた自分を蹴飛ばして活を入れてやりたい。
(性に合わないけど、とにかく逃げよう)
どの方向にむかっているのかわからないが、サヴィトリはひたすらに走った。ジェイの手からあの武器を奪う、あるいは無力化させなければサヴィトリに勝ち目はない。
だが、サヴィトリのすぐ目の前を鎖が通りすぎて行った。サヴィトリはぞっとし、慌てて足を止める。
夜である上に霧で視界が悪い。ジェイに見えているはずがない――そう思いこみたかった。
「ちゃんと見えてるよ、サヴィトリ」
サヴィトリの思いを打ち砕くように、ジェイは言った。
風を切る音が聞こえ、霧の一部が晴れる。投げられた分銅がサヴィトリに迫っていた。サヴィトリはとっさに左に避ける。
「あと、その癖も直した方がいいよ。すぐ左に避ける癖」
心臓のあたりを起点として、サヴィトリの全身がさっと冷たくなった。
鎖の軌道が変わっている。いや、最初から見誤っていたのかもしれない。緩い弧を描くようにしてサヴィトリにむかってきた。
分銅は服の袖をかすり、サヴィトリの腕に絡みついた。うっ血するのではないかというくらい締めあげる。直撃して腕が砕かれなかったのがせめてもの救いだった。
強い力で引き寄せられ、サヴィトリは足を滑らせる。そのまま地面に倒れこみ引きずられた。顔が砂利や枝などですれる。うめきや悲鳴は擦過音でかき消された。
「俺は地獄に落ちる予定だから、もう二度と会えないかも。さようなら、サヴィトリ」
サヴィトリが顔をあげると、どこか悲しそうな笑みを浮かべたジェイの顔が見えた。振りあげられた刃が月の光を照り返して冷え冷えと輝いている。




